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第2話「耳を切るなよ?」

異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~

作者:阿波根サキ

 森の中を風が吹き抜ける。

 木々の上を、一人のエルフが駆けていた。


 レイン・シルヴァリオ。

 森でも屈指の腕を持つエルフの弓士である。

 

 彼の視線の先には巨大な魔物――フォレストボアがいた。

 若いエルフたちだけでは手に負えない獲物だ。

「左へ回れ!」

 レインの指示で包囲網が完成する。


 逃げ場はない。


 レインは太い枝の上で弓を構えた。

 呼吸を整える。

 狙いを定める。

(取った)

 そう確信した瞬間だった。


 風が吹いた。

 長い前髪が流れ、視界を横切る。

「あ」

 一瞬だけ視界が塞がれた。

 ほんの一瞬。

 だが、その一瞬で十分だった。

 放たれた矢は魔物の角を掠めるだけで外れる。

 フォレストボアは咆哮を上げ、姿を消した。

 「くそっ……!」

 レインは舌打ちした。

 珍しい失敗だった。

 普段なら外さない距離。

 普段なら外さない状況。

 

 静寂が訪れる。

「……逃げられた」


 レインは思わず拳を握り締めた。


 放たれた矢は、狙いからわずかに逸れただけ。

 ほんの指一本分。


 それでも狩人にとって、その僅かな狂いは致命的だった。

 若いエルフたちは悔しそうに肩を落とした。


「あと少しだったのに……」

「仕方ないですよ……」


 責める者はいない。

 だが、その言葉がかえって胸に刺さる。


 だがレイン自身は分かっていた。

(違う)

(あと少しじゃない)

(俺が外したんだ)


 普段なら決して外さない距離。

 決して外さない一射。原因は分かっている。

 風に流れた前髪。狙いを乱した髪。

 たったそれだけだった。

 

 レインは腰まで伸びた金髪を見下ろす。

 結局その日は獲物を逃したまま森を後にした。


◇ ◇ ◇


 エルフの里へ戻る道中。

 レインは何度も前髪をかき上げる。

 だが歩けばまた落ちる。

 走れば揺れる。

 弓を構えれば目に入る。

 (……邪魔だな)

 そう思った。

 思ったが、すぐに首を振る。

 エルフの髪は誇りだ。

 長く、美しくあること。

 それは森の民として生きる証。

 幼い頃、父は言った。


「髪は森から授かった命だ。決して粗末にするな」


 母は毎朝、丁寧に髪を梳いてくれた。

 成人の日には長い髪を結い上げ、一人前の証として祝福を受けた。

 だから切るという発想など、一度も抱いたことがない。


 (だが……)

 それでも。


 再び昼間の失敗が脳裏をよぎる。

 外れた矢。逃げた魔物。

 

「邪魔だ……」

 思わず本音が漏れた。


 その時だった。


「そういえば聞きましたか?」

 エルフの一人が言う。

「最近、人間の街に変な店ができたそうですよ」

「変な店?」

「髪を切る店らしいです」


 さらに話は続く。

「騎士団長が行ったとか」

「結婚したとか」

「山賊が英雄みたいになったとか」


 怪しい。

 怪しすぎる。


 レインは少しだけ興味を持った。

 だが、エルフで髪を短くする者などほとんどいない。

(閉店間際なら誰にも見られないか……)


 それが数日後の決断につながる。

 そしてその時のレインはまだ知らなかった。

 自分のこの決断がエルフ達の価値観を根底から覆してしまうことになるなど。


◇ ◇ ◇


 夕暮れ。

 ハサミ理容室の赤青白のサインポールが静かに回っていた。

 亮一は店内の掃除を終え、そろそろ閉店の準備を始めていた。

「今日はこんなもんか」

 ほうきを片付けようとした時だった。

 ガラス戸の向こうに人影が見えた。

 長い金髪。尖った耳。細身の体。

 エルフだった。

 だが、入ってこない。

 店の前を行ったり来たりしている。

 近付いては離れ、

 近付いては離れ、

 また離れる。


「なんだあれ」

 亮一は思わず呟いた。


 完全に不審者だった。

 エルフの青年はガラス越しに店内を覗く。

 鏡を見る。ハサミを見る。理容椅子を見る。

 そして逃げるように離れる。

 また戻る。

 また離れる。


「入るのか入らないのかどっちなんだよ」

 亮一は苦笑した。


 一方その頃。

 レインは必死だった。

(本当に髪を切るのか?)

