第70話 朧の涙
翌日ゴエモンは良寛に丁重に礼をして、寺を辞した。
良寛はまだ早いと引き止めたが、ゴエモンが笑顔で「大丈夫です」、というものだから、それ以上の事は言わなかった。
ゴエモンは自身の怪我より、身重となったアヤカの身を案じ、ゆっくりした足取りで京へ向かった。
「男の子かな?女の子かな?」
ゴエモンが何気なくアヤカに向かって聞いた。
「気が早いんだから。まだ本当に授かったばかりで性別も決まってないわ。」
アヤカが笑う。
「女の子なら風の生まれ変わりかな…」
ゴエモンが空を見上げながら呟く。
「ううん。風はまたマイさんのところに戻るのよ。この子は誰でもない、私たちの子。」
アヤカがまだ膨らみもないお腹を触りながら言った。
「そうだね…」ゴエモンも納得して頷いた。
夕方風結庵が見えてきた通りで、不意に後ろから呼び止める声がした。
「遅かったな。」
聞き覚えのある声に振り返ると、望月三郎左衛門が柳の木の下からこちらを見ていた。
ゴエモンはにこやかに近づき挨拶した。
「伏見ではお世話になりました。今朝出発の挨拶をと思いましたら、昨日既に戻られたと聞きまして、残念に思っていたところです。またお会いできて嬉しく思います。」
そうあっけらかんと喜色を浮かべられると、望月も少し困惑した表情になり、
「まったく。次は敵かもしれんと言った相手に何の警戒心もなく近寄ってくるとは、お主の様な男見た事ないわ…」
と苦笑いを浮かべている。
「今日は上様の使いとして参った。まずは先日体を張って上様のお命を守った件については心から感謝するとの事。そして、壊れた鎧通しに代わりこれを下賜するとの事だ。」
そう言って袋に収められた刀を1本差し出した。
前の村正に比べて少し大きい。
「これからの戦闘を考えると、短刀より脇差の方が良いだろうと上様のお言葉であった。」
ゴエモンはありがたく受け取った。
「そして、『お主があの時願い出た件は追って連絡するから待っておれ』とのことだ。」 ゴエモンは寺で信長にある頼み事をしていた。
「これで俺の役目は終わりだ。確かに伝えたからな。」
そう言うと望月は踵を返しサッと路地の向こうに消えていった。
風結庵にはキュウサクと蛍、朧と子供達がいた。他の者は救民所の仕事に出向いている。
「ただいまー!」
ゴエモンとアヤカが揃って入ると、キュウサクが「おかえりなさい!」と駆け寄ってきた。
その声を聞いて子供達も駆けてくる。
「大丈夫ですか?」
朧が晒の巻かれたゴエモンの胸元を見ながら聞いてくる。
「大丈夫だよ。丈夫なだけが取り柄だからね。」
そう言って笑うゴエモンに釣られて朧も笑った。
風結庵の方に来て、千草だけじゃなく朧も感情が豊かになった。
くのいち同士だからなのか、蛍とウマが合うようで、いつも一緒にいる。
歳は朧がずっと上なのだが、二人の関係を見ていると蛍の方が姉っぽく見える。
蛍が左輔に厳しいものだから、朧も左輔に対する当たりが厳しくなってきていた。
「ゴエモンすげぇな~!種子島の前に体投げ出すなんて、よっぽどの強者か命知らずのバカだな。」
そう言って笑うと、蛍と朧が同時に左輔の頭を張った。
「アヤカさんもいるのになんて言い草ですか。ゴエモンさんはとても勇敢にお仕事果たされたのにバカとは。」
「って~。朧、お前最近蛍に似てきたな。俺は昔の朧の方がいいぞ。」
「左輔にはこのくらい厳しい方がいいのよ。放っておくとロクな大人にならないんだから。朧も蛍さんもビシビシやってね。」
千草が母親のように言う。
千草はすっかり明るい子になった。
「ちぇ~、俺の味方はいないのかよ~。」
左輔がいじける。
「伊勢屋に行ったら?」
千草がからかう。
「この~!お前、言うようになったな~。」
そう言いながら千草を追いかける左輔。笑顔で逃げる千草。
「ここに来て本当に良かった。」
朧は感慨深げに見ている。
「この賑やかさ。帰って来たって実感するよ」
ゴエモンがアヤカに微笑みかけた。
夕方、救民所の仕事を終えサイゾウらが帰って来た。
「お~ゴエモン帰ってきたか。相変わらず無茶するな」
サイゾウが笑う。
オユキも笑顔で続く。
「あんまり無茶しちゃだめよ。アヤカの身が持たないから。それに赤ちゃんもね。」
一同一瞬静まり返った。
「えーーーー!」
「本当なのか?」
皆口々にアヤカとゴエモンに聞いてくる。
「ま、まだ確定じゃないけど、そうかなって…」
アヤカは顔を赤くし、少し恥ずかしそうに答えた。
「でも、オユキ姉どうしてわかったの?」
「どうしてだろう?なんか雰囲気っていうか、顔つきというか、なんかちょっと変わったなと思ってね。」
「チクショー!俺のアヤカもついに母親か~!」タイガが嘆く。
「あんたの物になったこと一度もないから…」
アヤカが睨みつける。
お祝いムードに湧く風結庵だがアヤカは感じていた。
もう一人、新しい命を宿しているのではないか、という事を。
その夜、アヤカはサイゾウ宅へ戻ろうとする朧をそっと呼び止め、裏庭の井戸端に腰かけた。
「朧さん、こちらの生活には慣れた?」
