第37話 誰も、その花を知らない⑤
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
そして――結婚式まで三日。
ハサミ理容室の貸し切り営業で、新郎新婦の身支度が始まった。
まずはガレオスのカットからだ。
「動くなよ」
「……分かっている」
革張りの理容椅子に深く腰掛けたガレオスは、まるで決闘の前のように背筋を伸ばしていた。
亮一は白いクロスを巻き、コームでガレオスの黒髪をゆっくりと梳かす。
「ガレオス、今回のスタイルは『クラシカル・サイドパート・フェード』でいく」
「……なんだ、その呪文のようなものは」
「大人の男の品格と清潔感を極限まで引き出す、正統派のバーバースタイルだ」
亮一は愛用のハサミを手に取る。
「サイドと襟足をすっきりと刈り上げて、トップを七三で自然に流す。どんな礼装にも似合って、隣に立つ花嫁を最高に引き立てる新郎のための髪型だ」
「……任せる。お前のハサミなら、命を預けてもいい」
「命は預からねぇよ。髪だけだ」
チャッ、チャッ――。
空気を切る鋭い金属音とともに、亮一の指先が迷いなく動く。
サクッ、サクッ、サクッ……。
重なり合う毛束の隙間にすきハサミを細かく入れ、剛毛特有の硬さを抜いていく。
手櫛を通すだけで自然と毛流れが生まれるように内部の量を削ぎ落とすと、次は手動バリカンを握り込んだ。
ジャキジャキジャキジャキッ――。
刃が襟足から後頭部へと滑り上がる。
肌の色から髪の黒さへとミリ単位で繋がるグラデーション――『フェード』。
太く逞しい首筋が、これ以上なく凛々しく際立った。
「次は顔だ」
レバーが引かれ、椅子がゆっくりと後ろへ倒れる。
アツアツの蒸しタオルが、ガレオスの顔全体を包み込んだ。
「……ふぅ……」
熱い蒸気が肌を緩め、無精髭を柔らかく解きほぐしていく。
タオルを外すと、温かい濃密な泡が塗り広げられた。
ショリッ……ショリ、ショリッ……。
カミソリが滑る繊細な音。
頬のライン、もみあげ、喉仏の周り。眉間や額の余分な産毛まで剃り落とされ、肌に澄んだ清潔感が通る。
冷たい水を含ませたタオルで肌を引き締め、アフターシェーブローションを優しくパッティングする。
手のひらに伸ばしたグリースを髪全体へ薄く馴染ませ、コームで綺麗に毛流れを整えてから椅子を起こされたガレオスは、目の前の鏡を凝視した。
「…………」
すっきりと刈り上げられたサイド、グリースの上品な艶をまとって端正に流された前髪。
精悍でありながら、大人の包容力に満ちた――まぎれもない「新郎」の姿がそこにあった。
「亮一……素晴らしい出来だ。見事としか言いようがない」
「……喜んでもらえて何よりだ。」
鏡子が横から覗き込んで笑う。
「これなら花嫁の隣に立っても問題なし!」
「……そうか」
ガレオスは照れくさそうに笑った。
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
続いて、エリシアの番だった。
「じゃあエリシアさん、シャンプー台へどうぞ!」
「は、はい……!」
少し緊張気味のエリシアを、鏡子は笑顔で案内した。
首元にクッションが当たり、体が水平になる。
「お湯加減、大丈夫?」
「はい……温かくて、とても気持ちいいです……」
きつく紐で結ばれ、連日の激務で凝り固まっていた頭皮へ、鏡子の指先がお湯を馴染ませていく。
アミノ酸のシャンプーでたっぷりと泡を立て、頭皮を揉みほぐすように洗う。
「ミリア、システムトリートメントの準備して!」
「はい、師匠!」
ミリアが手際よく薬剤を用意する。
鏡子は、傷んでスカスカになっていたエリシアの髪の内部へ、何段階にも分けて濃密なタンパク質と水分をじっくりと浸透させていった。
キューティクルを整えるように両手で優しく挟み、根元から毛先へ向かって何度も滑らせていく。そのたびに、パサついていた毛先がみるみる潤いを取り戻し、濡れた絹糸のような滑らかさへと変わっていった。
