54.
泣き止まないアサコを抱きかかえ、イーヴェはジュリアスとサリュケ、小鳥の姿に変化した魔法使いと共に城へ戻った。
途中幾人もの人とすれ違ったが、アサコはイーヴェの肩に顔を埋めてやり過ごした。暫くしてゆっくりと下ろされた長椅子の上で、目の前で跪き苦笑したイーヴェに頭を撫でられるのをようやく涙の止まった目でぼんやりと眺める。先ほど思い出したことと、今いる場所とを結びつけることがなかなか難しい。アサコにとっての現実は間違いなくあちらでの出来事であるのに、今目の前にある現実は文字通り別の世界のものだ。
「イーヴェ、わたし……」
泣き疲れたかの様に頭が働かない。
何が言いたいのか自分でも解らないまま呟く様に言うと、イーヴェはもう一度アサコの頭を優しく撫でて立ち去った。
アサコはそっと目の前の扉を開けて、その隙間から部屋の中を覗き込んだ。
「――では、今回のことは特に罰することはしないと? 兄さんにしては甘いご決断で」
ジュリアスが皮肉めいた声が響いた。広い部屋には、布張りの大きな椅子に座ったイーヴェにその傍らに佇むジュリアスとサリュケ、そしてその対面には双子の片割れの少女の姿があった。しかしその少女は数時間前に見た時とは随分と違う様子で、生気のない顔を俯けていた。扉近くにいたサリュケはすぐにアサコに気づいた様子で、小さく首を横に振った。
イーヴェはジュリアスの言葉に返事することはなかった。目の前で俯きがちに佇む一人の少女に、普段の彼からは想像もつかない様な冷徹ともいえる視線を向け、僅かに首を傾ける。
「君は一生、演じ続けなければいけない。魔女になったことも、その代償に姉を失ってしまったことも、ご両親にも誰にも、決して露呈しないように今まで通り演じ、自害することも許さない」
アサコはぎゅっと握り締めていた手に力を篭めた。
「はい……殿下」
少し前とは違う覇気のない声に、アサコは思わず顔を背けた。
ディルディーエが連れてきた双子の少女は、一人だった。
彼女の姉は、最初からいなかったのだ。正確に言えば、アサコたちがこの城に来てすぐにいなくなった。妹のラミラが魔女になった時に消え去ってしまったらしい。
緑の天蓋の言葉で語られる今までの出来事に、アサコは顔を歪めることしかできなかった。
双子の前に現れた黒い魔女のこと、魔女が彼女たちの願いを叶える方法があると言い魔法使いを仲介したこと、イーヴェの全てを手に入れたいと強く願った時、姉の姿が透けて消えてしまったこと。そして、願いの代償はそれだけでは足りなかったこと。魔女の呪いの影響を強く受けている王子に他の魔法使いの魔法を掛けるには、大きな代償が必要となる。その為に黒い魔女は提案した。アサコの魔女の命を持ってすれば、願いは叶えられると。姉の命を使い果たしてまで叶えようとしたことを全うさせるべきだと。
もう一人の双子の姿は魔女になってしまった妹が作り出した幻だったのだ。
本来であれば王子の花嫁を殺害しようとしたことは極刑に値することだが、イーヴェは罰を与える代わりに、嘘を貫き通せと告げた。
姉はいなくなったと言う少女の声は、震えていた。涙を流すことはしなかったが、垣間見えた感情に、おそらく部屋にいた誰もが気付いていただろう。彼女は意図して姉の命を使ったわけではない。願いの強さを察知し、魔法の代償を選んだのは魔法使いだ。しかし、その愚かさを知らなかった罪は彼女達にもある。そして彼女は、姉を失くしてしまった悲しみも、自らの罪悪感も生涯吐き出すことは許されない。その苦しみは自分だけのもので留めろとイーヴェは言っているのだ。彼女はこの先、両親を騙し続け、その罪にも苦しむことになるだろう。叶うことのなかった強い想いは宙ぶらりんなままで。
それは少女の幼い願いには不釣合いな、大きな罰ではないだろうか。けれど、大きな罪は時にそんな風に生まれてしまうのかもしれない。
