40. 実家に帰らせて頂きます(後編)
夜、寝ようとしたところでドアにノックが響いた。
「……ルーナ、ちょっといいかしら」
「お母様? うん、どうぞ」
入ってきた母は、穏やかな微笑みを浮かべながらも、その瞳はすべてを見透かしているようだった。
「あなた、ギルバート様と何かあったのでしょう?」
「ギクッ……!」
図星を突かれ、ルーナは観念して事の経緯を話した。夫が格好良すぎて直視できないこと、指先にキスをされてキャパオーバーしたこと……。
一通り聞き終えた母は、こらえきれず「あははは!」と声を上げて笑い出した。
「お母様! 笑わないでください!」
「ふふ、ごめんなさい。でも、何にも興味を持てずにいたあなたが、こんなに綺麗になったのは、あなたの努力はもちろんだけど、ギルバート様のおかげでもありそうね。大丈夫、あなたがちゃんと受け入れられる日は必ず来るわ」
母は優しくルーナの手を握った。
「世間では死神だなんて言われているけれど、ギルバート様のこと、嫌いではないのでしょう?」
「うん……全然。死神どころか、私の前だとすごく優しくて。体調を崩した時も、付きっきりで看病してくれたし……」
(……あら、それはもう勝負はついているわね。あとはギルバート様の腕の見せどころって感じかしら)
母は心の中で、まだ見ぬ婿殿にエールを送るのだった。
翌朝。
最低限の荷物しか持ってこなかったルーナは、母からドレスを借りることにした。実家に残っていた昔のドレスは、痩せる前のサイズで今のルーナにはブカブカ。これは後で売りに出したほうが良さそうだ。
だが、母から借りたドレスは、今のルーナには少し胸元がキツかった。
「うぅ……ちょっと苦しいけど、着られないほどじゃない……かな? そうだ、今日は久しぶりに王都へ買い物にでも行こうかな!」
鏡の前で、母から借りたドレスのフィット感を確かめていたルーナが明るい声を上げる。しかし、その背後で着替えを手伝っていた古参の侍女・アンナは、眉間に深い皺を寄せていた。
「お嬢様……まさか、その格好で外出されるおつもりで……?」
「え、ダメ? ちょっと胸元が……タイトだけど、変じゃないでしょ?」
ルーナが首を傾げると、アンナはこらえきれないというように深いため息を漏らした。
「……少しはご自分の『今の魅力』というものに自覚を持ってください。今のあなたは、一年前にここを発った時とは別人なのですよ?」
アンナは、ドレスからはみ出さんばかりのルーナの豊かな曲線と、筋トレで引き締まった健康的な肌の輝きを指差した。
「そのキツすぎる胸元は、淑女の嗜みというよりは……もはや男性に対する宣戦布告です。ましてや今の王都には、不埒な輩も多いというのに……」
「えぇー、宣戦布告だなんて大袈裟だよぉ。ちょっと成長しちゃっただけだってば!」
ルーナは笑って受け流すが、アンナの懸念は正しかった。
かつての「陰気な悪役令嬢」の面影は消え、今のルーナは歩くだけで人目を引く、生命力に満ちた美女に変貌している。
(……ギルバート様が、一晩で仕事を片付けて血眼で追いかけてくるのが想像できますね…)
アンナは心の中で、まもなく到着するであろう「死神公爵」の嵐を予感し、せめてもの抵抗としてルーナの首元に、露出を抑えるためのレースのストールをこれでもかと巻き付けるのだった。
外では、一頭の馬が猛烈な勢いでスカーレット公爵邸の門へ滑り込んできた。
通常なら3〜4日かかる距離を、野営もせずわずか2日で駆け抜けたギルバートである。
泥を撥ね、息を荒くした彼の脳裏には、カイルの言葉が呪いのように響いていた。
『横から誰かに掻っ攫われますよ』
(ダメだ。もう俺は、お前がいないとこんなにも弱い人間になってしまった……!)
