39. 実家に帰らせて頂きます(前編)
実家イベントが全くなかったことを今更思いだしました…
海から戻った一行を待っていたのは、沈みゆく夕日に照らされた公爵邸の穏やかな光景だった。馬車が車止めに止まると同時に、留守を預かっていたマキナと乳母のマーサが、安堵した表情で駆け寄ってくる。
「おかえり~! 楽しかった? ……って、ルーナ、その子は誰?」
マキナが不思議そうに指差したのは、馬車から降りるなり、見たこともない豪華な石造りの建物を口を半開きにして見上げている、青い髪の少女だ。
「はじめまして~! アタシ、マリーナ! 人魚で~す! ブイッ」
少女が屈託のない笑顔で指を立てると、あまりに軽すぎる挨拶に、ルーナは思わず隣に立つシェロンに視線を送った。
(ノリが軽いな……。なんだろう、この既視感……)
「なんだよルーナその目は! 一緒にするな!」
シェロンが図星を突かれたように顔を赤くして吠える。
(キャラ被りしてる自覚、やっぱりあったんだな、シェロン……)
「ははっ、またワケありな子が増えたってこと? ボクはマキナだよ! よろしくね、マリーナ」
「マキナ! マリーナ! 似てるね、名前! フフフ! よろしく!」
そんな賑やかな挨拶が交わされる中、同行していたアレンとリオンが馬を並べてルーナたちに向き直った。
「では、俺たちも帰りますね! また誘ってください!」
「ええ、今日は本当にありがとう! お疲れ様!」
ルーナが手を振ると、二人は爽やかに笑って去っていった。
「マーサ、マーサ! 海、すごかったんだよ! カニさんがいてね!」
「おっきい龍のシェロンが女の子を運んできたんだ!」
アルスとエルナがマーサのスカートに抱きつき、口々に今日の冒険を報告する。
マーサは柔和な笑みを浮かべ、二人の頭を優しく撫でた。
「はいはい、お二人とも。続きはお部屋でゆっくり伺いますから、まずは中に入りましょうね」
玄関先ではカイルが今日の「戦利品」を次々と並べていた。潮の香りが漂うなか、料理長がその獲物を見て絶句する。
「こ、これは……奥様! 魔物だと言って誰も食べたがらないタッコとイッカじゃないですか!」
料理長が腰を抜かさんばかりに驚く横で、カイルはこれ以上ないほどのドヤ顔で胸を張った。
「食べられるらしいですよ。私の、戦いの成果です」
「そうそう。絶品なんだから! お酒を飲む人なら、絶対に気に入ると思うな~」
ルーナが太鼓判を押すと、酒飲みの料理長とマキナの喉が同時に「ゴクリ」と鳴った。
「よし、調理場へ向かおう。今すぐにだ!」
「楽しみだねぇ!」
「あ、マリーナってお魚食べることへの拒絶感とか……ない感じ?」
ルーナが尋ねると、マリーナは不思議そうに小首を傾げた。
「え? 全然! だってアタシ達も普通に食べるもん」
(そ、そうなんだ~……よくわかんない価値観だな……)
意気揚々と消えていく料理長たちを見送り、ルーナも自然とその後について行こうとした、その時だった。
「ルーナ。帰ってきたばかりだろう。少し休んでは——」
ギルバートの低い声が背後から降り注ぐ。彼の手が労わるようにルーナの肩へ伸ばされた。だが、その指先が触れる直前、ルーナは「っ!」と弾かれたように身を翻した。
「わ、私はまだまだ大丈夫だから! ギルバート様にも美味しいの作るね! 待ってて!」
足早に逃げ去るルーナの背中。夕闇に消えていく彼女を見送るギルバートの手は、行き場を失ったまま空を切り、やがて白くなるほど強く、ギュッと握りしめられた。
ギルバートの胸の奥に、言いようのない不安が静かに広がった。
その夜。邸が香ばしい匂いに包まれる中、執務室ではギルバートが重苦しい沈黙の中にいた。
「……ルーナの様子がおかしい。避けてるな、俺を」
書類を整理していたカイルが、手を止めて顔を上げた。
「へ? 海で何か怒らせるようなことでも?」
「いや……あれは怒りというより……拒絶に近い」
困惑と焦りが混じった主の声を聴き、カイルは深いため息をついた。
「……怖いんだ、カイル。もう彼女のいない生活には戻れない。ルーナがいなくなったらと思うと……俺は今度こそ壊れてしまう」
ギルバートは机に拳を置き、絞り出すような声で続けた。
「だからこそ、この想いを彼女にぶつけた時、受け入れてもらえなかったらと思うと……怖いんだ」
「……ギルバート様の愛はだいぶ重めですからねぇ……」
カイルは呆れたように肩をすくめたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「でも、奥様はあきらかに旦那様に好意を抱いているようにも見えますし、受け入れる度量はありそうに見えますがね」
カイルは書類を机に置くと、主の目を真っ直ぐに見据えた。
「拗れる前に解決することをオススメします。お気持ちは痛いほど分かりますが、そうやって足踏みしている間に、横から誰かに掻っ攫われますよ。ルーナ様は、それほど魅力的な女性です。あなたの側近であり、友でもある私が忠告致します」
「……わかっている」
ギルバートは引き出しから大切にしまってある姿絵を取り出した。そこには幸せそうに微笑むアルスとエルナの本当の両親が描かれている。
「姉さん、義兄さん……」
「俺は――愛することを、許されるだろうか……」
そう呟いたギルバートの問いに、応える声はもう聞こえない。静まり返った執務室には、ただ夜風がカーテンを揺らす音だけが虚しく響いていた。
* * *
厨房でタッコとイッカを捌きながら、ルーナの手は止まっていた。
(……ダメだ。ギルバート様の顔を見ると、心臓が変なリズムを刻んで特撮ソングどころじゃない。あの至近距離、あの眼差し……無理無理無理!!)
