第35話 誰も、その花を知らない③
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
結婚式まで、あと一カ月。
王都アルトの街並みは、今日も変わらない。
行き交う人々の声。
荷車の車輪が石畳を叩く音。
露店から漂ってくる焼き菓子の甘い香り。
そんな日常の片隅で――ハサミ理容室だけは、少しずつ特別な空気に包まれ始めていた。
結婚式の準備。
それは、二人だけのものではなかった。
エリシアを知る者たちが、一人、また一人と準備に加わっていく。
その最初の仕事は――ウェディングドレスだった。
◇ ◇ ◇
ハサミ理容室の店内。
大きなテーブルの上に、一枚の巨大な型紙が広げられていた。
窓から差し込む午後の光が、紙の上に引かれた無数の線を照らしている。
その前で、ドーラは腕を組んでいた。
「…………」
黙って、型紙の端から端まで目を走らせる。
そして、もう一度最初から見る。
「……なんだい、こりゃ」
「どうしたんですか?」
ナラが横から覗き込む。
ノエルも興味深そうに身を寄せた。
「エリシアさんのドレスなんですよね?」
「ああ」
ドーラは答えながらも、型紙から目を離さない。
「……こんなデザイン、見たことがないよ」
それは、ただ奇抜なデザインというわけではなかった。
上半身をすっきりと見せる線。
腰の位置。
そこから大きく広がっていくスカート。
布をただ大量に使っているわけではない。
どこに布を配置し、どの方向へ流し、どこで広げるのか。
細かな線の一つ一つに意味がある。
ドーラは指先で型紙をなぞった。
「……ここで上半身を小さく見せて、そこから一気に布を広げる。歩き出した時の布の流れまで、最初から計算してるね?」
「ふふっ、分かっちゃいました?」
鏡子が嬉しそうに微笑む。
「私の故郷のウェディングドレスの構造なんです。花嫁さんが立っている時も、歩く時も、一番綺麗に見えるようにしたくて」
鏡子はそう言うと、細くしなやかな樹脂の骨を取り出してテーブルの上に置いた。
「この上半身の美しいラインを作るのが、『コルセット』という構造です」
「コルセット?」
「はい。この骨を布の継ぎ目に仕込むんです。 ぎゅっと引き締めるのではなく、立体的に仕立てることで、エリシアさんの豊かな胸元を包み込みながら、驚くほど細いウエストを自然に強調します。 彼女の本来の美しい曲線を極限まで引き出す設計なんです」
「…………」
ドーラの目が、型紙の横に置かれていた奇妙な骨組みに止まる。
「こっちの輪っかの骨組みはなんだい?」
「『パニエ』って言って、スカートの中に入れるんですよ。服そのものを布の量で膨らませるんじゃなくて、内側に空間を作って広げるんです」
鏡子は身振り手振りを交えながら、楽しそうに説明を続ける。
ドーラは型紙とパニエを交互に見る。
そして――ハッと目を見開いた。
「……なるほど。天羽絹の軽さと光沢を、一番綺麗に出すための設計か。しかもこの骨組みを使う前提で型紙を引いてるのかい」
「はい! 天羽絹の良さを最大限に活かすなら、絶対この形がいいと思って」
鏡子が目を輝かせて答えると、ドーラの口元がゆっくりと緩んだ。
ドーラは、感心したように深く息を吐いた。
「うちの頑固な亭主が、仕事終わりに毎日嬉しそうにここへビールを飲みに通うわけだよ。『あいつらの腕と発想は桁外れだ』って珍しく褒めてた理由が、ようやく分かったよ」
ドーラは鍛冶師ガンツの妻であり、王都でも指折りの腕利き仕立て職人である。
その目には、職人としての強い火が灯っていた。
「……面白いじゃないか。こんなものを仕立てられるなんて、腕が鳴るよ」
ドーラは広げた型紙を丁寧に巻き、パニエと天羽絹の反物を抱え上げた。
「よし、構造は全部頭に入った! ここから先は、あたしの工房でやるよ」
「手伝います、ドーラさん!」
ナラがすぐに手を挙げる。
ノエルも駆け寄った。
「私にも何かできることがあれば、ぜひ手伝わせてください!」
「助かるよ、二人とも。おいで!」
ドーラを先頭に、ナラとノエルがハサミ理容室を後にして工房へと向かっていった。
◇ ◇ ◇
王都の職人街にある、ドーラの仕立て工房。
重厚な石造りの室内には、色とりどりの糸巻きや裁縫道具、そして巨大なカシの木の一枚板で作られた作業台が鎮座していた。
ドワーフの工房らしく、道具の手入れは寸分の狂いもなく行き届いている。
「よし、二人とも騒ぐんじゃないよ」
ドーラが作業台の中央に、天羽絹の反物をゆっくりと広げた。
ざぁっ……と、布が滑る音が響く。
「…………っ」
ナラとノエルが、その張り詰めた空気に思わず息を止めた。
天窓から差し込む陽光を受け、純白の生地が微かに青みを帯びた銀色の光沢を放つ。
触れるまでもなく分かる、吸い込まれるようなキメの細かさ。
水面のように滑らかでありながら、決してへたれることのない神秘的なハリとコシ。
「これが……蚕人族の女王が紡いだ『天羽絹』……」
ノエルが震える指先で、そっと生地の端に触れる。
「羽毛より軽いのに……指に吸い付くようです」
「ああ。なんせ女王様が紡いだ、世界にこれ一反しかない最高級品だ。代えはきかない。失敗は一ミリも許されないよ」
ドーラは腰の革袋から、銀色に輝く特注の裁ちハサミを取り出した。
夫であるガンツが、技を尽くして鍛え上げた極上一振りだ。
型紙を作業台の天羽絹の上に寸分の狂いもなく配置し、文鎮を置く。
ドーラの目が、鋭い職人の眼光へと変わった。
ジョキッ……ジョキ、ジョキッ……!
