第3話 美容師、異世界へ
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
東京都港区青山。
表参道から一本奥へ入った静かなストリートに佇む、完全予約制のラグジュアリーサロン。
――Salon Miroir
フランス語で「鏡」を意味するその名は、美しさの本質を映し出す場所という理念に由来する。
予約は三ヶ月待ち。
トップモデルや人気俳優、アーティスト、著名人たちが足繁く通う、業界屈指の名店だった。
店内には洗練されたジャズが静かに流れ、天井まで届く大きな窓から柔らかな朝の光が降り注ぐ。アンティークゴールドのフレームを纏った鏡が美しく並び、厳選されたグリーンやアートピースが空間に上質な彩りを添えていた。
「今日はどんな感じにしましょうか?」
鏡の前に座る女性へ、鏡子が柔らかく微笑む。
「長さはあまり変えたくないんですけど、韓国アイドルみたいなくびれ感がある感じにしたくて。重たい感じもなくしたいんです」
「なるほど。顔まわりを少し軽くして、動きが出るようにしましょうか。お仕事の時も扱いやすくなりますよ」
「それいいです!」
「じゃあお任せください」
軽く要望を聞きながら、鏡子は髪に触れる。
指先で髪質を確認する。
生え癖。骨格。輪郭。肌の色。服装。数秒。
それだけで完成形が頭の中に浮かぶ。
櫛引鏡子。
二十八歳。
国内トップクラスの美容師である。
ハサミが動いた。
チョキ。チョキ。チョキ。
軽快な音が店内に響く。
迷いはない。
まるで完成図をなぞるように髪が落ちていく。
「相変わらず速いなぁ……」
少し離れた場所で作業していた若いスタッフが思わず呟く。
「しかも正確」
「真似できる気がしない」
誰もが認める技術だった。
壁には数々の賞状が飾られている。
全国美容技術選手権優勝。
アジアヘアデザインコンテスト優勝。
ジャパンビューティーアワード最優秀賞。
その他多数。
もはや数えるのも面倒なほどだった。
気付けば夕方。
窓の外は茜色に染まり、やがて街のネオンが灯り始める。
さらに夜。
鏡子は休憩らしい休憩も取らず、予約表を次々と消化していく。
「鏡子さん、お昼まだですよね?」
スタッフが心配そうに声を掛けた。
「あー……そういえば」
「またですか」
「忙しかったから」
「昨日もほとんど休んでませんでしたよね?」
「うん」
「寝ました?」
「三時間くらい?」
「少なっ!」
スタッフが頭を抱える。
本人はけろっとしていた。
「ありがとうございましたー」
最後の客を見送る。
自動ドアが閉まり、店内に静けさが戻る。
今日の客は人気女優だった。
「鏡子さんの予約、本当に取れませんね」
マネージャーが苦笑する。
「三ヶ月待ちですから」
「というか、予約入れすぎなんですよ」
「私じゃなくて店が入れてる」
「断ればいいじゃないですか」
「断ると可哀想だし」
「その結果、鏡子さんが働きすぎなんですけど」
「うーん」
鏡子は少し考えた。
「今度ちゃんと休む」
「それ先月も聞きました」
スタッフたちが笑う。
技術は超一流。
だが仕事を引き受けすぎて、自分のことは後回し。
それが櫛引鏡子だった。
◇ ◇ ◇
夜。
スタッフが帰り、店内は静かになっていた。
営業中の賑わいが嘘のように消え、聞こえるのは空調の微かな音だけだ。
鏡子はソファに座り、一冊の業界誌を睨みつけていた。
表紙には男が載っている。
理美容世界大会優勝。
鋏亮一。
「くぅぅぅぅ……」
鏡子が唸る。
「決勝で負けたぁぁぁぁ……」
思い出しても悔しい。
あと一歩だった。
だが勝ったのは亮一だった。
決勝では鏡子のデザイン性と繊細なカット技術も高く評価されたが、亮一は理容師ならではの精密なフェード技術と、モデルの骨格や髪質を最大限に活かした完成度で僅差の勝利を収めた。
審査員からは「技術と実用性、美しさのバランスが突出していた」と絶賛されていた。
誌面に載る優勝者の笑顔が妙に腹立たしい。
「次は絶対に勝つ……」
負けず嫌いなのである。
帰宅後。
シャワーを浴び、モコモコのパジャマに着替える。
疲れ切った体を引きずるように寝室へ向かった。
ベッドへ潜り込む前に、いつものように愛用のハサミをベッドボードへ置いた。
美容師にとってハサミは相棒だ。
落ち着く。
「おやすみ……」
そのまま目を閉じる。
連日の仕事で瞼は重かった。
枕に頭を乗せた瞬間、意識が沈んでいく。
そして――
◇ ◇ ◇
気付くと、見知らぬ場所にいた。
白い大理石の床。
金色の柱。
豪華な玉座。
神殿のような空間だった。
