第1話 異世界バーバー、本日開店
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
初めての小説執筆です。お手柔らかにお願いします。
朝の商店街は、今日もいつもの匂いに包まれている。
焼きたてのパン。
八百屋の濡れた段ボール。
昨日の雨が少しだけ残るアスファルト。
そして、どこかの家から漂う味噌汁の香り。
鋏 亮一は、その匂いが嫌いではなかった。
東京都内の外れにある、少し寂れた商店街。
その一角に、鋏 亮一の店はあった。
店名は、ハサミ理容室。
古びたガラス戸。
少し色あせた赤青白のサインポール。
四十年近く使われている理容椅子。
壁一面の大きな鏡。
それから、亮一が毎朝欠かさず磨いているハサミ。
住居兼店舗の小さな散髪屋だ。
亮一は白衣の袖を通し、店内を一通り見回した。
亮一は朝が好きだった。
正確に言えば、朝の店が好きだった。
まだ誰も座っていない理容椅子。
きれいに畳まれたタオル。
棚に並んだ整髪料。
曇りひとつない鏡。
ハサミ、櫛、バリカン、カミソリ。
それらが定位置に収まっているのを見ると、少しだけ気分がよくなる。
朝7時50分。
亮一は鏡の前で襟元を整えた。
「よし」
そして店の電気をつける。
シャッターの鍵を外す。
ガラガラガラ――
いつもの朝。
いつもの商店街。
そのはずだった。
だが…
「……は?」
亮一は固まった。
目の前にあったのは、商店街ではなかった。
石畳。
木と石でできた建物。
見たことのない文字の看板。
耳の長い男女。
鱗に覆われた兵士。
荷車を引く巨大な鳥。
そして、こちらを見て固まる住民たち。
しばらく沈黙。
さらに沈黙。
亮一は空を見上げた。
「……まだ寝てるのか俺」
現実逃避だった。
◇ ◇ ◇
数十分後。
状況は何も改善しなかった。
どうやら夢ではない。
ハサミ理容室だけが丸ごと異世界へ来てしまったらしい。
しかも理容室の電気、ガス、水道は問題なく使えるようだ。
しかし亮一にできることは少ない。
「とりあえず掃除するか」
店の前を掃く。
植木に水をやる。
ガラスを拭く。
いつも通りの開店準備。
それしかできなかった。
すると周囲の住民たちがざわつく。
「あの回っている柱は何だ」
「魔導具では?」
「魂を吸う装置かもしれん」
「中にデカい鏡があるぞ」
「見ろ!刃物が並んでる!」
「処刑場では?」
「いや理容室だ」
亮一は住民たちに言った。
(いや、待て)
開店の準備をしながらも、頭の片隅で考える。
(なんで普通に会話ができてるんだ?)
店の外の看板は見たこともない文字だった。
街並みも違う。
建物も違う。
荷車を引いているのは馬ではなく巨大な鳥だ。
どう考えても日本ではない。
いや、地球ですら怪しい。
それなのに。
「理容室とは?」
住民が聞く。
「…知らんのか?」
誰も知らなかった。
理容師という職業が存在しない世界だった。
◇ ◇ ◇
昼前。
人混みが左右に割れた。
大男が現れる。
全身を鋼鉄の鎧で包んだ騎士。
身長は二メートル近い。
肩幅も広い。
周囲の人間が一歩引く。
「騎士団長だ」
「ガレオス様だ」
「調査に来られたぞ」
王国騎士団長。
ガレオス・ヴァルツ。
だが。
(すげぇな……)
亮一は内心で思った。
(顔が毛に負けてる)
伸び放題の髪。
絡まりまくった髭。
正直、山賊の親玉みたいだった。
ガレオスは店内を見回した。
「店主か?」
「そうだけど」
「私は王国騎士団長ガレオス・ヴァルツだ」
「へえ」
亮一は頷く。
なぜか言葉は普通に通じていた。
理由は分からない。
だが助かった。
「この店は何だ?」
「理容室」
「りようしつ?」
「髪切る店」
ガレオスは眉をひそめた。
「髪を切るためだけの店だと?」
「そうだけど」
