気になる新入生
芦川が更衣室で動けなくなった日から、十日ほど過ぎた。
週末の夜、あたしは馴染みの居酒屋の個室で、後輩の中野と杯を交わしていた。この店は、個室と個室の間が空いているので、面倒な話をしても漏れない。あたしはラフな格好だが、中野は今日も大学の説明会の帰りということでスーツ姿だ。他愛ない世間話が一段落したところで、あたしは言った。
「なあ中野」
「はい? 先輩、どうしました?」
「お前があたしの後輩だと聞くと、みんな驚くんだ。そして、『だから、中野先生、ああなのですね』だとか、『鬼のサカキにしごかれて、可哀そうに』とか言うんだよ。体育祭の準備をしていた時だって、あたしが、お前にリレーのバトン、取りに行ってくれって頼んだだけなのに、お前のクラスの女子生徒たちが『中野先生、あんまりしごかないでくださいね』って訴えてきたんだぞ」
私の訴えを聞いても、中野はまったく同情する様子がない。
「へー、そうなんですか? 私も、榊原先生が先輩だというと、なぜか、みんな、心配してくるんです。『先生、よくあの榊原先生のところにいたのに、生きてたな』とか、『すごいな、お前は。榊原先生にしごかれて、壊れなかったなんて』とか。でも、壊れてたら、ここにいないじゃないですか」
「みんな、あたしをなんだと思っているんだよ……」
わざとらしく拗ねた口調で言うと、中野はますます面白そうに笑った。
「みんな、先輩への愛情表現ですよ。先輩は愛されキャラですから」
「愛されキャラ?」
「みんな、先生のことが大好きなんですよ」
「それでこの扱いか。まったく……」
あたしはグラスに残っていたビールをぐいっと煽った。まあ、悪気があって言っているわけじゃないのは、本当はちゃんと分かっている。生徒たちも何だかんだ言いながらついてきてくれるし、中野とも昔からこんな調子だ。
「それにしても、私も嬉しいですよ。先輩にこうして誘ってもらえるなんて」
中野は相変わらずニコニコしている。こいつのこういう屈託のなさが、周りの人間を惹きつけるのだろう。
「嬉しいもんか。まったく……」
そう言いながらも、あたしの口元も少し緩んでいるのを感じた。
その時、ちょうどよく店員が新しいビールを持ってきてくれた。タイミングがいい。
「あ、すみません。もう一杯お願いします」
中野が追加の注文をする。店員が去っていくのを見送る。グラスを手に取り、一口飲んだ。
さて。
そろそろ、今日呼び出した本当の理由を話すか。
「先日、お前が保健室まで訪ねてきた時に、寝ていた芦川もそうだった。あたしがお前と普通にしゃべっているのを、すごく不思議そうな顔をして見ていた。あたしの後輩だというと、とても驚いていた」
「まあ、そうでしょうね。先輩、生徒の前ではいつも厳格ですから」
中野は苦笑した。
「芦川さんでしたっけ。多香美女子中学から来た子ですよね。確か、先輩が前から少し気にしていた……」
「ああ」
「でも、いい子みたいじゃないですか。天文部に入ったそうで、うちのクラスの木島が『かわいい後輩が入った』って喜んでました」
あたしも中野も同じ体育教師だが、あたしは高一、中野は高三を担当している。
「そうなんだ。学校生活ではこれといった問題はない。人間関係も良好だ。県外の私立中学から来た割には、生徒とも教師ともすぐ打ち解けている」
あたしはそこで一度言葉を切った。
「でもな。あたしの体育の授業の時だけは、いつもどこか距離を置いている感じがしていたんだ」
「先輩って、意外と乙女なんですね。でも、評判の『鬼のサカキ』なんですから、近づきたがらない生徒がいるのも当然でしょう」
中野はグラスを傾けながら、いかにも面白そうに言った。こいつは昔から、こういう時にすぐ人をからかう。
「茶化すなよ。確かに慣れない一年生なら用心することもあるだろう。でも、芦川の場合は最初から違ったんだ」
「違った?」
「ああ。警戒しているというより、怯えているんだ。まるで、あたしじゃなく、あたしの向こうにいる誰かを見ているみたいにな」
あたしはグラスを置いた。
「そういうところがあるから、あたしも芦川には特別何か言わないようにしていたんだ。ところが、その警戒心が少しも薄れない。むしろ、ひどくなっているように見えた」
体育の授業での芦川の姿を思い出す。
あたしと目が合うと、すぐに視線を逸らす。近くを通るだけで身体が強張る。話しかけても、まともに顔を上げようとしない。
だが、本来はそんな生徒じゃない。他の教師とは普通に話しているし、女子生徒たちと談笑している姿も見かける。隣のクラスにいる幼馴染の佐藤とも、何の屈託もなく話している。女子校出身者によくある引っ込み思案とも違う。それなのに、あたしに対してだけは頑なに壁を作っていた。だからこそ、あたしも無理に踏み込まないようにしていたのだった。
「でも、それって、先輩の考えすぎじゃないですかね。高校生にもなれば、別に特に嫌いというわけではなくても、合う人・合わない人、距離を置きたい相手というのはありますからね」
確かに、そういう考え方もあるだろう。あたしも自分の考え過ぎかもしれないと思おうともした。それでも、どうしても引っ掛かるのだ。
「芦川は多香美女子中学の時、体育の授業中か水泳部で、何か大きなトラブルがあったんじゃないかと思っていたんだ」
「どういうことですか?」
「多香美女子の水泳部は名門だ。芦川はそこでかなり優秀な選手だったらしい。それなのに、水泳部には入らなかった」