保育士時代、園児の喧嘩の仲裁は慣れっこだったが、自分の恋愛感情の制御に関しては新人以下だった。
「よし……一旦、物理的に距離を置こう。冷却期間だ。クールダウンだ!」
そうと決まれば、特撮オタクの行動力は凄まじい。
ルーナは調理を料理長に任せると、自室へ駆け戻り、最低限の荷物をカバンに詰め込んだ。
「マーサ、アルス、エルナ。ちょっと実家(スカーレット公爵邸)で考えたいことがあるから、一週間ほど帰ってくるね!」
「えっ、おかあさま? 今からですか?」
「お父様には言ったの?」
不安げな双子の頭を撫で、ルーナは必死に笑顔を作った。
「大丈夫、ちょっとした里帰りよ。ギルバート様には……カイルさんに伝言(手紙)を預けるから!」
ルーナは机に向かい、震える手で羊皮紙に一筆書き殴った。
『急ですが、一週間ほど実家に帰ります。探さないでください。 ルーナ』
(……よし。これでヨシ!)
今のルーナには、これが「少し頭を冷やしてくる」というニュアンスにしか思えていなかった。しかし、世間一般、ましてや重すぎる愛を抱える夫に対して、この文面がどれほどの破壊力を持つか、今の彼女は知る由もなかったのである。
翌朝。
執務室のドアが、ノックもなしに叩き開けられた。
立っていたのは、顔面蒼白を通り越して、もはや「死神」の二つ名に相応しい絶望を纏ったギルバートだった。
「……カイル。これは、何の冗談だ」
ギルバートの指に握られているのは、先ほどカイルが届けたルーナからの手紙。
カイルは「手紙がどうかしたんですか?」と内容を読み、文字を目にした瞬間に凄まじい冷や汗を流した。主君のあまりの気迫に、思わず後ずさる。
「ま、まさか……こんな突然、実家に帰るとは……」
「しかも『探さないでください』だと……?」
羊皮紙には、短い言葉だけが乱暴に書き殴られている。だがよく見れば、インクの滲みや、書き直した跡がいくつも重なっていた。
——まるで、何かを書こうとして、何度も消したかのように。
ギルバートの声が、地を這うような低音で響く。
その瞳は完全に光を失い、周囲の気温が数度下がったかのような錯覚さえ覚える。
「俺が……海で何か、取り返しのつかない事をしたのか? やはり水着選びに拘りすぎたのか? それとも選んだ水着を見せびらかしたかったのか……いや、でもあの姿はさすがに――」
「旦那様、落ち着いてください! 椅子が! 椅子がー!!!」
メキメキ、と不吉な音を立てて、執務室の高級な椅子が真っ二つに折れた。
ギルバートは、ルーナが「自分の気持ちを整理しにいった」とは微塵も思っていなかった。「愛想を尽かされ、自分を捨てて逃げ出した」という、被害妄想に近い絶望が、彼の脳内を支配していたのだ。
「馬を出せ。今すぐにだ」
「一週間と言ってますから! せめて三日は待ちましょう! 今追いかけたら本当に嫌われますよ!」
カイルの必死の制止により、即座の追撃は免れたものの、ヴォルフラム公爵邸内は「奥様が家出した」という激震で、かつてない暗雲に包まれることとなった。
一方その頃。
実家の馬車に揺られるルーナは、のんきに窓の外を眺めていた。
「ふぅ……。久しぶりの実家楽しみだなぁ!お父様とお母様に甘えて、一週間ゆっくり次の武器の構想でも練ろうっと!」
この一通の手紙が、大惨事を引き起こすことなど、ルーナはこれっぽっちも予想していなかったのである。
道中、森の街道でいくつかの魔物が行く手を阻んだが、護衛を願い出てくれた騎士数人が華麗にそれらを討伐してくれた。ソードルクシアの恩恵もあるとは思うが、やはりヴォルフラムの騎士は強い。彼らの頼もしい背中を見送りながら、馬車はスカーレット公爵邸へと滑り込んだ。
スカーレット公爵邸の重厚な門が開き、見慣れない馬車が滑り込んでくる。玄関先で出迎えた老執事は、無表情を保ちつつも困惑を隠せなかった。
「先触れもなしに、一体どなた……で……」
馬車から降りてきた女性の姿を見て、執事は石像のように固まった。かつての陰気さは微塵もなく、陽光を跳ね返すような健康的な輝きを放つ貴婦人。
「ただいま! お父様、お母様!」
「ルーナ!!!」
知らせを聞いて駆け下りてきた母が、感極まった声を上げる。
「久しぶりね! 一年ぶりくらい? ……見違えるほど綺麗になって、まあ!」
「いやぁ……若い頃のお母さんにそっくりだ!」
