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水面の影と光  作者: 与一
第1章 ある生徒について
9/21

灯る光

 ちょうど、その時だった。

「――失礼しまーす」

保健室をノックする音がして、扉が開いた。入ってきたのはスーツ姿の、ボブショートの髪の若い女性だった。榊原先生より少し年下な感じだ。穏やかな笑みを浮かべていて、どこか親しみやすい雰囲気を醸し出している。その顔を見た瞬間、榊原先生の表情が少しだけ和らいだように見えた。きっと知り合いなのだろう。

「おや、中野先生、わざわざ、どうしてここまで?」

「ええ。ちょっと渡したいものがありましてね。体育教官室に行ったら、授業前に、倒れた生徒がいたから保健室にいるって聞いたので」

中野先生と呼ばれた女性は私の方に目を向けた。彼女の柔らかな笑顔が、私に安心感を与えてくれる。

「これ、頼まれていた書類です。この後、すぐに出なくちゃいけないので、今のうちに渡しておこうと思って」

そう言って、クリアファイルを榊原先生に手渡す。榊原先生は受け取ると、中をパラパラと確認した。

「ありがとう。助かったよ」

その時、榊原先生の視線が中野先生のボブショートに向けられた。

「随分、髪が濡れているけど、どうしたんだ?」

榊原先生が指摘すると、中野先生は少し照れたように微笑んだ。確かに中野先生の髪は、しっとりと水分を含んでいるように見える。スーツの襟元も、ほんのり湿っているようだった。

「ああ、これですか。さっきの授業で、生徒と一緒に泳ぎましてね。やっぱり3年生になると、速いですね」

「おいおい、今から大事な大学の入試説明会に行くんだろ? 泳いでから出張だなんて、随分と元気だな」

榊原先生は、中野先生を見ながら呆れたように言った。

「だって、こうも毎日、進路、進路、で出張続きじゃ、自分の専門が分からなくなりますからね。たまには体を動かさないと。それに何より、泳ぐって、楽しいじゃないですか」

中野先生は、悪戯っぽく片目をつぶってみせた。その表情は、学校の先生というよりも、親しみやすいお姉さんのように見えた。出張の直前に、生徒と一緒に泳ぐなんて、かなり自由な人だろう。それにしても、泳ぐって楽しい、か。私には、遠い世界の言葉のように感じられた。

「まったく、相変わらずだな、中野は。あたしも高3の副担はしたことはあったし、入試説明会の出張もあったが、それでも出かける前に泳ぐなんて余裕は全くなかったな」

榊原先生は肩をすくめて笑った。二人の仲の良さが伝わってくる会話だ。

「あ、そうそう、榊原先生、倒れたと言う生徒さんは大丈夫ですか?」

「ああ、軽い貧血だ。心配ない」

「そうですか。無理はいけませんよ。ゆっくり休んでくださいね」

中野先生はそう言って、私の方にも視線を向けた。目が合うと、彼女はふわりと微笑んで、小さく会釈してくれた。私も慌てて頭を下げる。

「じゃあ、行ってきますねー」

中野先生が保健室を出て行くと、榊原先生は少し笑みを浮かべたまま、クリアファイルを机に置いた。

「……騒がしくてすまなかったな」

「いえ……」

私は首を横に振った。むしろ、中野先生の明るい雰囲気は、張り詰めていた気持ちを少し和ませてくれるようだった。

「中野先生は、あたしの高校・大学の後輩でもあってな。彼女も、あたしと同じ保健体育の教師なんだ」

榊原先生が説明してくれる。それであんなに親しげな雰囲気だったのだ。それにしても、体育の先生にも、あんなに穏やかで優しそうな人がいるんだな、と思う。多香美女子校には、そんな感じの先生はいなかった。

「中野先生って、いつも、ああいう感じなんですか? 生徒の前でも」

私は恐る恐る尋ねる。

「彼女は、いつもあんな感じだ。ちょっと天然のところがあって、マイペースで、ユーモアがあって、気軽に話せる先生だ。それでいて、体育教師としても優秀で、特にスポーツの指導面は理論的で的確なんだ。人柄と能力を買われてのことだろう」

榊原先生の口調は淡々としていたが、どこか誇らしげでもあった。それだけ後輩を認めているということなのだろう。

「どこの部活動の顧問をしているんですか?」

私は興味本位で尋ねた。さっきの会話からして、きっとスポーツ系の部活だろうと思ったからだ。

「ああ、それがな」

榊原先生は少し含み笑いをした。

「意外かもしれんが、彼女は美術部の顧問なんだ」

「え……美術部ですか?」

思わず聞き返してしまう。出張前に生徒とプールで泳ぐようなアクティブな人が、美術部の顧問とは想像できなかった。

「学校としては、運動部の顧問を任せたかったし、実際、本人がその気になれば、全国レベルにまで育て上げることもできるだろう。でも、中野先生は、授業でスポーツの指導をしているのに放課後までしなくちゃいけないのは、嫌だと言って、断固、拒否したんだ。もともと、部活動の勧誘のポスターなんか、描くのもうまかったからな。それに、中野先生は、スポーツとは本来、楽しむもので、優勝目指して鍛え上げるなんて無粋だ、って考えなんだ。そういうところが、お互い、一致するんだろうな」

榊原先生はバレー部の顧問で、厳しい言葉も飛ぶこともあるが、バレーが苦手な子も、みんな、心から楽しそうにやっている。そういうところが、生徒と一緒に泳いだりする、中野先生と通じるところがあるのかもしれない。ふと、疑問が湧いた。