セット面へ戻り、鏡子が愛用のハサミを構える。
シャキ、シャキ、シャキッ……。
「エリシアさん、今日は『フェイスレイヤー・セミロング』にカットするね」
「フェイス……レイヤー?」
「そう! 髪全体に段差をつけて、ふんわりとした軽さと揺れ感を出すスタイルよ」
鏡子は前髪と顔周りの毛束を慎重につまみ、頬から顎のラインにかけて滑らかにハサミを入れた。
「大事なのは、この顔周りに作った『おくれ毛』なの」
「おくれ毛……ですか?」
「うん。結婚式当日はね、髪を低い位置でふんわりまとめる『ルーズシニヨン』っていう大人のアップスタイルにするの」
鏡子は手鏡を見せながら、楽しそうに説明する。
「その時、今日仕込んだこの毛束を少し巻いて下ろしてあげると、首筋とデコルテが信じられないくらい綺麗に見えるんだから!」
「ルーズシニヨン……」
「そう、天羽絹のドレスを一番美しく見せるための、とっておきの仕込みカットだよ!」
ドライヤーの温風とロールブラシが通されるたび、エリシアの髪は真珠のような淡い光沢を放ち始めた。
指を通せばサラサラと滑り落ちる極上の髪。
「……私の髪じゃないみたいです」
エリシアが恐る恐る触れる。
「いつも仕事の邪魔にならないよう、ただきつく結ぶだけでしたから。まさか、自分の髪がこんな風に綺麗になるなんて……考えたこともありませんでした」
指先をすり抜けるシルクのような感触に、瞳を潤ませていた。
◇ ◇ ◇
カットを終えた鏡子が、ふとエリシアの眼鏡を見る。
「……あれ?」
「どうしました?」
「結婚式当日、これ取らないの?」
エリシアは困ったように笑った。
「取ったら……何も見えないんです」
「ー……」
鏡子はエリシアの髪と眼鏡を交互に見る。
「そっかぁ……」
「せっかく綺麗に髪を作っても、眼鏡と合わせるのはちょっと難しいなぁ」
少し考える。
「でも、しょうがないかぁ」
そして、ふと思い出したように言った。
「そういえば、この世界にはコンタクトレンズってないんでしょう?」
「コンタクトレンズ?」
ガレオスが首を傾げる。
「うん。目の中に薄いガラスのレンズを入れるんだけど――」
「目の中にガラス!?」
ガレオスが目を見開いた。
「そんなものを入れて、もし目の中で割れたらどうするんだ!」
「いや、普通は割れないから……」
「普通は!?」
ガレオスの顔が引きつる。
ミリアも自分の目を押さえた。
「私もちょっと怖いです……」
鏡子は苦笑した。
「まあ、ないものは仕方ないか」
「眼鏡に合わせて、何とかするしか――」
「……視力なら、何とかなるぞ」
亮一がぽつりと言った。
「え?」
鏡子が振り返る。
「どうにかなるって、どうするの?」
「エリシアの頭部の秘孔を突く」
「秘孔を……どういうこと?」
目を丸くする鏡子に、亮一は至って真面目な顔で答えた。
「昔、一人旅で中国の桂林に行った時にさ。現地の達人から人体の秘孔を学んだんだよ」
「けいりん……?」
ガレオスが眉をひそめる。
「ヘッドスパ中に特定の秘孔を突けば、一時的に視力は回復する」
亮一は淡々と説明を続けた。
「ただし、眼球内の筋肉を刺激して目のレンズのピントを強制的に合わせるだけだ。三日もすれば元に戻る」
「三日……!」
鏡子が身を乗り出した。
「結婚式当日まで、ちょうど持つじゃん!」
◇ ◇ ◇
こうして、亮一によるヘッドスパが始まった。
エリシアは理容椅子に深く腰掛け、そっと目を閉じる。
温めたハーブオイルを手のひらに馴染ませ、亮一の指先がエリシアの後頭部へと添えられた。
静寂の中、亮一の指先にスッと力が込められる。
ズブッ――。
「あっ、あっ……あっ……あっ」
エリシアの口から、掠れた声が漏れ出す。
その瞬間、後ろから見守っていた鏡子とガレオスの表情が一変した。
亮一の太い両手の親指が、エリシアの頭部にあり得ない深さまでめり込んでいるように見えたのだ。
「ちょっ! ちょっと! 大丈夫なんだよね!? 指が入っちゃってるけど!?」
鏡子が悲鳴混じりに叫ぶ。