「……理解できん」
「俺も今の状況が理解できてないからおあいこだな」
ガレオスは少し黙った。
それから鏡を見た。
ハサミを見た。
理容椅子を見た。
「試してみたい」
◇
王国騎士団長ガレオス・ヴァルツ。
身長は二メートル近く。
鍛え抜かれた肉体。
幾多の戦場を生き抜いた歴戦の英雄。
剣の腕は国内最強とも言われている。
だが――。
身だしなみだけは壊滅的だった。
髪は肩近くまで伸び放題。
前髪は目にかかり、時折息を吹きかけてどかしている。
寝癖なのか天然なのか分からない跳ね方をした毛束が四方八方へ向いていた。
髭は顎から首元にかけて無秩序に伸び、ところどころ絡まっている。
髪に朝食のパンくずが付いていたことも一度や二度ではない。
さらにひどいことに。
先日の巡回では髪の中から小鳥の羽が発見された。
本人は心当たりがないと言い張ったが、部下たちは誰も信じなかった。
「団長、その髪で巣でも作られたのですか」
「やめろ」
「先週は枯れ葉が出てきました」
「偶然だ」
「偶然で髪から葉っぱは出てきません」
部下たちは真顔だった。
ガレオスも反論できなかった。
実際、羽は出てきた。
本人も驚いた。
そんな有様でありながら。
髪をかき上げれば整った額が現れ。
髪と髭の間から見える鼻筋は高く。
顔立ちは驚くほど整っていた。
騎士団の女性隊員たちは時々こう囁く。
「あの髪と髭さえ何とかすれば絶対に格好いいのに……」
「もったいないですよね」
「王国最大の未開拓資源です」
誰も本人には言わないが。
その評価は概ね正しかった。
◇ ◇ ◇
ガレオスが理容椅子へ座る。
亮一はガレオスの頭を一周見た。
(スポ刈りが一番似合うな)
そう思った。
亮一は客をスポ刈りするのが好きだ。
足から後頭部にかけて、バリカンとハサミでなめらかなグラデーションを作る作業が特に好きだ。
刈り上げた後に手触りを確認し、形が綺麗に決まる瞬間に職人としての快感を覚える。
スポーツ刈りは、理容師にとって清潔感、実用性、手入れのしやすさ、技術の見せ場を兼ね備えた理想的な髪型である。あくまで亮一にとっては。
「思い切ってスポ刈りにしないか?」
「……すぽ、がり?」
「短くてさっぱりした髪型だ。手入れも楽だし、お前みたいなガタイのいい男なら似合うと思うぞ」
そして足元の棚から一冊のヘアカタログを取り出す。
「団長、ちょっと見てくれ」
「む?」
ガレオスは雑誌を覗き込む。
そこには短髪の男性モデルが載っていた。
横はすっきり。
上は短め。
爽やかな印象のスポーツ刈りだ。
するとガレオスの表情が固まった。
「それは……」
「うん?」
「新人訓練兵のようではないか」
「え?」
「騎士団に入ったばかりの若者が、最初にそういう髪型にするのだ」
ガレオスは真顔だった。
「私は騎士団長だぞ」
「そうだけど」
「部下たちの前で新人と同じ頭にするわけにはいかん」
妙なところでこだわりが強い。
亮一は思わず笑った。
「別に誰も新人とは思わねぇよ」
「思う」
「思わないって」
「思う」
なぜかそこだけ断言された。
ガレオスは腕を組み、大真面目な顔で続ける。
「私はこれでも王国騎士団長なのだ」
「知ってる」
「威厳が必要だ」
「うん」
「新人訓練兵に見えるのは困る」
「どんだけ嫌なんだよ」
亮一は吹き出した。
するとガレオスも少しだけ苦笑する。
どうやら本気で嫌らしい。
「分かった分かった」
亮一はハサミを手に取った。
「じゃあスポ刈りはやめだ」
「助かる」
「それに好きな女の前で新人みたいに見られたくないしな」
ガレオスが固まった。
ぴたりと。本当に止まった。
「……」
「……あれ?」
亮一は顔を上げた。
団長の顔が少し赤い。
「図星か?」
「なっ!」
ガレオスは盛大にむせた。
「な、なぜ分かった!?」
「いや、その反応でな」
