灯る光
ちょうど、その時だった。
「――失礼しまーす」
保健室をノックする音がして、扉が開いた。入ってきたのはスーツ姿の、ボブショートの髪の若い女性だった。榊原先生より少し年下な感じだ。穏やかな笑みを浮かべていて、どこか親しみやすい雰囲気を醸し出している。その顔を見た瞬間、榊原先生の表情が少しだけ和らいだように見えた。きっと知り合いなのだろう。
「おや、中野先生、わざわざ、どうしてここまで?」
「ええ。ちょっと渡したいものがありましてね。体育教官室に寄ったら、授業前に生徒が動けなくなって、今、保健室にいるって聞いたので」
中野先生と呼ばれた女性は私の方に目を向けた。彼女の柔らかな笑顔が、私に安心感を与えてくれる。
「これ、頼まれていた書類です。この後、すぐに出なくちゃいけないので、今のうちに渡しておこうと思って」
そう言って、クリアファイルを榊原先生に手渡す。榊原先生は受け取ると、中をパラパラと確認した。
「ありがとう。助かったよ」
その時、榊原先生の視線が中野先生の髪に向けられた。
「随分と濡れているみたいだけど、どうしたんだ?」
榊原先生が指摘すると、中野先生は少し照れたように微笑んだ。確かに中野先生の髪は、しっとりと水分を含んでいるように見える。スーツの襟元も、ほんのり湿っているようだった。
「ああ、これですか。さっきの授業で、生徒と一緒に泳ぎましてね。やっぱり三年生になると、速いですね」
「おいおい、今から大事な大学の入試説明会に行くんだろ? 泳いでから出張だなんて、随分と元気だな」
榊原先生は、中野先生を見ながら呆れたように言った。
「だって、こうも毎日、進路、進路、で出張続きじゃ、自分の専門が分からなくなりますからね。たまには体を動かさないと。それに何より、泳ぐって、楽しいじゃないですか」
私は思わず中野先生の方を見た。先生は悪戯っぽく片目をつぶってみせる。その姿は、学校の先生というより親しみやすいお姉さんのように見えた。
出張の前に生徒と一緒に泳ぐなんて、かなり変わった人なのかもしれない。それでも、「泳ぐって、楽しいじゃないですか」という言葉だけは妙に心に残った。私も昔は、そんなふうに思っていた気がしたからだ。
「まったく、相変わらずだな、中野は。あたしも高三の学年にいた時は入試の説明会の出張もあったが、それでも出かける前に泳ぐなんて余裕は全くなかったな」
榊原先生は肩をすくめて笑った。そのやり取りはどこか気楽で、長い付き合いの相手同士のように見えた。
「あ、そうそう、動けなくなったという生徒さんは大丈夫ですか?」
「ああ、軽い貧血だ。心配ない」
「そうですか。無理はいけませんよ。ゆっくり休んでくださいね」
中野先生はそう言って、私の方にも視線を向けた。目が合うと、彼女はふわりと微笑んで、小さく会釈してくれた。私も慌てて頭を下げる。
「じゃあ、行ってきますねー」
中野先生が保健室を出て行くと、榊原先生は少し笑みを浮かべたまま、クリアファイルを机に置いた。
「……騒がしくてすまなかったな」
「いえ……」
私は首を横に振った。むしろ、中野先生の明るい雰囲気は、張り詰めていた気持ちを少し和ませてくれるようだった。
「中野は、あたしの高校・大学の後輩でもあってな。彼女も、あたしと同じ保健体育の教師なんだ」
榊原先生が説明してくれる。それであんなに気安い雰囲気だったのだろう。それにしても、同じ体育の先生といっても、あんなに穏やかで優しそうな人がいるのかと思う。今までの体育の先生とはずいぶん違っているように思えた。
「中野先生って、いつも、ああいう感じなんですか?」
私は恐る恐る尋ねた。
「ああ、いつもあんな感じだな。ちょっと天然なところがあってな。マイペースだし、誰とでもすぐ打ち解ける」
榊原先生は誇らしそうだ。
「それでいて、体育教師としても優秀なんだ。スポーツの指導も上手いし、生徒の面倒見もいい」
榊原先生が中野先生を高く評価していることだけは、私にも伝わってきた。
「どこの部活動の顧問をしているんですか?」
私は興味本位で尋ねた。さっきの会話からして、きっとスポーツ系の部活だろうと思ったからだ。
「ああ、それがな」
榊原先生は少し含み笑いをした。
「驚くなよ。実は、美術部の顧問なんだ」
「え……美術部ですか?」
思わず聞き返してしまう。出張前に生徒とプールで泳ぐようなアクティブな人が、美術部の顧問とは想像できなかった。
