第39話 誰も、その花を知らない⑦
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
その瞬間。
聖堂にいたすべての者が、言葉を失った。
開かれた大扉の向こうに、一人の花嫁が立っていた。
エリシア。
その隣には、養父である宰相レオナルド。
エリシアは片手にブーケを持ち、もう一方の手をレオナルドの腕に添えている。
顔を覆うのは、薄く透き通ったウェディングベール。
その向こうに表情をうっすらと覗かせながら、エリシアはゆっくりと歩き始めた。
一歩。
また一歩。
長いバージンロードの先。
祭壇の前では、ガレオスが待っている。
普段の鎧姿ではない。
今日のために用意された騎士団長としての正装に身を包み、真っ直ぐに立っていた。
その視線は、ただ一人。
自分のもとへ歩いてくるエリシアへ向けられている。
高い窓から差し込んだ陽光が、花嫁のドレスを照らし出した。
「……天羽絹」
誰かが、掠れた吐息とともに呟いた。
淡い銀色。
けれど、ただ銀色に輝いているわけではない。
エリシアが一歩進むたび、布地が空気をたっぷりと孕んで波打つように揺れ、水面のような銀の光沢が滑らかに流れる。
見る角度によって、ほんのわずかに青みを帯びる至高の生地。
最高級の布――天羽絹。
王侯貴族であっても手に入らない至宝でありながら、若い世代にとっては「重々しく古めかしい伝統衣装」という印象が強かった。
だが今、目の前にあるそれは、まるでドレスそのものが呼吸をしているかのように軽やかだった。
布を何重にも重ねて重苦しく膨らませていた従来の礼装とは、根本から違う。
内側に仕込まれた見えない骨組み――パニエが美しい空間を作り出し、天羽絹のしなやかさを余すところなく波のような立体感へと変えていた。
歩みの一歩ごとに光が乱反射し、陰影が刻一刻と表情を変えていく。
胸元から腰へと滑らかに絞り込まれた、見たこともない美しいくびれ。
そこから、大輪の花が一瞬で開花したかのように広がるスカート。
天羽絹に施された銀糸の桑の葉の刺繍と、必要な場所にだけ添えられた極小の真珠が、過度な飾り立てを拒むように気品ある輝きを放っていた。
息を呑むような静寂の中、参列した貴婦人たちは誰一人として声を出せなかった。
扇子を持つ手すら止め、ある者は無意識のうちに自分の腰元へ手を当て、信じられないものを見るようにただ立ち尽くしている。
古い歴史の象徴だった布が今、若い令嬢たちの胸を激しく締めつける、眩い憧れそのものへと姿を変えていた。
けれど。
そんな周囲の熱い視線を、エリシアはどこか遠くに感じていた。
今の彼女には、それ以上に胸をいっぱいにするものがあった。
――見える。
長いバージンロードの両側に並ぶ人々の顔が。
自分を見つめる王妃の優しい微笑みも。
目を丸くしている若い令嬢たちも。
その一人一人の表情が、はっきりと見える。
いつもなら、眼鏡を外せば何もかもがぼやけてしまう距離だった。
けれど今日は違う。
そして何より――。
祭壇の前に立つガレオスの顔が、はっきりと見えていた。
いつもより少しだけ引き締まった表情。
けれど、その目は真っ直ぐに自分だけを見ている。
腕に伝わる、養父レオナルドの温かな重み。
一歩、また一歩と祭壇へ近づくその歩みに合わせて、古い記憶が胸の奥から静かに溢れ出してきた。
王都の孤児院。
そこが、二人の始まりだった。
ガレオスは昔から身体が大きく、面倒見がよかった。
泣いている子がいれば真っ先に駆けつけ、重い荷物があれば黙って持っていく。
頼れる兄のような背中を、エリシアはいつの間にか目で追うようになっていた。
やがてガレオスは騎士団へ入り、孤児院を出て遠くへ行った。
寂しさに暮れる日々の中、彼から届いた荷物の中に、何冊もの本があった。
『お前らは勉強しろ』
久しぶりに顔を見せたガレオスは、照れ臭そうに言った。
『やりたいことができた時、何も知らないせいで諦めるのはもったいねぇだろ』
あの言葉があったから、必死に勉強した。
ガレオスが自分たちのために戦っているのなら、自分も誰かの役に立てる人間になりたかった。
努力の末に掴んだ、王城の内局での仕事。
