第25話 理容師と羊たちの沈黙④
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
順番を待つ岩毛羊たちを見渡した亮一は、ふと顔を上げた。
東の空から昇った太陽は、いつの間にか山の稜線を越え、街道へ柔らかな光を落としている。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
「……マズいな」
「どうしたの?」
隣で毛刈りを続けていた鏡子が顔を上げる。
「気温が上がってきた」
亮一は街道の先へ視線を向けた。
そこには、まだ数え切れないほどの岩毛羊が並んでいる。
数百頭。
目の前の羊たちは落ち着いている。
だが、それはレインたちが奏で続ける音楽があってこそだ。
日が高くなれば、気温はさらに上がる。
長く伸びた羊毛をまとった身体は、それだけで大きな負担になる。
暑さと疲労が重なれば、羊たちの警戒心が再び強くなる可能性がある。
そして――。
音楽が止まれば、その平穏も崩れる。
「……まだ、こんなにいるんだ」
鏡子も残された群れを見渡し、表情を引き締めた。
「このまま続けても、間に合わないかもしれないな」
亮一が呟く。
技術の問題ではない。目の前にいる羊たちを一頭ずつ丁寧に仕上げることなら、二人にとって難しいことではない。
だが――時間が足りない。
その現実が、二人の前に立ちはだかっていた。
◇ ◇ ◇
そして、限界が近づいていたのは二人だけではなかった。
少し離れた場所では、レインが横笛を吹き続けている。
澄んだ音色は変わらない。だが、その呼吸には明らかな疲労が滲んでいた。
長時間吹き続けた唇には赤みが浮かび、息を吸うたびに肩がわずかに上下している。
村人たちも同じだった。
竪琴を抱える腕が重くなり、笛を吹く者の頬も疲労で強張っている。
それでも誰も演奏を止めない。
目の前の岩毛羊たちが、音楽によってようやく穏やかになっているからだ。
レインは一瞬だけ、横目で羊たちを見る。
何頭もの羊が安心したように伏せている。
(まだ……止められない)
レインは息を整え、再び横笛へ意識を集中させる。
旋律が途切れることはなかった。
その様子を見ていたガレオスが、残った羊の数と、毛刈りを続ける亮一と鏡子を交互に見る。
そして――。
大きく息を吸い、よく通る声を張り上げた。
「このままでは時間が足りん! 皆、作業を分担して効率を上げるぞ!」
街道に、騎士であるガレオスの凛とした声が響き渡った。
演奏していた者たちも、周囲にいた村人たちも、一斉に顔を上げる。
「村の男たちはガンツと共に、羊の誘導と順番の整理を頼む! 女たちは鏡子殿の指示で、刈る前の毛をほぐしてくれ! 子供たちは刈り取った羊毛を一箇所に集めるんだ!」
的確な指示だった。
村人たちの間へ一瞬の緊張が走る。だが、誰一人として躊躇う者はいなかった。
最初に動いたのはガンツだった。
「なるほど、そいつが一番早いな! お前ら、聞いた通りだ! 羊をこっちへ回せ!」
「お、おう!」
「暴れそうな奴は無理に押さえつけるな! 優しく支えてやれ!」
ガンツたちは羊の進行方向を整え、毛刈りを待つ羊を一頭ずつ作業場所へ誘導していく。
ガレオスもその中へ加わった。
「大丈夫だ。怖くない」
暴れそうになった羊の身体へそっと手を添える。
「すぐ終わる。力を抜け」
その落ち着いた声に、羊も次第に身体の力を抜いていく。
言われるがまま、おそるおそる羊の背に触れた村人の一人が、ふと息を呑んだ。
「……こいつら、震えてやがる」
その声に、隣の男も羊の身体へ手を当てる。
「本当だ。こんな重い毛を引きずって、ずっと怯えてたのか……」
昨日まで、彼らにとって岩毛羊は生活を脅かす『恐ろしい魔物』だった。
だが今、掌から伝わってくるのは、ひ弱で怯えきったただの生き物の体温だ。
「……おい、早く次を回してやろうぜ!」
「ああ!」
村人たちの目の色が変わった。
退治する対象から、助ける対象へ。
一方、街道脇では別の作業が始まっていた。
「子供たちは、落ちた羊毛を集めて!」
「はい!」
「こっちへ運んでくれ!」
子供たちが小さな腕いっぱいに羊毛を抱え、街道脇へ運んでいく。
最初は恐る恐るだったが、作業を繰り返すうちに次第に笑顔が戻っていった。
そして、鏡子は村の女性たちを集めていた。
「刈る前に、ここをお願いします」
鏡子が一頭の羊の毛を指差す。
「まずブラシで土や草を落として、絡まっているところをほぐしてください」
「こうですか?」
「そうそう。毛の流れに沿って、優しく」
女性たちが見よう見まねで羊毛を整えていく。
「そこまでできたら、こちらへ回してください。刈る時間をかなり短くできます」
「分かりました!」
それぞれが自分の役割を理解し始める。
羊を誘導する者。
毛をほぐす者。
毛を刈る者。
刈り取った羊毛を運ぶ者。
そして、羊たちを落ち着かせるために演奏を続ける者。
いつの間にか、街道全体が一つの巨大な作業場へと変わっていた。