降り出した雨が、彼の焦燥感をさらに煽る。
「ルーナ! ルーナに会わせてくれ!!」
「なっ……ど、どなたですか!?」
門番が驚愕して槍を構えるが、男の放つ圧倒的な覇気に気圧される。
「すまない、ギルバート・フォン・ヴォルフラムだと伝えてくれないか……!」
「お嬢様! 旦那様が……ギルバート様がいらしています!」
執事の報告に、ルーナはティーカップを落としそうになった。
「へ!? な、なんで!? 手紙にも一週間実家に帰るって書いたのに!」
背後で、父と母が盛大なため息を漏らした。
「……『実家に帰ります』。それだけか?」
「あと、『探さないでください』って……」
「「…………我が娘ながら……」」
両親は揃って天を仰いだ。
「ギルバート様がおかわいそうね……とりあえず急ぎ応接室へお通しして」
と母が指示を出す。
応接室に向かうルーナの肩に、父と母が「ポン」と慈悲に満ちた手を置いた。
「……?」
状況が読めないまま、ルーナは恐る恐る応接室の扉を開けた。
キィ、と扉が開く音。
そこには、雨に濡れ、泥に汚れ、必死の形相でソワソワしている大型犬のような、あるいは獲物を探す獣のような夫がいた。
彼は、珍しくドレスを纏ったルーナの姿を目にすると、弾かれたように立ち上がった。
「ルーナ……!!!!! 良かった、無事だったんだな!」
思わず抱きしめようとするギルバート。しかし、ルーナは反射的にバババッと後ろに下がった。
「ギ、ギルバート様! なんでいらしたんですか!」
避けられたことに、ギルバートの顔が絶望に染まる。彼は部屋の隅へと逃げるルーナを追い詰め、その細い腕をしっかりと掴んだ。
「っ! 離してくださ――」
「……俺のことが、嫌になったのか」
「はい?」
「『探さないでください』だなんて……そういう事だろう。俺を捨てて、もう戻らないつもりだったんだろう!」
「そ、そんなわけな――」
言いかける唇は、強い抱擁によって塞がれた。
(ギャーーー!!!!! むりむりむり! 近い! 顔がいい! 重い! 胸板厚い!)
「頼む。戻ってきてくれないか。何かしてしまったのなら謝る。アルスもエルナも……そして俺も、もうお前じゃないとダメなんだ……!」
心臓が壊れそうなほどの鼓動が、重なった胸から直接伝わってくる。必死に縋るようなその声に、ルーナのパニックは最高潮に達していた。
「まってまって! 私、帰らないなんて言ってませんから!」
「……そうなのか?」
「はぁ……ちょっと、気持ちを整理したくて一週間だけ実家に帰ろうかなって思っただけなんですってば!」
ギルバートはポカンとした後、ようやく腕の力を緩めた。しかし、瞳の奥の独占欲の炎は消えていない。
「……それで、その『気持ちの整理』とやらは、もうできたのか?」
「ぐっ……それは(あなたが追いかけてきたせいで)できてないですけど!」
「……そうか。ならば、あと数日あるからな。その『気持ちの整理』に、俺も付き合おう。今日からは俺もここに泊まる」
「はい!?!?(余計に整理できないじゃない!!)」
ルーナが叫んだ、まさにその時。
絶妙なタイミングで、スカーレット家の老執事がノックし静かに扉を開けた。
「……失礼いたします。ギルバート様、湯浴みの準備が整いました。お着替えも用意させております」
「……あ、ああ。済まない」
ギルバートはルーナの腕を離すと、彼女を上から下まで、それこそ舐めるように一瞥した。そして、低く、熱を含んだ声で耳元に囁く。
「……ルーナ。その格好で、外には出るなよ」
「えっ?」
彼の視線は、母から借りて少しキツそうに強調されたルーナの胸元に注がれていた。
侍女のアンナが必死にストールを巻き付けて隠してくれたはずだったが、その薄い布地すらも、今のルーナから溢れ出す魅力と、ギルバートの鋭い独占欲を遮ることはできなかったらしい。
「っ!!!!」
顔を真っ赤にするルーナを置き去りにして、ギルバートは執事に案内され、悠々と風呂へと向かっていった。
(な、ななな……何今の……!?)
ガチャン、と扉が閉まる音を聞くと同時に、ルーナは耳をおさえてその場にへなへなと座り込んだ。
(ギルバート様に指摘されると、途端に恥ずかしくなってくるのは……なんでなんだろう)
顔を覆い、指の間から真っ赤な頬を覗かせた。
先ほど向けられた熱い眼差しと、耳元で囁かれた低音ボイスが脳内で無限リピートされている。
(……一週間の冷却期間のはずが、意味ないどころか、煮え湯に浸かってる気分だわ……)
ルーナは、熱くなった頬を冷ますように、しばらくの間その場から動けずにいた。
その日の晩餐。
昨日までの泥まみれの「死神」はどこへやら、完璧に身なりを整え、隙のない微笑みを浮かべたギルバートが席についた。
だが、ルーナの目は釘付けになった。
父から借りたであろう洋服が、彼には明らかに小さいようで、肩幅も胸囲も限界まで生地が引き絞られている。
今にもボタンが悲鳴を上げて弾け飛びそうなその姿は、ある種のアクションヒーローのような肉体美をこれでもかと強調していた。
(……お父様、そんなに華奢だったっけ!? ギルバート様が着ると、今にも『変身!』とか言って服を破り捨てそうな勢いなんだけど……! 背中の筋肉だけで布を裂きそう……!)
ルーナが一人で冷や汗を流している間にも、ギルバートは「極上の外面」を発動させていた。
「この度は、急な訪問を快く受け入れてくださり、心より感謝致します。……ルーナが寂しがっているのではないかと、居ても立ってもいられず駆けつけてしまいました」
(どの口が言ってるのよ! 寂しがってたのはそっちでしょ!!)