静寂に包まれた工房に、研ぎ澄まされた刃が最高級の絹を断ち切る澄んだ音だけが響く。
流れるような手捌き。
迷いのない刃線。
切り落とした天羽絹の端切れさえ、まるで意思を持つ光の粉のように作業台へ舞い落ちる。
「まずは型紙に合わせて、全パーツを切り出すよ! ナラ、ノエル、手伝いな!」
「「はい!」」
◇ ◇ ◇
そこから数日かけて、切り出されたパーツの縫い合わせが行われた。
ドーラの手によって、まずは上半身のベースが完成する。
「ドーラさん、次はこれですね!」
ナラが、鏡子から預かっていた細くしなやかな樹脂の骨を取り出した。
「ああ。ここからがあの『コルセット構造』の出番だ」
ドーラはそれを受け取ると、縫い合わせた布の継ぎ目へと丁寧に仕込んでいく。
「ここに骨を仕込むことで、エリシアの美しい曲線を極限まで引き出す設計ってわけさ。鏡子のやつ、本当によく考えてるよ」
さらに数日が経過し――いよいよ最後の工程へ。
◇ ◇ ◇
ドーラは作業台の上に『パニエ』を置き、その上から、放射状に縫い合わされたスカート部分の天羽絹をゆっくりと重ねていく。
骨組みの上に布がふわりと覆いかぶさった瞬間――。
まるで純白の大輪の花が、一瞬で開花したかのような光景が広がった。
布を何十枚も重ねて重く膨らませる従来のドレスとは、根本から違う。
空気をたっぷりと孕んだスカートは、光の反射で陰影が刻一刻と変化する。
内側に空間があるため、足さばきも抜群に軽い。
「……わぁっ……!」
ナラが目を輝かせ、弾んだ歓声を上げた。
「すごい……これが、ウェディングドレス……」
ノエルも両手で口元を覆い、圧倒的な美しさに言葉を失って息を呑んだ。
「信じられない……」
ドーラは感嘆の声を漏らした。
「布の重みで潰れない。それどころか、天羽絹のしなやかさが全部、波のような立体感に変わってる……! 鏡子のやつ、本当に天才だよ!」
◇ ◇ ◇
工房には、噂を聞きつけた近所の女性たちも集まってきた。
「エリシアさんのドレス、手伝わせて!」
「私、レース編みなら誰にも負けないわ!」
「いつも私たちのために働いてくださっているエリシアさんだもの。恩返しをさせて!」
工房の熱気は最高潮に達していた。
ドーラがプロとして縫製の総仕上げを一手に引き受け、ナラやノエル、女性たちが装飾を担当する。
胸元には、控えめでありながら清楚な輝きを放つ極小の真珠が一粒ずつ縫い付けられていく。
裾周りには、天羽絹を託してくれた蚕人族の『桑の木様』との縁に感謝を込めるように、桑の葉をモチーフにした繊細な銀糸の刺繍。
「エリシア様、絶対に幸せになってほしいね」
「あんなに真面目で優しい人なんだもの」
「当日、あの頑固な騎士団長様を驚かせてやりましょう!」
針を通す音。
布を撫でる手の温もり。
そして、人々のあたたかな祈りと笑い声。
ただ豪華なだけではない。
王都の人々の愛情と、地球のデザイン、そしてドワーフの至高の職人技が溶け合い――世界にたった一着の奇跡のウェディングドレスが、刻一刻と命を宿していった。⸻
――To Be Continued.
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