何が正しいのかも解らずに、アサコは黙って響く声に耳を傾けるしかなかった。結果的に事なきを得たこともあり、幼い恋心の為にたくさんのものを失ってしまった少女を怨む気持ちも湧いてこない。
「……君たちのことは妹の様に想っていたのだけど、残念だ」
最後にそう残酷な言葉を呟いたイーヴェは、ラミラを下がらせた。
魔女となった彼女には、今後監視の目がつけられることになる。約束を違えることは許されない。
「魔法使いの見当はついたのか?」
「兄さん、なかなか相手は手強い様ですよ。師匠に見つけることができないのであれば、僕にも不可能だ。恐らくは大樹に繋がれたままの魔法使いでしょう。それならば、魔法使いから魔女の居場所を引き摺りだすよりは、直接魔女を見つける方がまだ容易い……姉さんはどうされたいですか」
急に向けられた目に怯んだアサコは、眉を顰めた。サリュケだけではなく、他の二人もアサコの存在に気づいていたのか、目が合っても平然としている。アサコはのぞき見していた気まずさを押し殺して、部屋の中に入った。
今回双子の少女に魔法使いを仲介したという魔女は、以前アサコの心臓を盗ろうとした魔女と同一だと考えても良いのだろう。魔女は、自分と同じ願望を持った少女たちを唆した。おそらく彼女は、アサコがいなくなることが願いの成就への近道だと考えている。
「あの……わたしが囮になれば、見つかるんじゃないですか?」
ジュリアスの深まった笑みに、サリュケの唖然とした顔、イーヴェから向けられる強い視線。アサコは思わず顔を伏せた。
「なんてことをおっしゃるんですか……! いけません!」
血相を変えてそう叫んだのは、部屋の扉の前にいたサリュケだった。普段の彼女では考えられない様な勢いでアサコの目の前までやってくると、空いていたアサコの左手を両手で掴んだ。
アサコはその勢いに思わず退く。
その様子から、彼女が本当に心から心配してくれていることが分かった。けれどもしかすると、彼女はアサコが自暴自棄になっていると思っているのではないだろうか。どこまでアサコの事情を知っているのかは分からないが、彼女は今おそらくアサコが平常心ではないと思っているのだろう。
アサコも囮になるなんて自分で言ったことに少し驚いている。けれど何も自暴自棄になっている訳ではない。どの道このままにはしておけないことで、恐らく魔女はまた次の方法を考えているだろう。心の準備もない時に襲われるよりは、何かしらの準備がある状態で教われた方が恐らくいくらかましだ。それに、ラミラの様に付け込まれる人が今後出てこないとは限らない。
アサコは自身の願いの為に片割れを失った少女に、同情と罪悪感を抱いていた。そして、魔女に対しての怒りも。失ったものは何をしても決して取り戻すことはできない。それがどんなに強い願いでも、何を懸けてもだ。魔法と引き換えに失ったものを取り戻すこともできない。魔女も一度は何らかの形でその感情を抱いたことがある筈なのに、それを知っていながら他人にもその業を背負わせたのだ。
この怒りは自分自身の感情に繋がるもので、正義感などではないことは解っている。見ず知らずの人の為に命を捧げることができるほどお人好しでもない。けれど、その見ず知らずの人の死を背負うこともできない。
「こんなの嫌なんです……放って置いたら次はどんなことをしてくるか」
「それでも、他に何か方法がある筈です。アサコ様をそんな危険な目に晒せません」
首を横に振りながら言うサリュケに、アサコは眉尻を下げた。彼女が本当に心の底から心配してくれていることが分かる。
ここへ来る前の出来事を思い出したことで、ずっと胸に潜んでいた罪悪感の様なものの正体を知った。最後まで苦しみながら死んでしまった母の姿は、アサコに死への恐怖心を植え付けていった。その恐怖心に対しての強い罪悪感がある。母がいなくなってしまったことへの悲しみや寂しさと同等の位置にあった自身のその感情に、アサコは嫌悪した。そして、その感情から目を逸らした。