ルーナが心の中でツッコミを入れる間もなく、スカーレット公爵夫妻は彼の「極上の外面」にすっかり魅了されていた。
「いやぁ、ギルバート殿。娘をそこまで愛してくださるとは、父親冥利に尽きる!」
「本当に、お噂とは違って、なんて誠実で素敵な方なのかしら……」
死神の面影を微塵も感じさせない完璧な振る舞いで、ギルバートは一晩にしてスカーレット家の信頼を完全に掌握。ルーナの「一週間休みます計画」は、父の
「さあ、早く夫と共に帰りなさい」という一言で、あっけなく塵へと化した。
翌朝。
結局、なんの整理もできないまま、ルーナは馬車に乗せられていた。
「……ねぇ、ギルバート様。一週間って言ったじゃない」
「一週間分、一晩で仕事を片付けたからな。……帰るぞ、ルーナ。我が家へ」
隣で満足げに微笑む夫。
カイルへの伝言が「一言」だけだったことを、ルーナが骨身に染みて後悔するのは、この帰りの馬車内での「超・濃密な」お仕置きを受けてからのことだった。
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その頃、王宮の深奥。国王は玉座から、第二王子のルディウスを見下ろしていた。
「廃嫡にさせない方法が一つある。セレスティアを連れ戻してこい。国家の面子にも関わる」
「嫌だと言ったらどうするのですか。守護獣もいるのに。面倒だなぁ……」
王妃が冷然と言い放つ。
「その時は、ルーナマリアを連れてきなさい。愛妾にでもすればいいわ。公爵家の後ろ盾をもらうことで帳消しにしましょう。ただし、これ以上リリアに手網を握らせてはいけませんよ」
「は? 婚約破棄したルーナマリアをですか?」
ルディウスは鼻で笑った。その後、ルディウスは不機嫌を隠さずリリアの自室に転がり込んだ。
そこは、王宮内でも異彩を放つほど豪華絢爛な空間だった。元平民である彼女の虚栄心を満たすかのように、壁一面には金糸を贅沢に使ったタペストリーが掛けられ、床には隣国から取り寄せた最高級の絨毯が敷き詰められている。調度品の一つ一つにこれ見よがしな装飾が施された、いわば富の暴力とも言える部屋だ。
リリアが怪訝そうに眉を寄せると、ルディウスは刺繍入りの豪華な椅子に沈み込み、吐き捨てるように言った。
「ああ、父上からの命令だ。手段を選ばずセレスを連れ戻せってさ。……抵抗したら、あのルーナマリアを俺の愛妾にしろって。最悪だよ」
「愛妾!? 嫌よ!」
リリアの鋭い絶叫が、高い天井に反響した。その顔は怒りと屈辱で般若のように引きつっている。
「なによそれ! 私があの女を追い出すためにどれだけ苦労したと思っているの!? 泥を塗って、婚約破棄させて、ようやく手に入れたこの座を……! またあの女を呼び戻して、今度は愛妾にするですって!? ふざけないで!」
リリアの剣幕に、ルディウスは気圧されるどころか、面倒そうに鼻を鳴らした。
「うるさいな、元はと言えば君が国庫を空にしそうなほど贅沢をして、王族としての勤めも果たさないからだろう? 父上も母上も、君の浪費にはもう愛想を尽かしているんだ。君のせいで俺の廃嫡危機なんだぞ」
「なんですって……! 王子妃なんだから、身の回りのものを豪華にするのは当然でしょう! あなただって最初は、機嫌を取るためにいくらでもプレゼントを贈ってくれたじゃない! 今更それを浪費だなんて……!」
「君がそんな女だとは思わなかったんだよ!」
ルディウスは立ち上がり、リリアを指差して吐き捨てた。
「清楚で献身的な聖女だと思っていたのに、いざ結婚してみればこのザマだ。宝石だのドレスだの、君が贅沢三昧をするせいでどれだけ俺が突き上げを食らっていると思っている。……スカーレット家の財力があればすべて解決する話なんだ。文句があるなら君が大人しくルーナマリアを受け入れろ!」
「なっ……!」
リリアは言葉を失い、あまりの屈辱に全身を震わせた。
(なんなの、こいつ……。私が『転生知識』でこいつを有利にしてやったことも忘れて……! 結局、私を道具としか思ってないのね!?)
「もういいや。……全部、消えちゃえ。あの女も、辺境も――全部。」
リリアはルディウスから視線を逸らし、冷酷な瞳で窓の外を睨んだ。
夫も、私の邪魔ばかりする辺境領も、そして何よりルーナも。自分の完璧な人生を汚す存在は、すべて消えてしまえばいい。リリアの中で、どす黒い怨念が鎌首をもたげていた。
ギルバートとルーナが馬車で仲睦まじく帰っている頃、辺境領に一通の手紙が届いた。
差出人の紋章を確認したカイルは、深いため息をついて天を仰いだ。
「はぁ……嫌な予感って、当たるんですよね……。ようやく落ち着いたと思った矢先に……」
どんなお仕置があったんでしょうねぇ