(いや、しかし先日の失敗は……)

 昼間の出来事が頭をよぎる。


 魔物へ放った矢。

 風で流れた前髪。

 視界を塞がれた一瞬。

 外れた矢。逃げた獲物。仲間達の視線。


 分かっている。原因は髪のせいだ。

 だが。

 エルフにとって髪は誇りだ。

 長く美しい髪は森の民の象徴。

 それを切るなど考えたこともない。

(だが……)

 レインは店内を見る。

 昨日から森中で噂になっていた。


『騎士団長を別人に変えた店』

『顔を変える異邦の職人』

『耳を切られるかもしれない店』


 最後の噂だけは誰が流したのか分からない。

(耳は切られない……よな?)

 レインは自分の耳を押さえた。

 長い。エルフの誇りだ。失うわけにはいかない。

 しかし。

 矢を外す方がもっと嫌だった。

 レインは深く息を吸う。

 覚悟を決める。

 ガラス戸に手をかけた。

 カラン。

 鈴が鳴る。


 亮一が顔を上げた。

「おう」

 レインは思わず言った。

「……耳を切るなよ?」

 亮一は数秒沈黙した。

 そして真顔で答えた。

「切るわけないだろ」


 こうして。

 後にエルフの里の流行を変えることになる一人の客が、ハサミ理容室へ足を踏み入れた。


◇ ◇ ◇


 理容椅子に座るレイン。

 長い金髪が背中まで伸びている。


 亮一は髪を見て思った。

(スポ刈りなら三分で終わるな)

 もちろん口には出さない。


 だが頭の中には浮かぶ。


 スポ刈り。

 理容師にとって万能の解決策。


 だが目の前の客はエルフだ。

 絶対嫌がる。

 それでも一応聞いてみる。


 亮一は雑誌を開き、スポーツ刈りの写真を見せた。

「こういうのもあるぞ」

 レインは写真を見る。


 数秒沈黙。


 そして首を横に振った。

「新人訓練兵のようではないか」

 即答だった。


「だよな」


 亮一も納得する。

 エルフにスポ刈りは早すぎた。

「じゃあ別のにするか」


 亮一はページをめくる。

 短すぎず。長すぎず。狩人に向く髪型。

 視界を確保できる髪型。

 そしてエルフの美しい顔立ちも活かせる髪型。


 亮一が指差した。

「これなんかどうだ?」

 亮一が雑誌を指差す。

「前髪は目に掛からない長さ。耳は少し出す。後ろも軽くする」

 レインは首を傾げた。

「何故そんな髪型なんだ?」

「弓を引くなら視界は命だろ?」

 亮一は笑う。

「前髪が落ちなきゃ狙いはぶれない。」

「耳を出せば風の音も拾いやすい。」

「後ろを軽くすれば森を走っても疲れにくい。」

「格好いいだけじゃなく、ちゃんと理由がある髪型ってことだ。」

 レインは写真を見つめ、小さく頷いた。


「……気に入った。」

「よし」

 亮一はクロスを掛けた。


◇ ◇ ◇


「耳を切るなよ?」

 レインがまたいう。

 亮一は思わず吹き出しそうになる。


「切らねぇよ」

「本当だろうな?」

「今まで何万人切ったと思ってるんだ」


 レインは半信半疑だった。


 レインの長い金髪に、亮一はゆっくりとコームを通した。

 絹糸のようになめらかな髪が、さらりと音を立てて流れる。


「綺麗な髪だな」


 思わず本音が漏れる。


「森では皆、このくらい伸ばす」

「手入れも大変だろ」

「毎朝一時間は梳いている」

「……それはすごいな」


 亮一は笑いながらハサミを構えた。


 シャリッ。


 最初の一束が静かに落ちる。

 レインの肩がぴくりと震えた。

 何十年も伸ばしてきた髪。


 床へ落ちる金色の束を見つめ、胸の奥が少しだけ締め付けられる。

 だが、不思議だった。

 失ったはずなのに、心は軽くなっていく。

 亮一のハサミは迷わない。

 長さを整え、毛量を減らし、毛流れを見極めながら少しずつ形を作っていく。

 耳の周りを丁寧にすく。

 前髪を一ミリずつ調整する。

 左右を鏡越しに見比べ、わずかな違和感も見逃さない。


 レインはその仕事ぶりを鏡越しに見つめていた。


(ただ切っているわけじゃない……)

(一本一本に意味があるのか。)


 やがて首筋を撫でる風が心地よく感じられた。

 重かった髪が消え、体まで軽くなったような気がした。


 ハサミが進むたびに重みが消えていく。

 亮一は黙々と切る。

 耳周りを整える。前髪を短くする。横髪の膨らみを削る。後髪を整える。


 長い髪が次々と床へ落ちていく。

 レインは鏡越しにそれを見つめていた。

 (こんなに切るのか……)