「でも、それってそんなに気にすることですかね? 中学では好成績でも、高校では違う部活動をする子って、けっこういますよ」
中野は肩をすくめた。
「うちの卒業生だって、大学では全然違うことに目覚めたって子はたくさんいますし、先輩のバレー部だってそうでしょう?」
中野は簡単には納得しない。こいつは普段はふわふわした顔をしているくせに、時に妙に筋の通ったことを言う。
「問題はそこじゃないんだ。長谷川先生が水泳部の勧誘に来た後でのことだ。芦川は一度断った後、長谷川先生のところへやって来て、どうして自分が水泳をやっていたことを知っているのかと尋ねたんだ。そして、『中学の顧問が悲しむから、自分のことは伝えないでほしい』と頼んでいる」
「……それは確かに、ちょっと変かもしれませんね」
今度ばかりは中野もすぐには反論しなかった。
「だろう」
あたしは頷いた。
「なんでわざわざそんなことを確認しに来るんだ? それに、『顧問が悲しむから伝えないでほしい』なんて言い方も引っ掛かる」
「引っ掛かるって?」
「ああ。普通なら『もう水泳はやりません』で終わる話だろ。それなのに芦川は、卒業した学校の顧問に、なんでそこまで気を遣うんだ?」
「……なるほど」
中野は腕を組む。
「先輩が言いたいのは、その水泳部の顧問とは合わなかったとかいうことですかね。まあ、人間同士だから、そういうこともあるでしょうし。でも、なんで、そこまで気にすることですかね? ところで水泳部では優秀だったということですが、どの程度だったんですか?」
「多香美女子中の水泳部という時点で、まず、一段上のレベルだ。しかもキャプテンだ。全国レベルの大会にも何度か出場している」
「へえ! それはすごいですね」
中野は素直に驚いている。
「そうだ。成績だけなら、水泳推薦でそのまま高等部へ進む道もあったし、他校から声が掛かってもおかしくないレベルだった」
「でも、芦川さんは途中で勉学に目覚めた。顧問はそれを引き留めようとする。そして二人は衝突した、ということじゃないでしょうか」
「それはあり得る」
あたしはグラスを置いた。
「ただな、うちの学校は推薦入試もある。部活動の実績は評価されるが、顧問の推薦が必須というわけでもないし、その競技を高校で続ける義務もない。うちは進学校だからな」
「そうですね」
「実際、中学での実績を使って入学し、高校では別の部活に入る生徒もいるし、勉強に専念する生徒だっている」
「……」
「なのに芦川は、そうしなかった。断然、有利な推薦入試は使わずに一般入試で入ってきたんだ」
あたしは中野のほうを見た。
「つまり、あいつは水泳そのものに、絶対に関わりたくないという強い意志があったんじゃないか、と思ったんだ」
「……なるほど」
中野はゆっくり頷いた。
「それでも、先輩は、芦川さんに気をかけすぎじゃないですか」
「いや。納得できないことはまだあるんだ」
あたしはビールを一口飲み、話を続けた。
「芦川の戦績だ」
「戦績?」
「ああ。気になって調べてもらったんだが、入学してから中三の夏まではずっと、順調だった。県大会や地区大会でも上位に入るのが当たり前だったらしい」
「さすがですね」
「ところが、中三の夏の大会を境に急に成績が下がった」
中野の表情が少し変わった。
「下がった?」
「それも尋常な下がり方じゃない。今まで入賞して当たり前だったのが、突然、地区大会の予選落ちばかりになった。そのまま低空飛行のまま活動を終えている」
「それって、ケガとか病気とか……?」
「あたしも最初はそう思った」
あたしは首を横に振った。
「だが、入学時に提出された書類にも、そういうことは一つも書いていない。今まで順調だった選手が、中三の夏の大会から、何の理由もなく結果を出せなくなっている。そりゃあ競技を続けるのが急に嫌になったとか、スランプで落ち込むことだってあるだろう。それでも芦川の記録の落ち方は不自然だ。別人の記録に差し替わったのかと思えるくらいなんだ」
あたしはもう一飲みして、話を続ける。
「そしてだ、中学での活躍を考えれば、長谷川先生に対するあいつの態度が改めて不自然だということになる」
「どういうことですか?」
あたしは指を一本立てた。
「多香美女子校水泳部は私立の強豪だ。ほとんどの生徒はそのまま高等部へ進学するし、水泳部も継続する。うちとは県も違うし、両校の水泳部に直接のつながりもほとんどない。芦川ほどの選手なら、その程度のことは当然分かっている」
「なるほど」
「つまり、本来なら芦川が心配するような状況じゃないんだよ」
あたしは中野を見た。
「それなのに、あいつは長谷川先生のところへ確認に行った。どうして自分のことを知っているのか、と」
「……」
「そのうえ、『顧問には伝えないでほしい』とまで頼んだ」
あたしは小さく息を吐いた。
「だろ。普通じゃないことが多すぎるんだ」
あたしはグラスに残っていたビールを飲み干した。
「中三での急落、水泳への距離の置き方、当時の顧問への不自然な反応、推薦入試を使わなかったこと、体育の授業でのあたしへの態度。それぞれ単独なら、些細なことかもしれない。だが、こうして並べてみると、何か大きなことにつながっているような気がしてならないんだ」
「……先輩の言わんとしていることが、何となく分かってきました」
中野は深く頷いた。