二人の死への実感は、ある様で未だにあまりいない。本当の意味で理解する時は、きっと大きな喪失感が薄れた頃だろう。この不思議な場所からもし万が一元の場所へ戻れたとして、もしかすると母や祖母はまだ存在しているかもしれないとも思ってしまう。そもそもこの場所が夢の様な場所なのだから、あの出来事さえもただの悪夢であったならという願望だ。
夢ではない。もうそれは解っている。もし夢だったなら「不思議な夢だった」と余韻もあまりないまま片付けることができる事も、現実に起こればぞっとする様な恐ろしさを伴ってくる。アサコは今、人ではないのだ。それだけは間違いようがない事実で、そしてその原因となった出来事も確実に在ったことに違いない。
そもそも、アサコは捨てられた感情からできた継ぎ接ぎであって、本人でさえない。本体であるアサコは元の場所で引き続き生きているのだ。今の姿をどれだけ保っていられるのか、アサコにははっきりとは判らず、だから余計に残り少ないかもしれない時間の全てをびくびくしながら過ごすのは嫌だった。
「やってみる価値はあるだろうね」
そう言ったのはイーヴェだった。サリュケの咎める様な強い目線が向かうと、彼は苦笑した。
「勘違いしないで欲しいんだけど、何もアサコを魔女に差し出そうという訳ではなく、あくまで囮だ。魔女は魔法使いには勝てない。魔法使いの全面的な協力があれば、危険性は少ない。むしろこちらから罠を仕掛けておいた方がまだ安全だろう」
「兄さん、それはとても面白そうですが、どのように? 相手はこちらの情報を或る程度は握っているでしょうが、こちら側にある相手の情報は皆無に近いと思うのですが」
「そのことについてだけど、ラミラからある程度の情報は得ている」
そう言うとイーヴェはアサコに見せた事のないような、申し訳無さそうな表情を作った。
「ご自身だけ刺されるならまだしも、なんて傍迷惑な……」
イーヴェの話を聞いてそう呟いたのはサリュケだったが、そこにいたほとんどの人間が同意見だったに違いない。
ラミラが言うに、魔女は自分たちと同じようにイーヴェに恋焦がれた人間だということだった。アサコに嫉妬心を抱き、ラカの命を代償に彼を自分だけのものにしたいと願っている。
魔女は姉妹に自身の欲望を隠して近づいてきたが、それは隠し切れていなかったのだろう。それとも似た感情を持つ姉妹が目敏かったのかもしれない。
どちらにしても、サリュケが言うように傍迷惑な話だった。いっその事、イーヴェを魔女に差し出せば全て丸く収まるのではないかとアサコは考えたが、流石に一国の王子である。余計なことを言いそうになる口を噤んだ。
「しかしそれだと範囲が広すぎますね。兄さん、心当たりは」
「関係を持った者の記録は念のためとってあるけど、そのなかにいるとは限らないかな」
「記録……」
アサコは呆気にとられて呟いた。危機管理の為かもしれないが、いったい何人の女性の名がそこに記されているのだろうか。以前直接目撃してしまった光景を思い出すと胸がざわついたが、それを意識しないようにした。
彼が言うように、関係を持った女性だけがイーヴェを慕っているわけではないことはアサコにも容易に想像できた。
「しかしそれが確かなら、魔女を誘き寄せるのは案外簡単かもしれませんね」
そう言ってアサコを見て微笑んだのはジュリアスだった。
確かに、アサコがイーヴェの花嫁として側にいるだけでも十分効果があるのだろう。それならば今までとそう変わらずにいるだけでもいいのかもしれない。あとは、いざ魔女が仕掛けてきた時の対処法だ。ディルディーエが側にずっと付き添っていてくれれば安全だが、それでは囮の意味もない。
鳥の姿の魔法使いは、アサコの手のひらの上でトントンと跳ねた。
「心配いらないよ、アサコ。目印を付けておけば私もお前のいる場所にすぐに行ける。それを飲みなさい」
そう促され、いつの間にか手のひらにあったつま先ほどの小さな水滴の様な粒を、アサコは何の疑いもなく飲み込んだ。