「学校としては運動部の顧問を任せたかったんだ。実際、本人がやる気になれば強いチームを作れるだろうしな」
榊原先生は楽しそうに言った。
「だが本人が断固として断った。授業で毎日スポーツを教えているんだから、放課後くらいは別のことをしたい、ってな」
「そうなんですか」
「ああ。それに中野は、スポーツは楽しむことが大事だと考えている。勝ち負けも大切だが、それだけじゃない、とな」
榊原先生は少し笑った。
「だから案外、美術部の顧問も性に合っているんだろうな」
スポーツは楽しむことが大事。そう語っている中野先生の姿が思い浮かぶ。出張前にもかかわらず、生徒と一緒に泳いでいた。きっと水泳そのものが好きなのだろう。
「中野先生って、泳ぐのがお好きなんですか?」
私が尋ねると、榊原先生は大きく頷いた。
「ああ。それに、なんでも水泳関係の学会の会員だそうだ。競技水泳だけでなく、水泳の歴史とか文化とか幅広く研究してる団体らしい。一度、書いたという論文を読まされたこともあったな。もっとも、あたしにはチンプンカンプンだったが」
「そうなんですか……すごいですね」
まさかそんな一面があるとは思わなかった。見た目はふんわりとした優しいお姉さんなのに、意外なところで専門家なのだ。しかも「チンプンカンプンだった」という榊原先生の感想がなんだかおかしくて、少しだけ心が軽くなった気がした。
中野先生。
ほんの少し言葉を交わしただけだったが、とても穏やかで親しみやすい人だった。出張前だというのに生徒と一緒に泳ぎ、「泳ぐって楽しいじゃないですか」と笑っていた。もし、あんな先生が多香美女子校にいたらどうだっただろう。そんなことを思ってしまう。
そして、そんな中野先生と気安く話していた榊原先生。さっき私を気遣ってくれた様子が思い出される。
榊原先生は、ベッドのそばに腰掛けたまま、黙って外の景色を眺めている。その姿が頼もしく感じられた。
(話したい)
そう思い至った時、なぜか迷いはなかった。この人に打ち明ければ、何かが変わるかもしれない。ほんの少しでもいい。この息苦しさから解放される糸口が掴めるかもしれない。
私はゆっくりと深呼吸をして、意を決して口を開いた。
「あの、先生……」
「なんだ?」
榊原先生は、まっすぐに私を見つめていた。その瞳は、決して咎めるようなものではなく、純粋に私の言葉を受け止めようとしているように見えた。そのまっすぐな視線が、少しだけ怖かったけれど、同時に、信じてもいいのかもしれない、という予感がした。
私は、少し俯きながらも続けた。
「私が、体育の授業に……特に水泳の授業に苦手意識を持ってしまっている理由について……少しだけお話しさせていただいても良いでしょうか?」
「もちろん、話してもいいぞ。でも、つらくなったら、いつでもやめていいぞ」
榊原先生が穏やかに言ってくれた。
今まで誰にも話していなかったこと。胸の奥に押し込めていたこと。私は途切れ途切れになりながらも話し続けた。
言葉に詰まることもあった。涙が滲んで声が出なくなることもあった。それでも榊原先生は急かさなかった。ただ静かに耳を傾けてくれていた――。
話し終えた時、私は大きく息を吐いた。長い間、胸の中に沈んでいた重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
「芦川、よくここまで頑張って、うちの学校を選んでくれたんだな……」
榊原先生は静かに言った。
「大変だったろう」
その一言で、急に涙があふれ出てきた。あの日以来、こんなふうに泣いたことはなかった。
つらくなかったからではない。泣いてもどうしようもない。いつの間にか、そう思い込むようになっていたのだ。
声にならない嗚咽がこみ上げる。つらいからなのか。それとも、ようやく安心できたからなのか。
自分でもよく分からなかった。ただ、今まで閉じ込めてきたものが一気に溢れ出したのは確かだ。
榊原先生はそっと私の背中に手を添えた。温かい手のぬくもりが、じんわりと伝わってくる。
「芦川」
私は涙で滲む視界のまま顔を上げた。
「もう無理しなくていいからな」
先生はそれだけ言った。その言葉に、私はまた、子どものように泣きじゃくった。榊原先生は私の隣に寄り添い、静かに見守ってくれる。その無言の時間が、今の私には何よりも優しく感じられた。