亮一は苦笑する。
長い間、理容師をやっていると、こういう客は意外と多い。
結婚式前。
見合い前。
同窓会前。
久しぶりの再会前。
男が急に身だしなみを気にする理由は大体決まっている。
「好きな人いるんだろ?」
「……いる」
観念したようにガレオスが答えた。
「へぇ」
「長い付き合いだ」
「ほう」
「ずっと想いを寄せている」
騎士団長の声が少し小さくなる。
戦場では何百人もの兵を率いる男が、恋愛の話になると途端に不器用になるらしい。
「それで?」
「近いうちに想いを伝えようと思っている」
亮一は口元を緩めた。
「プロポーズか」
「……その予定だ」
ガレオスは耳まで赤くなっていた。
その姿は、先ほどまでの威厳ある騎士団長とは別人のようだった。
「なるほどな」
亮一は納得した。
「だから髪を切りたいと言ったわけか」
「部下たちにも散々言われた」
「なんて?」
ガレオスは遠い目をした。
『団長、その髭では山賊です』
『その髪では姫君どころか馬も逃げます』
『せめて顔が見えるようにしてください』
亮一は吹き出した。
「言われ放題じゃねぇか」
「否定できなかった……」
団長は肩を落とした。
亮一は笑いながら立ち上がる。
「分かった」
そして鏡越しにガレオスを見る。
「新人訓練兵みたいな髪にはしない」
「本当か」
「ああ」
ハサミを手に取る。
「その代わり、惚れた女が見直すくらい格好良くしてやる」
ガレオスは目を見開いた。
そして静かに頷く。
「頼む」
◇ ◇ ◇
まず髪に櫛を入れる。
止まった。
もう一回入れる。
止まった。
「うわ」
「どうした」
「いや……」
亮一は苦笑した。
「よくこれで生活できてたな」
ガレオスが少し傷ついた顔をした。
髪を濡らす。
絡まりをほどく。
少しずつ。
丁寧に。
無理に引っ張らず。
ガレオスは不思議そうだった。
痛くない。
なのに絡まりだけ消えていく。
やがてハサミが動く。
チョキ。
チョキ。
チョキ。
長い髪が床へ落ちていく。
外の見物人たちが騒ぐ。
「切ってる!」
「本当に切ってるぞ!」
「耳は無事か!?」
「耳は残ってる!」
心配する方向がおかしい。
亮一は黙々とハサミを動かす。
骨格を見る。
額を見る。
目元を見る。
騎士としての威厳。
近寄りやすさ。
その両方を残す。
そして櫛を入れた瞬間。
ぽとり。
何かが落ちた。
鳥の羽だった。
店内が静まる。
「……鳥飼ってる?」
「飼っていない」
「だよな」
なぜ入っていたのかは誰にも分からなかった。
そしてカミソリ。
しゃり。
しゃり。
しゃり。
不要な髭が消える。
輪郭が現れる。
口元が見える。
顎が見える。
頬が見える。
(やっぱりな)
亮一は確信した。
(コイツ、めちゃくちゃ顔がいい)
続いてシャンプー。
椅子が倒れる。
ガレオスは剣に手を伸ばした。
「落ち着け」
「敵襲かと思った」
「店で敵襲はない」
温かい湯が流れる。
泡立つ。
指が頭皮を揉みほぐす。
優しく。
丁寧に。
ゆっくりと。
ガレオスは目を閉じた。
(なんだこれは……)
気持ちいい。
信じられないほど。
戦場で疲れ切った身体が溶けていく。
眠い。
非常に眠い。
(騎士団長が寝るわけには……)
だが気持ちいい。
寝るわけにはいかない。外では。
「寝てるぞ!」
「騎士団長が!」
「洗脳魔法だ!」
違った。
ただ気持ちいいだけだった。
そして仕上げ。
数回ハサミを入れる。
チョキ。
チョキ。
チョキ。
亮一はガレオスに鏡を向けた。
そこにいたのは別人だった。
伸び放題だった髪は整えられ。
鋭い目元が現れる。
短く整えられた髭。
引き締まった輪郭。
威厳と清潔感。
そして圧倒的な美形。
まるで英雄譚から抜け出したような男だった。
◇ ◇ ◇
ガレオスは言葉を失う。
「……誰だこれは」
「お前だよ」