「中野先生って、水泳がお好きなんですか?」

さっきの会話からそう思ったのだ。榊原先生は少し意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。

「ああ、そうなんだ。実はな」

先生は少し声を潜めるように続けた。

「中野先生はな、実は日本水泳教育学会というところの役員なんだと」

「日本水泳教育学会……ですか?」

聞き慣れない言葉に私は首を傾げる。

「うん。なんでも、競技水泳だけでなく、水泳の歴史とか文化とか幅広く研究してる団体らしい。その中で、中野は特に古代の水泳文化についての研究論文をいくつか書いてるみたいだ。あたしは読んでもチンプンカンプンだったが」

榊原先生は苦笑しながらそう教えてくれた。

「そうなんですか……すごいですね」

まさかそんな一面があるとは思わなかった。見た目はふんわりとした優しいお姉さんなのに、意外なところで専門家なのだ。しかも「チンプンカンプンだった」という榊原先生の感想がなんだかおかしくて、少しだけ心が軽くなった気がした。

中野先生。さっき少し会話をしただけで、とても穏やかで親しみやすい人だと思った。ボブショートの髪は綺麗にセットされていたけれど、どこか抜けた感じのする笑顔や雰囲気は、私たち生徒が近寄りがたい教師という感じでは全くない。そして何より、出張前だというのに生徒と一緒にプールに入るという行動が信じられないほど自由奔放だ。もし、あんな先生が多香美女子校にいたら、梅垣先生とは正反対の存在だったろう。梅垣先生は、常に生徒に対して威圧的で、支配的で、恐怖しか与えなかった。一方、中野先生は、優しくて、人当たりが良くて、そして何よりも、先生自身が本当に楽しそうだった。

そして、そんな中野先生が憧れて慕っている榊原先生。

さっき、私を気遣ってくれた榊原先生の様子。怒ることもなく、詮索することもなく、「お前は悪くない」と、ただそう言ってくれた。「中学で何があっても、お前が責任を感じる必要はない」と。あの言葉が、どれほど私を救ってくれたかわからない。多香美女子校では、誰一人として私を庇ってくれる人はいなかった。皆、見て見ぬふりをするか、あるいは加担するかのどちらかだった。

でも、榊原先生は違った。何かおかしいと感じて、ずっと気にかけてくれていたのだ。体育の授業で私が明らかに先生を避けていたのを敏感に察知し、今日の出来事で核心に触れた。

今なら、この人に話せるかもしれない。いや、話すべきなのかもしれない。私の身に起きたこと。中学三年間の苦しみ。あの体育教師のせいで人生がどれだけ歪められたか。この人なら、真剣に聞いてくれるはずだ。あの忌まわしい過去を、そっと胸の奥にしまい込んで忘れようとしていた。でも、本当にそれでいいのだろうか。心の傷が完全に癒える日が来るのだろうか。このまま過去を封印し続けていれば、また同じような恐怖に怯えることになるかもしれない。

榊原先生は、再びベッドサイドに腰掛けたまま、黙って外の景色を眺めている。その大きな背中は、今はとても頼もしく見えた。

(話してみよう)

そう思い至った時、なぜか迷いはなかった。この人に打ち明ければ、何かが変わるかもしれない。ほんの少しでもいい。この息苦しさから解放される糸口が掴めるかもしれない。

私はゆっくりと深呼吸をして、意を決して口を開いた。

「あの、先生……」

「なんだ?」

榊原先生は、まっすぐに私を見つめていた。その瞳は、決して咎めるようなものではなく、純粋に私の言葉を受け止めようとしているように見えた。そのまっすぐな視線が、少しだけ怖かったけれど、同時に、信じてもいいのかもしれない、という予感がした。

私は、少し俯きながらも続けた。

「私が、体育の授業に……特に水泳の授業に苦手意識を持ってしまっている理由について……少しだけお話しさせていただいても良いでしょうか?」

「もちろん、話してもいいぞ。無理しなくてもいいけどな」

榊原先生の優しい声が響いた。


今までずっと言葉にもできず、心の中でもやもやとたまっていたもの。それを少しずつ少しずつ、解きほぐしていく。榊原先生は、何も言わず、時折うなずきながら聞いてくれる。それでも、時に、私は、言葉が見つからなくて詰まることもあった。そんな時も、榊原先生は無理強いすることなく、静かに待っていてくれる。……


話し終えると、私はずっと、体の中にためこんでいた、重いものが取り除かれたように感じた。榊原先生は、私の言葉を噛みしめるようにうなずいた後、静かに言った。

「芦川、よくここまで頑張って、うちの学校を選んでくれたんだな……」

私はその言葉で、涙が溢れて止まらなかった。嗚咽を堪えながら、私はただ榊原先生の名を呼ぶことしかできなかった。泣くなんてことすら、私はずっと忘れてしまっていたのだ。

「まあ、さっきも言ったが水泳は、無理にしなくてもいいし、水着に着替えなくてもいいぞ。今は、学校を楽しむことだけを考えろ。また、泳ぎたくなったら、泳げばいいさ。長谷川先生も、同じようなことを言っていただろ」

私は涙を拭きながら、小さく頷いた。

「……ありがとうございます」

榊原先生は穏やかな笑みを浮かべて私を見つめていた。

「今は、あたしも中野もいるからな。他の先生たちだって、みんな、芦川の味方だ。心配することは何もない」

榊原先生はそう言って、私の肩をポンと軽く叩いた。その力強さと温もりが、私の中に確かな希望を与えてくれるようだった。もう私は一人じゃない。ここには私を守ってくれる先生たちがいる。そして、大切な友達やクラスメイトもいる。


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