 少し不安になる。だが不思議と嫌ではなかった。

 むしろ気持ちいい。

 重荷を下ろしているような感覚だった。


◇ ◇ ◇


 シャンプーになる。

 椅子が倒れる。

 レインは一瞬身構えた。


「力抜け」

 亮一が言う。


 頭に温かい湯が流れる。

 指が頭皮を揉む。

 レインの目が少しずつ閉じていく。


 気持ちいい。


 想像以上だった。

 森の泉で髪を洗うことはある。

 だが幼少期以外で誰かに洗われた経験はない。


 指先が頭皮をほぐすたびに疲れが抜けていく。


 「……これは」

 「寝てもいいぞ」

 「寝ていない」


 言いながら半分寝ていた。


◇


 亮一は鏡の中のレインを見つめ、小さく頷いた。

「あと少し。」

 手のひらに少量のヘアバームを取る。

 両手でよく伸ばし、髪全体へなじませていく。


「髪を切るだけじゃ終わりじゃない。」

「毛流れを整えてやると、まとまりが全然違う。」


 指先で前髪を軽く分ける。

 耳周りを整え、後ろへ自然な流れを作る。

 最後に全体のバランスを確認し、軽く頷いた。


「よし。これで完成だ。」

 クロスを外し、鏡を正面へ向けた。

 レインはゆっくりと顔を上げる。


 そこに映っていたのは、見慣れた自分ではなかった。


 額が見えるだけで表情は凛々しく変わる。

 耳元はすっきりと整い、知的で精悍な印象になっていた。

 視界は驚くほど広い。


 レインは前髪を手で払おうとして、思わず動きを止める。

 もう、払う髪がない。

 首を左右へ振る。

 髪は揺れるだけで目に掛からない。

 鏡へもう一歩近付く。

 横顔を見る。後ろ姿を見る。耳に触れる。


 切られていないことを確認すると、小さく安堵の息を漏らした。


 その様子を見て、亮一は苦笑する。

「だから言ったろ。耳は切らないって。」

 レインは照れくさそうに笑った。


「……疑って悪かった。」


 鏡の中の自分へ、もう一度目を向ける。

 自然と口元が緩んだ。

「……これなら申し分ない。」


◇


 翌日。

レインは森へ向かった。獲物は、昨日逃したフォレストボア。

 同じ場所。同じ距離。同じ風。

 だが違う。


 髪が邪魔をしない。

 視界が広い。

 耳もよく聞こえる。

 弦にも絡まない。

 レインは静かに弓を構える。

 風が吹く。

 だが前髪は揺れるだけで、視界を遮らない。


(見える。)

 獲物の動き。風向き。木々の隙間。

 すべてが鮮明だった。

 弦を引く指に迷いはない。


「今度は外さない。」

 矢は一直線に飛び、フォレストボアの急所を正確に射抜いた。

 巨体がゆっくりと崩れ落ちる。


 レインは静かに息を吐いた。

 (これが、本来の俺だ。)

 口元には、昨日までなかった自信に満ちた笑みが浮かんでいた。


◇


 森へ戻る。

 だが話題は獲物ではなかった。

「レイン、その髪……」

 若いエルフたちがざわつく。

 特に女性たち。


「格好良い……」

「前よりずっと素敵」

「目が綺麗だったんだ」

「笑うと意外と優しい顔なんだね」

「耳も素敵」

「耳は前から同じだろ」


 真顔で返す。

 だが誰も聞いていない。


 若い女エルフたちは大盛り上がりだった。

 一方で年長のエルフたちは顔をしかめる。


「長髪こそエルフの誇り」

「伝統を軽んじておる」

「嘆かわしい」


 だが若者たちは気にしない。

「でも格好良いし」

 その一言で終わった。


◇


 数日後。

 森では妙な噂が広がる。

「騎士団長を結婚させた店」

「狩人の腕を上げる店」

「顔を良くする店」

「人生を変える店」

 話がどんどん盛られる。


 そして。


 次の日の朝

 亮一がシャッターを開ける。

 すると。

 店の前には長蛇の列。全員エルフ。


「レインと同じ髪型にしてくれ!」

「俺も!」

「私も!」

「次は私!」


 亮一は呆然。しばらく黙る。

 そして。

「……あいつ、何やったんだ?」

 こうして異世界バーバーは、エルフの里でブームを迎えるのだった。

カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。

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