亮一は笑った。
「素材が良かったからな」
外では歓声が上がる。
「騎士団長だ!」
「若返った!」
「格好いい!」
「顔があったのか!」
最後の一言は失礼だった。
「ふむ……」
ガレオスはしばらく鏡の中の自分を見た後、真面目な顔で尋ねる。
「これは何という髪型なのだ?」
亮一は一瞬考えた。
本当なら名前はいくらでもある。
ショートレイヤーだの、ビジネスショートだの、フェードだの。
だが説明しても伝わらないだろう。
「んー……」
亮一は顎を掻いた。
そして適当に答えた。
「英雄スタイルだな」
「英雄スタイル……」
ガレオスは真面目な顔で頷いた。
「英雄の髪型なのか?」
「まあ、そんな感じだ」
亮一は肩をすくめる。
「強そうに見えるし、清潔感もある」
「ふむ」
「それに顔もちゃんと見える」
ガレオスは鏡を見つめた。
亮一は続ける。
「プロポーズするんだろ?」
「うっ……」
団長の顔が赤くなる。
「だったらなおさらだ」
「そうだろうか」
「大丈夫だって」
亮一は笑った。
「英雄スタイルにしておけば、成功率はかなり上がる」
「本当か!?」
食いつき方がすごかった。
さすがに亮一も苦笑する。
「いや、保証はしないぞ?」
「ど、どれくらい上がるのだ?」
「そうだなぁ……」
亮一は適当に考える。
「前のお前が三割なら七割くらいだ」
「七割!」
ガレオスの目が輝いた。
「そんなに!」
「たぶんな」
「たぶん?」
「たぶんだ」
理容師は恋愛成就までは保証していない。
だがガレオスは完全に信じていた。
「七割……」
団長は何度も頷く。
「七割か……」
まるで戦略会議で勝率を聞かされた将軍のような顔だ。
亮一は吹き出しそうになる。
「安心しろ」
ハサミを構える。
「少なくとも前よりはずっと格好良くなってる。」
「うむ」
「だから胸張って行ってこい」
「うむ!」
ガレオスは力強く頷いた。
そして真面目な顔で言う。
「この英雄スタイルで、私は勝利してみせる」
亮一は思った。
(いや、戦争じゃないんだけどな……)
◇ ◇ ◇
「しかし、不思議な男だな」
「ん?」
「お前は私を見て、騎士団長だと分かった」
「まわりも言ってたし、立派な鎧を着てるしな」
「私が想い人へ求婚しようとしていることも見抜いた」
「まぁ、なんとなくな」
「さらに髪を整えることで人の印象が変わると言う」
ガレオスは鏡越しに亮一を見つめた。
「この国には、そのような職人はいない」
「そうなのか?」
「ああ」
ガレオスは頷く。
「髪は伸びれば適当に切るだけだ」
「へぇ」
「顔立ちや立場に合わせて整える者など聞いたことがない」
亮一は少し驚いた。
理容師が存在しない世界。
だからあれほど鏡やハサミに興味を示していたのか。
「俺のいた国じゃ普通なんだけどな」
「やはりか」
ガレオスは納得したように息を吐いた。
「最初に店を見た時から違和感はあった」
「違和感?」
「赤と青と白の柱」
「ああ、サインポールな」
「意味不明だった」
「だろうな」
「巨大な鏡」
「普通だぞ」
「普通ではない」
即答だった。
亮一は苦笑する。
ガレオスは真面目な顔で続けた。
「そして何より、そのハサミだ」
団長の視線が亮一の手元へ向く。
「見たことがないほど精巧だ」
「そうか?」
「戦場で武器を見る目には自信がある」
ガレオスは断言した。
「そのハサミは職人の誇りだ」
亮一は少し照れ臭くなる。
毎日手入れしている道具を褒められるのは悪い気分ではない。
ガレオスは静かに言った。
「お前はこの国の者ではないな」
「……まあ、そうみたいだな」
「異邦の職人か」
その言葉に、亮一は肩をすくめた。
「たぶんな」
正直、自分でもよく分かっていない。
朝起きたら異世界だったのだ。
「俺も気付いたらここにいたんだ。なぜか。」
