第44話 槍の又左衛門
戌の刻
ゴエモンは右近に伴われ、前田屋敷の中庭外れに身を潜めていた。
ここまでは、馴染みの忍びだけが通れる勝手口の通路を抜けてきた。
「いいですか、旦那。忍びはここで控えていて…」
右近は指先で縁側の方を示しながら、声を潜める。
「あちらの部屋から二つ拍手があって、少し間を置いてもう一つ。そしたら縁側まで出て、膝をついてかしこまるて寸法でさぁ。」
ゴエモンは無言で頷いた。
「姿は見えませんが、中庭にはお庭番が大勢控えておりますからな、ここから先は必ず合図を待ってから行くんですぜ。」
右近はまるで父親のように細かく指示してくる。
ゴエモンは少し苦笑しながら言った。
「やっぱりお前はいい奴だな。」
思わぬ一言に右近はうろたえ、
「な、何言ってるんですか! 同じ伊賀者として、旦那が恥かかんようにしてるだけで…」
と、しどろもどろになる。
どうやら褒められ慣れていないらしい。
ゴエモンは少し右近が可愛く思えた。
やがて、中庭に面した部屋の障子が静かに開き、二度の拍手、間をおいて、さらに一度。
「じゃあ旦那行ってらっしゃいやし!」
右近に背を押され、ゴエモンは音もなく縁側へ走り、膝をついて頭を垂れた。
「その方がゴエモンか?」
声の主が問う。
「ハッ」
ゴエモンは短く答える。
「ワシが当家の主、利家である。面をあげよ。以後見知りおけ。」
顔を上げたが、闇夜で部屋の中のわずかな灯だけでは顔立ちなどはわからない。
ただ、立ち姿の輪郭から、がっしりとした偉丈夫だとわかった。
「信長様からの言伝じゃ。
『京に拠点を構えたは重畳。商いの方も精を出せ。』」
(さすが信長様、何でもお見通しだ)
ゴエモンは腹の中で苦笑いした。
「先ごろ安土の城に伊賀者2名が目通りを願い出てきた。伊賀に侵攻するには今が好機。是非とも案内役を仰せつけ願いたいとのことだ。」
(やはり来たか)
その名は、上柘植の福地宗隆、河合村の耳須弥次郎具明。歴史にも記された、信長軍を伊賀へ導いた男たちである。
利家は続ける。
「七月には陣触れを出す。それ以後は、伊賀から蟻一匹這い出ることも叶うまい。事は急を要する。急げ!」
重い空気の中、利家は深く息を吐いた。
「以上が殿からのお言葉だ。お主も京に出てきたばかりで骨が折れようが、殿の意を汲み、やり通せ」
「ハッ、身命に代えましても」
そこまで言い終わると、利家は少し声のトーンを抑えしみじみと語りだした。
「…俺は、殿を信長様にした張本人だ。その時殿の秘密も打ち明けられた。あの方のおかげで、俺も織田家もここまで生き延びてこられた。あの方は、自分の生き方を殺して織田信長になってくだされた。」
利家は月を見上げながら語り続けた。
「あのお方の本心は、織田家でも天下でもなく、お主ら同朋の元へ帰り、自らを偽る事なく、同じ言葉で、笑い、語らいあう事なのだろう。そう、俺は思っている」
利家の声音には、ショウに対する贖罪の念のような気持ちが込められているようだった。
「しかるにゴエモンよ、あの方の帰るべき場所を、なんとしても守り通すのだぞ。何かあればいつなりとも申し出てくるが良い。殿に代わりこの利家が助力しよう。」
慈愛の笑みを向けられ、ゴエモンは深く頭を下げた。
「ありがたく存じます。信長様には、『確かに承った』とお伝えください」
一礼し、闇に消えるゴエモンを、利家はしばし見送り、やがて小さくつぶやいた。
「あれが未来人か…。」
翌日
ゴエモンは早めに風結庵を閉め、室町通の伊勢屋に井村五平を訪ねた。
井村は事前に百地丹波からゴエモンらが京に行くから助勢せよ、と言われていたので、長らく訪ねてこないゴエモンらの身を案じていた。
「音沙汰がないので心配していたぞ。京での住まいは決まったのか?」
ゴエモンはこれまでの経緯を簡単に説明した。
そして五平に助力を頼んだ。
「伊賀の者二名が織田の軍勢を手引きせんと信長様に目通りしておりまする。
これを受けまもなく陣触れが発せられると思います。この事丹波様と我が里三太夫に至急お繋ぎくだされ。」
そう言ってゴエモンは丹波と三太夫に宛てた密書二通を手渡した。
「承った。我が手の者なら明日の夜には届けられよう。今後も遠慮なく使ってくれ」
心強い言葉を受けつつも、ゴエモンの胸中には、里の者たちがどうやって脱出するのかという不安が、なお重くのしかかっていた。
いよいよ織田軍伊賀侵攻の馬蹄の響きが聞こえ始めていた。