ガレオスも思わず腰を浮かせ、青ざめた顔で身を乗り出した。
「亮一、大丈夫なんだよな!? 信じてるぞ!!」
「大丈夫だ。俺を信じろ」
亮一は眉一つ動かさず、正確無比な力加減で指先をミリ単位で動かす。
「だ、大丈夫で、あっ、です……。あっ、いたく、あっ、ありま、あっせん……!」
エリシアの背中が小さく震える。
痛覚ではない。
頭蓋の奥深く、凝り固まっていた神経と筋膜が一気に解放され、視界の裏側に強烈な温感が駆け巡っていく感覚。
「あっ、……あっ、あっ……!」
「目を動かす筋肉は、後頭部の深層筋肉と神経で繋がっている。ここを緩めて血流を通せば、毛様体筋の緊張が解ける」
側頭部から眉間へと、淀みなく指が滑る。
やがて――。
「よし」
亮一が静かに手を離した。
「目、開けてみろ」
エリシアがゆっくりと瞼を開ける。
「…………」
ゆっくりと目を開ける。
ぼやけていた世界が――。
木製の壁の細かな木目。
窓から差し込む光の粒。
息を呑んで自分を見つめる鏡子、ミリア、そしてガレオスの表情。
すべてが、まるで澄み切った水を通したように、くっきりと見えた。
「……見える」
エリシアが小さく呟いた。
「見えます……!」
「本当に!?」
鏡子が思わず身を乗り出す。
「すごい……!」
ミリアも目を輝かせる。
ガレオスも、しばらく言葉を失っていた。
エリシアは眼鏡を手にしたまま、静かに微笑んだ。
誰もまだ、眼鏡を外したエリシアの素顔を知らない。
このことを知っているのは――ここにいる者たちだけ。
王族も知らない。
貴族も知らない。
王都の人々も知らない。
鏡子はエリシアを見つめる。
(……これは、当日とんでもないことになるわね)
普段の分厚い眼鏡の奥に隠されていた、息を呑むような素顔。
そこに、あの天羽絹のドレスと、当日のルーズシニヨンが合わさったら――。
「……ふふっ」
鏡子は小さく笑った。
「当日、みんな驚くよ」
「そんなに……ですか?」
「うん!」
鏡子は、それ以上は言わなかった。
◇ ◇ ◇
そんな準備の様子を、少し離れた場所から見ている小さな光があった。
光の精霊、ウィル。
みんなが忙しく動いている。
ドレスを作るドーラたち。
髪を整える亮一たち。
メイクを覚える王宮のメイドたち。
自分だけが、何もしていない。
「ねえ、鏡子」
「ん?」
「ボクも何か手伝いたい!」
鏡子が振り返る。
「ウィルも?」
「うん!」
ウィルは元気よく頷いた。
「みんな頑張ってるんだもん」
「ボクも役に立ちたい!」
だが、すぐに少し困った顔になる。
「でも……」
「ボク、何をすればいいのか分からない」
鏡子は少し考える。
そして笑った。
「じゃあ、ウィルには――」
「うん?」
「結婚式当日にやってもらいたい、大事な仕事があるよ」
「えっ!?」
ウィルの顔がぱっと明るくなる。
「ボクに?」
「うん」
「ボクにもできるの!?」
「できるよ」
鏡子は微笑む。
「ウィルにしかできない仕事」
「やったぁ!」
ウィルが嬉しそうに飛び回る。
「分かった!」
「ボク、絶対頑張る!」
その仕事内容を、鏡子はまだ誰にも明かさなかった。
◇ ◇ ◇
そして、準備期間の最後。
ドーラの工房で作業を終えた一同が、完成したドレスをハサミ理容室へと運び込んできた。
「できたよ」
ドーラの誇らしげな声が店内に響く。
カバーが外された瞬間、店内の空気が一変した。
そこにあったのは――息を呑むほどに美しい、一着のウェディングドレスだった。
天羽絹が窓からの光を柔らかく吸い込み、銀色の微光をまとっている。
パニエによって優雅に弧を描くスカート。
職人たちが一針一針縫い上げた、胸元の真珠と銀糸の刺繍。
鏡子が描いた型紙。
ドーラの職人技。
ナラとノエル。
近所の女性たち。
たくさんの人の手と想いが、一着のドレスに込められていた。
「……綺麗」
エリシアが呟く。
その声は、震えていた。
「私のために……こんな……」
ドーラが笑う。
「あんたが今まで市井のために頑張ってきたんだ」
