第45話 呪縛
5月初めの風結庵
午後の診療を一段落したところに、ひょっこり顔を出したのは、キュウサクと蛍だった。
「ゴエモン!キュウサクと蛍が来た!」
入口でアヤカが大声で叫んでいる。
「お~、どうした?柘植様の使いか?」
ゴエモンがにこやかに問いかける。
「柘植様と丹波様の許しはもらってきましたが、ここに来たのは自分達の意志です。」
キュウサクが答える。
「京に出て苦労しているだろうゴエモンさんたちの力になりたいと思い、蛍と二人でこちらにお手伝いに参りました。」
「でも…大丈夫か?」
「ご心配なく。僕も蛍も二人でいる時は凄く心が落ち着いているんで。」
そう言って視線を交わし合う二人を見ると、健康な心を取り戻しつつあることがわかった。
「私たちも思いがけず商売の方が忙しくなっちゃって、いろいろ里の為に動かなきゃいけないことができてなかったから、二人が来てくれて凄くありがたいよ。」
アヤカも嬉しそうに蛍を見た。
「私、あんまり養生所の仕事なんてわからないけど、掃除でも洗濯でもなんでもやるんで、使ってください。」
そう言って蛍はペコリと頭を下げた。
宗兵衛ら近隣には、キュウサクと蛍は、伊賀からいち早く逃れてきたアヤカの妹夫婦ということにした。
この時代13,14で嫁入りすることは普通だったので、怪しまれることはなかった。
ゴエモンはキュウサクにマッサージなどの治療を教え、自分が留守の時養生所を任せられるようにしようと思っていた。
アヤカも蛍に受付や神鳳堂への薬の手配などの仕事を教え、自分は健康相談や産婆などの業務を増やしていこうと考えていた。
キュウサクと蛍が風結庵に来てから1週間ほど経ったころ、蛍は患者の薬を取りに神鳳堂へ向かっていた。
通りは人であふれているが、蛍はくのいちで磨いた敏捷性で、人と人の間を泳ぐようにスルリスルリとすり抜けていく。
その時、背後からフイに低くくぐもった声が聞こえてきた。
「蛍火…生きていたのかい…」
蛍の背筋は凍り付き、その場から一歩も動けなくなった。
「生きていたなら何故すぐに戻らない…まさか抜け忍の罪を忘れたわけではあるまい...」
声の主は周りには聞こえない、ごく小さな声で囁いているが、蛍にとっては心臓を鷲掴みにされ引き回されているような、激しい動揺をもたらしていた。
「よいか…、今ならまだ帰参を許し、全てを不問にすることも可能ぞ。さもなくば、お前は抜け忍として我らから一生追われるだけではなく、お前が寝起きを共にしているあの風結庵の連中も皆殺しになるということを忘れるな。」
そう言うと声の主は紙片を一つ蛍に握らせた。
「今夜、子の刻ここへ来るのだ。させれば全て水に流してやろう…」
そこまで言うと声の主の気配は消えた。
蛍は振り向くこともできず、茫然と室町通りの真ん中で立ち尽くしていた。
「蛍!」
蛍はドキッとして飛び上がった。
「どうしたの?遅いから迎えに来たよ。お薬もらってきた?」
アヤカだった。
「え、あ、ううん。まだ…。ちょっと道に迷っちゃって…」
「道にって、もう何回も来てるじゃない。それに大きな通り行くだけだし。」
そう言って微笑むアヤカの顔を見ると泣けてきた。
(こんないい人達、巻き込むわけにいかない…)
「あれ、どうした蛍。どっか痛い?なんかあった?」
アヤカが優しく声かけるともう我慢できなかった。
「…ア、アヤカさん…」
蛍は人目も憚らず、アヤカの胸に飛び込み泣いた。
アヤカもどうしたのかわからなかったが、尋常じゃない蛍の様子に、そっと腕を回しだきしめてやった。
その夜、夕飯を食べた後も蛍は特に変わった様子を見せず、淡々と後片付けをしていた。