やがて王都へ戻ってきたガレオスは、王国一と称される英雄になっていた。
それに比べて、自分は書類とインクにまみれる地味な実務官。
分厚い眼鏡の奥に、幼い頃からの想いをずっと閉じ込めていた。
自分では、彼には釣り合わないと。
だからこそ、彼から結婚してほしいと言われたあの日は、夢ではないかと疑うほど嬉しかった。
ガレオスの待つ祭壇が、もう目の前まで迫っている。
歩みを進めるごとに、人生のすべての時間がこの道へと繋がっていたのだと、胸が熱を帯びていく。
恐れていたものは、どこにもなかった。
地味な女だと笑う目も、釣り合わないと蔑む冷たい視線も。
あるのは、驚きと、温かな祝福だけだった。
鏡子が髪を整え、メイクをしてくれた。
ドーラたちが、この奇跡のようなドレスを縫い上げてくれた。
亮一のおかげで、大切な人たちの笑顔をこの瞳で見ることができている。
――私、ここにいていいんだ。
誰かと比べる必要なんてない。
あの人が、私を選んでくれたのだから。
視界が潤みそうになるのを、エリシアはそっと息を吸って押し留めた。
泣くのは、まだ早い。
今は、この景色をしっかりと見ていたかった。
その隣から。
「……うっ」
盛大に鼻をすする音が聞こえた。
荘厳な聖堂には、少々似つかわしくない音だった。
「……エリシア……立派になって……」
「お父様……」
エリシアは思わず笑った。
王国の政務を担い、どれほど難しい問題を突きつけられても冷静さを失わない宰相レオナルド。
その男が今は、次から次へと溢れる涙を隠そうともせずに頬を濡らしている。
「ふふっ……」
聖堂のあちこちから、温かな笑いがこぼれた。
参列席で妻が小さく息をつき、呆れたように、けれど潤んだ目で夫を見つめている。
誰もレオナルドを笑わなかった。
その涙が、娘への深い愛情そのものだと分かっていたからだ。
レオナルドは娘を支える腕に力を込め、最後の一歩を踏み出した。
祭壇の前。
ガレオスが一歩進み出る。
レオナルドはエリシアの手を取り、その大きな掌へと差し出した。
「ガレオス殿……」
「はい」
「娘を……頼む」
ガレオスは真っ直ぐにレオナルドを見つめ返した。
「必ず幸せにします」
「……うむ」
レオナルドが大きく頷き、ガレオスに託した娘の手をゆっくりと離す。
そして目元を拭いながら、自分の席へと戻っていった。
ガレオスが、エリシアへと向き直る。
薄いベール越しに、二人の視線が重なった。
ガレオスがそっと手を伸ばす。
戦場で決して揺らぐことのない屈強な指先が、わずかに震えていた。
指がベールの端に触れる。
ゆっくりと。
花嫁の顔を覆っていた薄布を持ち上げていく。
そして――。
ベールが上がった。
ガレオスの喉が、小さく鳴った。
呼吸が、完全に止まる。
控え室で、完成した姿を一度見ているはずだった。
それなのに。
祭壇の前で、ステンドグラスの荘厳な光を背負い、自分の妻として向かい合うエリシアを目の当たりにした瞬間、ガレオスの頭の中は真っ白に染め抜かれていた。
聖堂を包む厳かな空気も、参列者たちの気配も、何もかもが意識の外へと消え去っていく。
周囲のすべてが意識から抜け落ち、ただ目の前にいるエリシアだけが鮮烈に浮かび上がっていた。
参列者たちもまた、雷に打たれたような沈黙に包まれていた。
いつもの分厚い眼鏡がない。
そこに現れたのは、知的な気品を湛えた、息を呑むほどに端整な素顔だった。
隙間なく固めて結い上げる貴族の常識を覆す、低い位置でふんわりとまとめられたルーズシニヨン。
頬に沿って柔らかく揺れる繊細なおくれ毛が、首筋からデコルテの線をこれ以上なく優美に引き立てている。
白粉を塗り重ねた仮面のような白さではなく、内側から血色と瑞々しさを引き出した極上の素肌。
これまで自分たちが美しいと信じてきた化粧とは、何もかもが違う。
引き算の美学が生み出した洗練の前に、衣装や化粧に一家言ある貴婦人たちですら、扇子で口元を覆ったまま言葉を失っていた。
「……綺麗だ」
ガレオスの口から、掠れた声が零れ落ちた。
低く、けれど魂の底から絞り出すような響き。
エリシアが、はにかむように小さく笑う。
「控え室でも聞きました」
ガレオスは周囲の視線もすべて忘れ去り、ただ彼女だけに魂を奪われたように一歩踏み込んだ。
