第17話 風結び
“キュウサク!”
その顔は苦悶に歪み、震える手から棒手裏剣がこぼれ落ちる。
彼はまるで、自分自身の中に湧き上がる何かと必死で戦っているようだった。
「ひ、人を殺すって……こんな……ああ、うあああああああ!」
声にならない呻き。地を掻きむしり、胃の中の物を吐きながら、彼は自分の罪と、現実と、向き合っていた。
彼の背後に立っていたのは、ショーゾーとサイゾウだった。
すでに武器庫の方の戦闘を終え、駆けつけてきたのだ。
二人とも、目の前のキュウサクを見つめながら、言葉にならない、何とも言えない表情を浮かべていた。
憐れみ、同情、そして…、どこかで理解。
「…この者、どうしたのじゃ?」
朽木五郎左衛門が、誰に問うでもなく呟いた。
苦悶の声を上げながら地面をのたうち回るキュウサクの姿を、誰もが言葉なく見つめていた。
沈黙を破ったのは柘植隼人だった。
「…心が壊れたのだろう」
その声音は、どこか遠くを見るような淡々としたものだった。
「この若者、先に敵の間者を討ち取った功により、我自ら感状を与えたものだ。
あの時から、どこか落ち着きなく、不安定な様子を見せていたが…。まさか、こうなるとはな…」
柘植の言葉に、サイゾウが続いた。
低く、絞り出すような声だった。
「…我ら神仙の守り人は、幼少より“人を殺めてはならぬ”と教え込まれて育ってまいりました。
世が乱れ、軍役を担うようになったとはいえ…教えは教えとして、心に残っております。」
サイゾウは呻くキュウサクの横に膝まづき、その背をそっと撫でた。
「やむなく武器を取ることはありますが…
死ぬ覚悟も、殺す覚悟もできぬうちに、初めて人を殺めた者がどうなるか…
このように、罪悪感に心を喰われるのです」
その場の誰もが、言葉を失っていた。
蛍が、小さな声でぽつりと呟いた。
「かわいそう…」
その一言で、僕はもう涙をこらえることができなかった。
大粒の涙が頬を伝い、目を見開いたまま叫ぶキュウサクに駆け寄る。
「キュウサク!」
僕は彼を抱きしめた。
震える体を、壊れそうな魂を、少しでも止めたくて…
その時、柘植隼人がぼそりと呟いた。
「…我らがいつしか失ってしまった大事なものを―神仙の守り人は、まだ持っているのかもしれんな」
一陣の風が吹いた。
戦が終わった後の、どこか寂しげな、しかし静かな風だった。
風結び…忍びの生きざまは風の如し。
「…眠ったか?」
サイゾウの低い問いに、ショーゾーが小さく頷いた。
「あぁ。やっと、な」
障子の向こうには、すでに朝の気配が満ちていた。
空は淡く染まり、長い、長い夜の終わりが近づいている。
だがそれは、どこか救いではなく、ただ静かに、現実を突きつけてくるようだった。
先ほどまでの死闘のあと、彼らは忍び用の客間へと通されていた。
慰労の酒も、温かい肴も並べられたが、誰一人、箸をつける者はいなかった。
隣の部屋では、キュウサクがようやく眠りについた。
それまでの数刻、興奮状態はおさまらず、ショーゾーとゴエモン、柘植の部下2人が必死に押さえつけていた。
「柘植様が来てな…」
とショーゾーが言う。
「“心を鎮める香”だと言って、直々に香炉を置いていってくれた。…あれが効いたのかもな」
サイゾウは、ふう、と深いため息をついた。
「ゴエモンは?」
「ずっと付いてる。蛍って子も、そばにいる」
しばしの沈黙。
やがて、サイゾウが静かに徳利を傾けた。
「…どうせ酔えやしねぇがな。飲まずにいられねぇ…」
「…ちげぇねぇ」
そう言って二人は、無言で盃を傾ける。
明け方の部屋に、湯気も香りも立たぬ冷めた酒の味だけが、妙に沁みた。
鳥の声が遠くで鳴いた。
薄明かりの中、キュウサクはうわごとのように何かを呟きながら、うなされるような寝息を立てていた。
「…ねぇ、この人、元に戻るの……?」
蛍の声は、消え入りそうなほど小さかった。
僕は彼女の方を見ずに、キュウサクの顔を見つめたまま答えた。
「…戻るかもしれない。でも、ふとした瞬間に―きっと思い出すんだ。人を殺した時の感触や、匂い、音を…。
それが引き金になって、また心が暴れ出す。たぶん、それは一生消えない。“焙烙火矢”を、頭の中に抱えて生きていくようなものだよ…」
その言葉が、自分自身の胸にも鋭く刺さった。僕はこらえきれず、また涙がこぼれた。
しばらくの沈黙。
やがて、蛍がぽつりと呟いた。
「なんだか、私に似てるな…この人」
僕は振り返る。蛍は伏し目がちに、布団の端を指でつまんでいた。
「私の場合は逆。…何も感じなくなったの。人を殺しても、男に汚されても、怒りも、悲しみも湧いてこない。
心のどこかで“嫌だ”って思ってるのに、その声を押し込めて、“慣れ”って言葉で何重にも蓋をして……
そうして、生きてきたの」
涙が頬を伝い始めても、蛍の声は震えなかった。むしろ静かだった。
「…でもね、さっきこの人の様子を見て思ったの。
叫んで、苦しんで、壊れてしまったこの人の方が、私よりずっと“人間”なんじゃないかって……。
私の方がよっぽど重症なのかもしれない」
僕は息を飲んだ。
蛍はさらに続けた。
「…感情を引き出すのが、怖い。
でも、それをしなきゃ、あなたが言ってた“楽しいこと”なんて、きっと見つけられない…。
だけど、もしその蓋を開けたら、私、壊れちゃうかもしれない。
今まで通ってきた地獄の数は、この人より、ずっと多いから。
耐えられる自信が…ないんだ…」
蛍は泣いていた。その涙は、静かで、でも止めどなく溢れていた。
僕はそっと手を伸ばし、蛍の肩に手を添えた。
なにか気の利いたことを言おうとして、言葉が見つからなかった。
ただその時、ようやく僕はわかった気がした。
忍であっても、人間であることは捨てられない。
冷酷さは、盾にすぎない。痛みを忘れた者など、どこにもいないのだ。