風結庵の2階にゴエモン夫妻が寝て、1階の部屋に蛍、診察室にキュウサクが寝ていた。
深夜
ゴエモンは何とも言えない胸騒ぎで目が覚めた。
ゴエモンが起き上がったのに気づき、アヤカも起きた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん、なんか寝れなくて。昼間、ちょっと蛍の様子がおかしかったから、ずっと気になってたんだ。」
そう言うと、アヤカも起き上がって昼間あったことを話し始めた。
そうしている時、階段を駆け上がってくる音が聞こえ、部屋の前から
「ゴエモンさん!アヤカさん!蛍が、蛍がいないんです!」
というキュウサクの切羽詰まった声が聞こえた。
戸を開けると、キュウサクは手紙をゴエモンに手渡した。
そこには
“短い間だけど、お世話になりました。私はやはり、陽の当たる世界では生きていけないようです。さようなら ㋭”
と書かれていた。
「…蛍、一体どうして…」
キュウサクは途方に暮れている。
ゴエモンもアヤカも理由がわからず、押し黙っているだけだった。
“コツン…コツン…”
二階の部屋の雨戸を何かが叩く音がする。
ゴエモンが雨戸にそっと近づき、外の様子を窺おうとした時
「…旦那、あっしです」
という聞きなれた声がした。
「右近か!」
そう言って雨戸を開けると、黒い影がスルスルっと入って来た。
「どうした、こんな夜更けに」
ゴエモンが問うと、右近はいつもの軽口ではなく、真剣な口調で言った。
「こちらに以前百地砦での戦の折、寝返ったくのいちのお嬢がおりましたでしょう。あのお嬢、元の組織に見つかり、さっきそちらに出向きましたぜ。」
「なに!」
皆一斉に声を上げた。
「あっしも偶然旦那のところに柘植様からの伝言をお届けに来たところ、あのお嬢がここから出てくる姿を見かけましてね。時間といい、お嬢の様子といい、ただ事じゃねえなと思い、後をつけさせてもらいやした。」
「それで、蛍はどこに?」
キュウサクが急かせるように問いかける。
「六角堂から東に離れた鴨川の支流の先。小高い丘の中腹にある古寺玄明寺ですわ。」
「さっそく迎えに!」
慌てて立ち上がろうとするキュウサクに向かい、右近がなだめる。
「まあまあ、お待ちなせぇ。あの寺を根倉にしているってことで、連中の正体もわかりやしたぜ。」
「だれだ、そいつらは」
「もともと伊賀の忍びだった連中ですが、金になびいて暗殺や盗み、放火など、裏の稼業を何でも請け負っている“闇鴉”と呼ばれている連中です。当然伊賀の上忍からは破門にされている奴らです。」
蛍が、初めてあった時、『この世は地獄だ』と言った言葉は、こうした連中に育てられ、教え込まれてきたから出た言葉なんだろう。
実際伊賀者は、個人事業主的な性格が強く、こうした外道に堕ちる者も少なくなかった。
「恐らく、街中で蛍を見つけ、戻らなければ…と脅したんだろう。さっきのアヤカの言った事と辻褄が合う。」
ゴエモンが腕組みしながら言い放つ。
「連中の人数は?」
「さーて、出払っている人数もいるでしょうが、常時5~6はいると思いますぜ。」
5対1じゃ真向勝負にならない。
奇襲をかけるにしても、せいぜい3~4人倒せればいい所だろう。
キュウサクには、心のかさぶたを剥がすようなことはさせられない。
「申し訳ないが、あっしは実戦には不向きですからね。」
ゴエモンの胸中を推し量るように、右近が先回りして答える。
「わかってる」
ゴエモンは腕組みして考えている。
「僕もいきます。蛍を、助けるためなら...」
キュウサクは懇願するようにゴエモンに訴えている。
時間が刻一刻と過ぎていた。