「はい。サイゾウさんもオユキさんも皆さん良くしてくれて。忍びの世界しか知らない私にとって、皆さんとの生活は凄く刺激的です。」
「左輔は最初から我が物顔だけど、ちーちゃんもすっかり馴染んで明るくなったわね。」
「本当驚きです。百地の自宅でもあんなに笑う千草様を見たことがありません。これも皆さんのおかげです。」
「朧さんも変わったわよ。女の子っぽくなった。」
そんな言われ方したことない朧は照れて顔を赤くしている。
「立入ったこと聞いてもいいかな?」
アヤカが真顔で視線を向けると、朧は首を傾げた。
「気付いているかわからないけど、あなたのお腹の中にも宿っているんじゃない、新しい命?」
言われて朧はハッとした。
朧自身妊娠どころか、ついこの前まで生娘だったのだ。ごく初期の妊娠兆候に気付くことはなかった。
ただ何となく気持ちが悪い日があるな、と思う程度だった。
「私に、ややが…?」
朧は自分のお腹を見つめている。
「…お相手は…柘植様?」
そう言われて朧は動揺した。
隼人にこんなこと言えない。
これから伊賀の大事に立ち向かわなければならないのに、こんなことで頭を悩ませるわけには…
「きっと間違いです!そんなはずありません。失礼します!」
そう言って立ち上がると、朧は走り去った。
アヤカは心配そうにその後ろ姿を見送っていた。
-翌々日の夕方
隼人が五平、玄十、弥太郎、朱音、霞を伴い風結庵を訪れた。
2階に上がり、ゴエモンとアヤカに加え、左輔と千草、朧に右近が呼ばれた。
「どうしたんですか、突然…」
朧が呼ばれた一同を見て訝しがる。
ゴエモンとアヤカ以外は百地の者ばかりだからだ。
「次の作戦…?」
そう言う朧に対し、隼人がハッキリとした口調で告げた。
「そうだ。重要な作戦だ。これは我らの存亡がかかった作戦だぞ。」
隼人が思い詰めたような表情で朧を見つめた。
朧も相当重要な作戦だと感じ、真顔になり息をのむ。
「朧…俺と夫婦になってくれ。」
朧は何を言われたのか理解できず、目を大きく見開いて固まっている。
朱音と霞が嬉しそうに笑っている。
「朧、水臭いぞ。ややが出来たならなぜ真っ先に俺に言ってこない。俺が喜ばないとでも思っていたのか?」
そう言われ、朧の見開いた瞳から涙が溢れ出てきた。
「…だって、隼人様はこれから伊賀の為に大事なお務めがある方。それのお邪魔になど…」
朧が感極まって泣き出すと朱音と霞が横に座り、そっとその背を撫でた。
「お頭もついに年貢の納め時というわけですな」玄十がからかう。
「いや~、お頭一人が変なこだわり持っていたようだけど、我ら仲間内ではもっと早くこうなるべきだとずっと思っていましたよ。」弥太郎も言う。
「そうなのか?皆そんな風に俺のこと見ていたとは…」そういう隼人を見て皆笑った。
「でも、どうして急に…」朧が目頭を抑えながら聞く。
「昨日アヤカ殿が伊勢屋に来てな。来る早々すごい剣幕で怒鳴り散らされたのよ。『朧をどうする気だ!やや子の父としての自覚はあるのか?女一人守れない奴が百地の里を守ることなどできないぞ!』ってな。」
そう言って隼人は苦笑いを浮かべアヤカを見る。
アヤカもバツが悪そうに頭を掻いている。
「人がいてもお構いなしだから、こいつらにも全部聞かれてな。終いには皆して『朧が可哀そうだ!』『頭領失格だ!』って一緒になって俺を責める始末よ。」
『そうだそうだ』、と玄十達がちゃちゃを入れる。
「だがな、朧。俺がお前と夫婦になりたいと思ったのは、こいつらに責められたからでも、ややが出来たからでもないぞ。お前とあの京への道中で誓った時から、一日でも早くこうしたいと思うてはいたのだ。」
隼人が少し照れ臭そうに心情を吐露する。
「だが、こちらでは我らは居候の身。家も食い扶持も持たぬ者が女房に飯を食わせては行けまい。そう思うて俺はこちらに来てから、必死で伊勢屋の商売を学んだ。そして五平からやっと、暖簾分けしてもやっていけると言われるまでになったからこうして迎えに来たんだ。」
隼人が自分を思い、慣れない商売を必死で覚えていたことに朧も周りの皆も胸を熱くしていた。
「どうだ朧、俺と一緒に呉服屋のおかみになるか?」
隼人がニッコリ笑いながら問いかける。
「私の心は、ずっとずっと前から決まっております。私も…商売覚えなきゃ…」
泣き笑いで答える朧がキラキラ輝いてた。
その光景を見て千草も嬉しそうに笑った。
「本来こういうことは主君の許しを得なければならないのだが、今はそれが出来ぬゆえ…」
と言いながら隼人は左輔の方に向き直った。
左輔はキョトンとしている。
「父君丹波守様に代り、左輔様、我ら二人夫婦となるお許しをいただきたい。」
そう言って平伏すると、朧も慌てて平伏した。
「え、お、俺が決めんの?」
左輔は困惑しているが、誰もいつものように茶化さない。真剣な眼差しで自分を注視しているのを感じ、背筋を伸ばし、一つ咳払いをした。
「…柘植隼人並びに朧。父に成り代わり両名の婚儀を認める。末永く幸せになれ。」
そう言うと一同拍手が巻き起こった。
左輔に百地の頭領の風格がちゃんと備わっている。
右近は目を細めてこの光景を見守っていた。