天井は遥か高く、どこからともなく柔らかな光が降り注いでいる。
「うわ……変な夢」
鏡子はぼんやり呟いた。
最近寝不足だったせいか、妙にリアルな夢を見ることがある。
きっと今回もその類だろう。
その中央に、一人の女性が座っている。
腰まで届く黄金の髪。
宝石のような瞳。
そして絶対的な自信に満ちた笑み。
「妾は美の女神アフロディーテじゃ」
「……はい。夢にしては設定が壮大ね」
「もっと驚かんか」
「夢だから別に」
「妾は女神じゃぞ?」
「疲れてると変な夢を見るって本当なんだ」
「人の話を聞け」
アフロディーテが額を押さえた。
「おぬしに頼みがある」
「はいはい、夢の中の女神様のお願いね」
「夢ではないのじゃが……」
「寝不足なので判断力が死んでるんです」
「都合よく流すな」
「明日にしてください」
「女神を宅配便みたいに言うな」
アフロディーテが咳払いする。
「妾の世界へ来てほしいのじゃ」
「異世界転移系の夢?」
「違う」
「出張カット?」
「それも違う」
「美容相談?」
「それじゃ!」
「じゃあ予約サイトから――」
「知らぬ」
「知らないの!?」
「妾は女神じゃ」
「まぁ、女神が予約サイトなんか知らないか……」
◇ ◇ ◇
神殿の空気が少しだけ真面目になる。
アフロディーテは先ほどまでの勢いを少し収め、静かに語り始めた。
「おぬしに見せた方が早いかもしれぬな」
女神が指を鳴らす。
すると神殿の空中に淡い光が広がり、一枚の巨大な鏡のような映像が浮かび上がった。
「これは……」
鏡子が目を細める。
映し出されたのは広大な草原だった。
青い空の下、石造りの街が点在し、遠くには雪を頂く山脈が連なっている。
だが、人々の姿を見た鏡子は思わず顔をしかめた。
「えっ」
男たちは無造作に伸びた髭を風になびかせ、髪も肩や背中まで好き放題に伸びている。
女たちも長い髪を一本に束ねているだけで、手入れの形跡がほとんどない。
市場を歩く人々も、祭りの広場に集まる人々も同じだった。
「本当に誰も整えてない……」
「じゃろう」
映像は次々と切り替わる。
森の集落。
湖畔の町。
王都らしき大都市。
どこへ行っても状況は変わらない。
「妾の世界は魔法もあるし、種族も多い。獣人もおれば、長命種もおる。景色は美しく、花も宝石も溢れておる」
アフロディーテの声が少し寂しげになる。
「じゃが誰も、その美しさを自分自身へ向けようとせぬのじゃ」
映像の中では、夕日に染まる白い城壁都市が輝いていた。
色鮮やかな花畑が風に揺れ、湖面には星空が映る。
確かに世界そのものは息を呑むほど美しい。
だからこそ、人々の無頓着さが余計に目立った。
「そんなにひどいの?」
「ひどい」
「男は髭を伸ばし放題」
「うわ」
「女は髪を結ぶだけ」
「うわ」
「眉を整える文化もない」
「終わってるわね」
「じゃろう!?」
アフロディーテが身を乗り出す。
「妾は美の女神なのに誰も美しくなろうとせぬ!」
「夢の中とはいえ気の毒」
「じゃろ!?」
「で、私に何とかしろと」
「頼む!」
即土下座だった。
「早っ」
「妾の世界を救ってほしいのじゃ!」
「どうせ夢だし……話くらいなら聞くけど」
「本当か!?」
「声でかい」
「やったのじゃ!」
その瞬間。
足元に巨大な魔法陣が現れた。
「え?」
鏡子は眉をひそめる。
白い大理石の床いっぱいに複雑な紋様が広がり、幾重もの円と文字列が眩く輝き始める。
「ちょっと待って。夢にしては演出が本格的すぎない?」
低い振動音が神殿全体に響いた。
ブゥゥゥン――と耳の奥を震わせるような音が鳴り、魔法陣から溢れた光が柱や天井を白金色に染め上げる。
「契約成立じゃ!」
「何の!?」
光はさらに強くなった。
思わず目を細めても焼き付くほど眩しい。
足元から熱とも冷たさともつかない不思議な感覚が這い上がり、身体がふわりと浮き上がる。
「転移準備完了!」
「転移って何!?」
髪が見えない風に煽られた。
服の裾がばたつき、空気そのものが渦を巻く。
胸が締め付けられるような圧迫感と、エレベーターが急降下した時のような浮遊感が同時に襲ってくる。
「では行くぞ!」
「待っ――」
キィィィン、と甲高い音が頭蓋の内側で弾けた。
次の瞬間、魔法陣から放たれた光の奔流が鏡子を飲み込む。
視界が真っ白に塗り潰され、上下左右の感覚が消えた。
身体が引き裂かれるような加速感。
胃が持ち上がり、呼吸すらできない。
「説明ぃぃぃぃっ!!」
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