父であるスカーレット公爵も、目尻を下げて相好を崩した。
「なんだか、よく分からんトレーニングとやらをやり始めた時は、婚約破棄のショックで頭がおかしくなったのかと思ったが……。健康というのは、人をここまで変えるものなのだな」
「失礼ね、お父様! 私、あの時から本気だったんだから」
ルーナは茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
「そういえば、あの時送った『種』はどうなったんだ?」
「あぁ、あれね! 今や我が領民たちが、血眼になって育ててるんだよ! 王都で今、爆発的に売れている美容ドリンクの原料になるからね!」
「美容ドリンク……まさか! あの『アオジル』とかいうのもお前が!?」
執事が銀盆に乗せて持ってきたのは、ルーナが見慣れた——というか、自分でデザインした「銀の巨人が親指を立てている」シュールなパッケージだった。
「あ、それそれ! お母様とお父様も飲んでるの?」
「ああ、今やこれを知らない貴族はいないんじゃないか? 私も最初は半信半疑だったが、まさかルーナが開発していたとは……」
「えへへ、それで儲けたお金で領地を盛り上げてるってわけ! 雇用も増えたし、みんな元気だよ」
父はまじまじと娘を見つめ、深く頷いた。
「すぐに泣きついて帰ってくるかと思ったが……。手紙にあった通り、本当に、領主夫人としてしっかりやっているんだな」
「うん! めちゃくちゃ楽しいよ!」
ルーナは心の底から答えた。——が、そこで母がキョトンとして尋ねてくる。
「……じゃあ、なんで急にうちに帰ってきたの? ギルバート様はどうされたの?」
「えっ? あ、それは……さ、さすがに一年に一回くらいは、顔を見せたほうがいいかなって思うじゃない!」
本当のこと——「夫がイケメンすぎて直視できず、情緒不安定になって逃げてきました」なんて、口が裂けても言えなかった。
「……それもそうね! 最近、ルーナの青汁のおかげでお肌のツヤがとても良くなったのよ。今日のディナーもお野菜をふんだんに使っているから、楽しみにしていてね」
「ありがとう、お母様!」
久しぶりに触れる実家の暖かさと、野菜たっぷりの夕食。
ヴォルフラム邸での「戦隊ヒーロー養成所」のような騒がしさも大好きだけ得れど、今はただ、この穏やかな空気の中で自分の「乙女心」という名のバグを修正したかった。
(……一週間。一週間あれば、きっと冷静になれるわ。ギルバート様だって、きっとお仕事が忙しくて、私の不在なんて気にしてないはずだもんね!)
――一方その頃。
ヴォルフラム邸では、愛妻の不在に絶望したギルバートが、「仕事を一週間分、一晩で終わらせれば明日には追いかけられるな」という、明らかに間違った方向の超人的集中力を発揮していた。
「……カイル、行ってくる」
夜明け前、執務机に積まれていた山のような書類がすべて片付いた音と共に、ギルバートが立ち上がった。その瞳は寝不足など微塵も感じさせない、獲物を追う獣のような鋭い光を放っている。
「……旦那様。奥様が発たれてから、まだ一晩しか経ってませんが」
カイルは手元の懐中時計を一瞥し、深いため息をついた。
「今追いかけるのは、さすがに早すぎるのでは?」
「馬を走らせたら、着く頃には二日は経つ」
「……計算が合いません。通常、スカーレット公爵邸までは馬車で3〜4日はかかる距離ですよ」
ギルバートは迷いなくマントを羽織り、剣を腰に帯びた。
こうなったら、彼を止められる人間はこの世に一人しかいない。そしてその唯一のストッパーは、今まさに「探さないでください」という書き置きを残して実家に逃亡中なのだ。
カイルは、主君の背中から立ち上る凄まじい執念を前に、説得を諦めた。長年の付き合いで、一度「ルーナ不足」に陥ったこの男が、理屈で動かないことは嫌というほど知っている。
「……分かりました。せめて、途中で倒れないよう携帯食料を持って行ってください。それと、公爵邸の門を壊して侵入するのだけは、外交問題になるのでお控えを」
カイルの忠告を背中で聞き流しながら、ギルバートは嵐のような勢いで厩舎へと向かった。
彼の頭の中にあるのは、ただ一つ。
(待っていろ、ルーナ。……俺から逃げられるなどと、思わないことだ)
暗闇を切り裂くような蹄の音が、静まり返ったヴォルフラム邸に響き渡った。