ガレオスの目が見開かれる。
「やはり異邦人か」
「異邦人っていうか、迷子?」
亮一がそう言うと、ガレオスは初めて声を上げて笑った。
「ははは! なるほど!」
周囲の見物人もざわつく。
「異邦の職人だったのか」
「だから見たことのない道具を……」
「異邦の技術か」
ガレオスは笑みを収めると、改めて姿勢を正した。
「異邦の職人だからこそ、人を変える技を持っているのだろう」
亮一は思わず笑った。
「大げさだな」
「いや」
「職人よ。先ほど私は、お前にプロポーズの相談をしたな」
「ああ」
「そしてお前は、そのための髪型を『英雄スタイル』と呼んだ」
「まあ、俺の勝手な命名だけどな」
ガレオスは鏡に映る自分を見る。
「英雄スタイル……か」
その顔には自信が宿っていた。
「お前は髪を切っている間、こう言ったな」
ガレオスは亮一の言葉を思い出す。
『戦場で勝てる男なんだろ?』
『だったら告白くらい大丈夫だ』
『この英雄スタイルなら、きっと成功する』
ガレオスは大きく頷いた。
「そうだな」
そして右拳を胸に当てる。
「私はこれまで幾度も戦場に立ってきた」
「魔物の大群とも戦った」
「隣国の将軍とも剣を交えた」
「王国のために命を懸けたこともある」
そこで一度言葉を切る。
「だが――」
真剣な目で亮一を見た。
「これから挑む戦いは、それらすべてより重要だ」
「お、おう」
亮一は少し圧倒される。
「私は今、お前に人生で最も重要な戦いを手助けしてもらった」
ガレオスは深く頭を下げた。
「感謝する、異邦の職人」
周囲がどよめく。
「気にすんな」
「そうだ。名を聞いていなかった」
「鋏 亮一」
ガレオスは何度か発音を試した。
「は、さぁ…み、りょう……いち……」
難しい顔になる。
「…リョウではどうだ」
「それでいい」
亮一は頷いた。
「もし私が勝利を掴めたなら、その功績の半分はリョウのものだ」
「いや、半分は盛りすぎだろ」
亮一は思わず突っ込んだ。
「リョウ」
ガレオスは真剣な顔で言った。
「必ず良い報告を持ってこよう」
「おう」
そしてガレオスは去っていった。
人生最大の戦い――プロポーズへ。
ガレオスが去っていくのを見送って、しばらくした後...
「あ」
亮一は気付いた。
「しまった……」
散髪
シャンプー
髭剃り
ついでにマッサージ
全部終わった。
だが一つだけ忘れていた。
「料金取るの忘れてた……」
異世界初日の売上。
まさかのゼロだった。
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
王都を赤く染める夕陽の中、ガレオスは王城へ向かっていた。
いつもの鎧姿。
だが、いつもとは違う。
髪は整えられ、髭は短く形作られている。
鎧も磨き上げられていた。
戦場へ向かう時ですら乱れなかった男が、今は緊張で何度も襟元を直している。
「落ち着け……」
自分に言い聞かせる。
「相手は山賊ではない」
数歩歩く。
「オーガでもない」
さらに歩く。
「魔王でもない」
足が止まる。
「……エリシアだ」
ガレオスは頭を抱えた。
その時だった。
『戦場で勝てる男なんだろ?』
異邦の理容師の言葉が脳裏によみがえる。
『だったら告白くらい大丈夫だ』
ガレオスは深く息を吸った。
「そうだ」
拳を握る。
「私は騎士団長だ」
そして城内の中庭へ向かった。
そこには一人の女性がいた。
王宮文官、エリシア。
淡い金髪を肩まで伸ばした、知的で落ち着いた女性だった。
書類を抱えて歩いていた彼女は、近づいてくる人物を見て足を止める。
「ガレオス様?」
首を傾げる。
そして数秒後。
目を丸くした。
「……え?」
ガレオスは内心で少しだけガッツポーズをした。
気付いてもらえた。
少なくとも山賊には見えていない。
「どうしたのですか、その髪」
「切った」