「……今のほうが、ずっと綺麗だ」
「え……?」
「――世界中の誰よりも、エリシアが綺麗だ。」
「…………」
エリシアの瞳が、ふわりと熱を帯びた。
「……ありがとうございます」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
染まっていくエリシアの頬を、ガレオスは愛おしそうに見つめ返す。
その目元には、戦場でも部下たちの前でも決して見せることのない、深いやわらかさが浮かんでいた。
少し離れた場所から、亮一と鏡子がその姿を見ていた。
鏡子は胸の前で小さく手を握りしめ、満足そうに微笑む。
亮一も腕を組み、静かに口元を緩めていた。
やがて、二人は並んで祭壇へ向き直った。
聖堂が再び、厳かな静寂に包まれる。
二人の前へ、神官が立った。
その奥では、調和の女神アフロディーテ像が二人を静かに見下ろしている。
神官が、厳かに口を開いた。
「異なる二つの歩みが、今日ここに交わります」
その声が、高い天井へ吸い込まれていく。
「互いを変えるためではなく」
「互いを認め」
「互いを支え」
「喜びも、悲しみも分かち合い、ともに歩むために」
ガレオスとエリシアが、互いを見つめ合う。
「調和の女神アフロディーテの御前にて――二人の誓いを」
ガレオスが深く息を吸い込んだ。
「エリシア」
「はい」
「俺は……器用な男ではない。お前を困らせることも、きっとある」
迷いのない瞳が、彼女を捉える。
「それでも――お前と生きていきたい。俺の隣にいてほしい」
エリシアの瞳から、光るものが零れ落ちそうになった。
目の前に立つガレオスの顔が、はっきりと見えている。
その目も。
その表情も。
何一つぼやけることなく。
「はい」
エリシアは、心からの笑みを浮かべた。
「私も、あなたと歩いていきます」
二人は、互いの指へ誓いの指輪を通した。
神官が静かに頷く。
「では――互いへの誓いを、その口づけをもって示しなさい」
ガレオスが、慈しむようにエリシアを引き寄せ、顔を近づける。
エリシアも静かに目を閉じた。
そして――二人の唇が、そっと重なった。
「今だよ、ウィル!」
鏡子が小さく合図する。
「うんっ!」
待ってましたとばかりに、ウィルの小さな身体が眩い光を放った。
一つだった光が、二つに。
二つが十に。
そして数え切れないほどの光の粉となって、聖堂の高い天井へ舞い上がっていく。
「……おお……」
誰からともなく、感嘆の息が漏れた。
無数の光は、祝福の雨のようにゆっくりと降り始める。
ガレオスの肩へ。
エリシアの柔らかな髪へ。
そして、天羽絹のドレスへ。
小さな光を受けるたび、波打つ生地が銀の輝きを鮮やかに乱反射させ、新郎と花嫁を柔らかな発光の繭で包み込んでいく。
その光景を見つめていたウィルが、ぱっと顔を輝かせた。
「鏡子、できたよ!」
「うん。最高だよ、ウィル」
ぱちん、と小さな音を立てて、二人の手が重なる。
だが、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
無数の光は祭壇の奥、巨大なアフロディーテ像へと吸い寄せられるように集まり、像の周囲に淡い光の輪を形作った。
そして――。
女神像の両腕から、まるで慈愛そのものが零れ落ちるかのように光が溢れ出し、ガレオスとエリシアの頭上を包み込んだ。
「……アフロディーテ様が」
震える声が、静寂を破った。
「お二人を……祝福してくださっている……」
誰も、それを疑わなかった。
愛する者を信じ、新たな一歩を踏み出した二人に、神の恩寵が下ったのだと。
誰の目にも、そう見えた。
光に包まれた女神像を見上げる鏡子の目には、ほんの一瞬だけ、その石像の微笑みが少しだけ深くなったように映った。
「……まさかね」
鏡子は小さく笑った。
光が優しく溶けていく中、神官が高らかに声を張り上げる。
「ここに――ガレオスとエリシア、二人の婚姻が成ったことを宣言する!」
一瞬の静寂ののち。
聖堂を揺るがすほどの、割れんばかりの拍手が二人を包み込んだ。
――To Be Continued
カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。