「今度は、こっちがあんたのために頑張る番さ」
「……」
エリシアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
ドレスだけではない。
髪飾り。
アクセサリー。
結婚式の装飾品。
ガレオスの衣装。
エリシアの衣装。
美容道具。
必要なものは、すべて揃った。
長かった準備期間も、いよいよ終わりを迎える。
鏡子は店内を見渡した。
「よし!」
満足そうに頷く。
「これで、準備は全部終わり!」
亮一も頷いた。
「ああ」
「やることは、全部やったな」
その言葉に、みんなが笑った。
あとは――。
結婚式当日を迎えるだけ。
◇ ◇ ◇
――その夜。
王都アルトの街には、すっかり夜の帳が下りていた。
昼間まで聞こえていた人々の声も遠くなり、ハサミ理容室の周囲にも静かな時間が流れている。
店内に残っているのは、亮一と鏡子だけだった。
「ふう……」
鏡子が椅子に深く腰掛け、大きく伸びをした。
長かった結婚式の準備期間も、ようやく終わりを迎えようとしている。
「……ねえ、亮一」
「ん?」
「私たちってさ、明日、結婚式に参列するよね?」
「……そうだな」
「衣装もちゃんと用意してあるし、靴もバッチリ、ご祝儀も準備OK……」
そこまで言って、鏡子は急に動きを止めた。
「……あれ?」
「どうした?」
亮一がカウンターの片付けをしながら振り返る。
「私たち自身の……髪型ってどうするんだっけ?」
「…………」
店内に、気まずい沈黙が流れた。
二人が互いの頭部を凝視する。
鏡子の髪は、数日間の激務で少し伸び、毛先がハネている。
亮一の髪も、無精髭こそ剃っていないものの、全体のシルエットはすっかり伸びきって野暮ったくなっていた。
「……明日、要人や貴族がずらっと並ぶ式典だよね?」
「……だな」
「私たちの頭、ボサボサじゃない!!」
「…………」
亮一の手から、ふきんがポトリと落ちた。
「忘れてたーーー!!」
◇ ◇ ◇
「ほら、先に鏡子からやるぞ。座れ」
「はいはい」
急遽、夜更けの店内で二人の身支度が始まった。
亮一が専用のクロスを鏡子に巻きつけ、ハサミを持つ。
「長さはあんまり変えないで。毛先を整えて、顔まわりだけ少し軽くして!」
「注文多いな」
「明日なんだから、ちゃんとしてよ! 転写魔法に残るんだからね!」
「分かった分かった」
チョキ。
チョキ。
静かな夜の店内に、心地よいハサミの音が響く。
「はい、交代!」
今度は鏡子がハサミを持った。
「亮一、動かないでよ!」
「動いてないだろ」
「今、ちょっと動いた!」
「……厳しいな」
「プロですから!」
鏡子のハサミが軽快に動く。
昼間、エリシアのために使われていた鏡の前で、今度は二人自身が明日のために髪を整えていく。
気がつけば、夜もかなり更けていた。
「……よし」
鏡子が鏡を見る。
亮一も、自分の仕上がった髪型を確認した。
「……いいな。俺の髪質で、よくここまで軽さ出したな」
「ふふん。誰に言ってるのよ」
鏡子は笑いながら、自分の髪にも触れる。
「でも亮一も、私が言った通り長さは残してるのに、ちゃんと顔まわりが軽くなってる。こういう細かい仕事、ほんと上手いよね」
「注文が細かかったからな」
「そこは素直に褒められなさいよ」
「褒められたから礼は言っとく。ありがとな」
「……素直なのか素直じゃないのか、どっちなのよ
二人は顔を見合わせた。
「……今度こそ」
「準備完了!」
店内の灯りが消える。
静かな夜の王都アルト。
そして――。
明日は、ガレオスとエリシアの結婚式。
ドーラたちが作ったドレス。
鏡子と亮一が整えた花嫁と花婿。
王宮のメイドたちが覚えた美容技術。
そして、ウィルに託された大切な役目。
すべての準備は終わった。
あとは――。
その日を迎えるだけだった。
――To Be Continued.
カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。