「見れば分かります」
「そうか」
会話が続かない。
いつも通りだった。
ガレオスは剣なら振れる。
部下への指示も出せる。
国王への報告もできる。
だが、エリシア相手だと急に口が動かなくなる。
沈黙が流れる。
エリシアが少し微笑んだ。
「とても似合っていますよ」
その一言で。
王国最強の騎士の心臓が跳ねた。
「そ、そうか」
「はい」
「本当に?」
「本当にです」
ガレオスは危うくその場で勝利宣言しそうになった。
だが、今日はそこがゴールではない。
むしろスタートだ。
『人生で最も重要な戦い』
亮一の店で言った言葉を思い出す。
今がその時だった。
ガレオスは大きく息を吸う。
そして――
膝をついた。
「えっ?」
エリシアが目を見開く。
周囲を歩いていた文官たちも足を止めた。
騎士団長が膝をついたのだ。
ガレオスの顔は真っ赤だった。
魔王軍との戦いより緊張している。
「エリシア」
「は、はい」
「私は……」
言葉が詰まる。
剣なら迷わない。
だが、この一言だけは何年経っても言えなかった。
幼い頃から知っている。
共に育った。
何度も助けられた。
戦場から帰るたび、真っ先に会いたくなった。
だが、それを口にする勇気だけがなかった。
ガレオスは拳を握る。
そして覚悟を決めた。
「私はお前を愛している」
エリシアの瞳が揺れる。
「ずっと前からだ」
「……」
「不器用な男だという自覚はある」
「はい」
「否定してくれ」
「事実ですので」
ガレオスは少しだけへこんだ。
だがエリシアは笑っていた。
優しく。
嬉しそうに。
だからガレオスは続ける。
「それでも」
「うむ」
「いや、うむではないな」
緊張で言葉がおかしくなる。
エリシアが吹き出した。
ガレオスも苦笑する。
そして改めて言った。
「エリシア」
「はい」
「私と結婚してくれ」
静寂。
数秒。
いや、ガレオスには数時間にも感じられた。
やがてエリシアは目を伏せる。
そしてゆっくりと微笑んだ。
「……ようやく言ってくれましたね」
「え?」
「十年待ちました」
「じゅ、十年?」
「もっと早く言ってくださると思っていました」
ガレオスは固まった。
エリシアはくすりと笑う。
「返事をしても?」
「あ、ああ」
騎士団長が今にも倒れそうな顔で頷く。
エリシアは優しく手を差し伸べた。
「喜んで」
その瞬間。
ガレオスの脳内で勝利のラッパが鳴り響いた。
魔王討伐より嬉しい。
王国防衛戦より嬉しい。
人生最高の勝利だった。
エリシアは立ち上がるガレオスを見ながら言う。
「でも、本当に格好良くなりましたね」
「そ、そうか?」
「はい」
そして少しだけ照れながら続けた。
「最初、一瞬誰だか分かりませんでした」
ガレオスは胸を張った。
異邦の理容師が作り上げた髪型。
その名も――
「英雄スタイルだからな」
「……何ですか、それ」
「私もよく分かっていない」
その日。
王都では後にこう噂されることになる。
騎士団長の恋を成就させた、不思議な散髪屋が現れた、と。
そして、この時の亮一はまだ知らない。
この日以降、王国中で『英雄スタイル』という髪型が流行することになるなど、想像もしていなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝
店の前には大行列ができていた。
「騎士団長の恋を叶えた店!」
「髪を切ると結婚できる!」
「運命を変える職人!」
「縁結びの刃物師!」
話が盛られている。
かなり盛られている。
亮一はため息をついた。
白衣を羽織る。
看板を出す。
異世界バーバー、本日開店。
こうして、異世界バーバー《ハサミ理容室》の物語は始まった。
カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。