亮一はその光景を見渡す。
「……これならいける」
鏡子も笑みを浮かべる。
「うん」
亮一がハサミを握り直した。
「俺たちが刈る」
「任せて!」
ガンツが振り返る。
「次を回してくれ!」
ガレオスが声を張る。
「了解!」村人たちの声が重なる。
そして――。
毛刈りの速度が、一気に上がった。
◇ ◇ ◇
** シャキッ。**
** シャキッ。**
亮一のハサミが羊毛を切り進める。
長く伸びた毛の流れを見極め、必要な部分だけを素早く切り離す。
毛の密度が高い部分へ来ると、すぐにハサミを収めた。
代わりに星銀製の手動バリカンを握る。
** ジャキジャキジャキジャキッ!!**
鋭い刃音が街道へ響き渡る。
厚く重なった羊毛が、一気に刈り取られていく。
「次!」ガンツが羊を送る。
「こっちだ!」
亮一は一瞬だけ羊の毛を見た。
「こいつはハサミだ」
迷いなく刃を入れる。
次の羊ではバリカン。その次では再びハサミ。
毛質も、毛の流れも、身体の大きさも違う。それぞれに合わせて、最適な道具を選ぶ。
その判断に、一切の迷いはなかった。
一方、鏡子も負けてはいない。
「ここはバリカンで」
** ガチャ、ガチャ、ガチャ――。**
「こっちはハサミね」
** シャッ。**
長さを整え、毛流れを整え、必要な場所だけを残す。
小柄な羊や子羊の身体に合わせ、細かな部分まで丁寧に仕上げていく。
羊の身体を一目見ただけで、どこから刈り、どこを残し、どの道具を使うべきかを判断している。
「はい、次の子どうぞ!」
「おう!」
村人が次の羊を連れてくる。
その横ではガンツが声を張り上げていた。
「次だ次!」
「大丈夫だ。すぐ終わる」
ガレオスも羊の身体を支える。
村人たちは刈り取られた羊毛を運び、子供たちはそれを追いかけるように拾い集める。
「こっち、まだ残ってるよ!」
「分かった!」
「次の羊、来ます!」
「お願いします!」
街道のあちこちから声が飛び交う。
汗が流れる。息が切れる。腕が重くなる。
それでも――誰も止まらない。
レインは横笛を吹きながら、その光景を見つめる。
(いつの間にか……)
最初は、ただ羊を落ち着かせるための演奏だった。
だが今は違う。街道にいる全員が、一つの目的に向かって動いている。
(この街道そのものが……一つの大きな隊になっている)
レインはわずかに笑った。
そして、もう一度息を吸う。
旋律が、さらに力強くなる。
◇ ◇ ◇
残りの羊が、少しずつ減っていく。
だが、レインたち音楽隊の疲労も限界へ近づいていた。
村人たちの演奏も、明らかに最初より弱くなっている。
それでも――あと少し。
レインは前を向いた。
視界の先で、亮一が羊毛を刈っている。鏡子も、止まることなくハサミを動かしている。
ガンツが羊を送り、ガレオスが支える。村人たちが羊毛を運ぶ。
誰もが汗だくになりながら、それでも笑っていた。
(あと少し……!)
レインは最後の力を振り絞った。
横笛の音色が街道いっぱいに響き渡る。
村人たちも、それに応えるように楽器を奏でる。
柔らかな旋律。力強い旋律。いくつもの音色が重なり合う。
その音楽に背中を押されるように、毛刈りの速度もさらに上がっていく。
街道全体が、一つの生き物のように動いていた。
そして――。
「残り一頭!」
ガンツの声が響いた。
◇ ◇ ◇
太陽は、完全に山の上へ昇っていた。
朝の光が街道を照らす。
最後に残ったのは、一際大きな岩毛羊だった。
亮一が、その前へ歩み寄る。羊は逃げなかった。
長く伸びた毛の隙間から、黒曜石のような瞳が亮一を見つめている。
「……最後だな」
亮一が静かに声を掛ける。
羊は、「メェ」と小さく鳴いた。
「もう少しだけ付き合ってくれ」
亮一は星銀製のバリカンを握る。
そして――。
** ジャキジャキジャキジャキッ!!**
最後の毛が、次々と地面へ落ちていく。
長く重かった羊毛が取り払われ、純白の身体が朝日にさらされる。
最後の一束が落ちた。
バリカンの音が止まる。
亮一は仕上がりを確認する。問題ない。
ゆっくりとバリカンを下ろした。
「……よし」
街道に静寂が戻る。
亮一は最後の岩毛羊を見つめ、
「終わりだ」
そう呟いた。
次の瞬間――。
「メェェェェーーーッ!!」
一頭の岩毛羊が、嬉しそうに鳴いた。
それを合図にするように、別の羊が鳴く。
また一頭。さらに一頭。
「メェェェェーーーッ!!」
数百頭の岩毛羊たちが、一斉に鳴き声を上げた。
そして――一頭が走り出した。
軽くなった身体で、跳ねるように草原へ駆けていく。
続いて二頭。三頭。
やがて群れ全体が動き始めた。
重い羊毛をまとい、苦しそうに頭を垂れていた昨日の姿はもうない。
岩毛羊たちは、まるで生まれ変わったように軽やかだった。
朝日に照らされた純白の群れが、草原を駆ける。跳ねる。走る。
仲間同士で身体を寄せ合い、嬉しそうに鳴きながら山へ向かっていく。
その姿を、誰もが言葉を失って見つめていた。
やがて最後の一頭が草原の向こうへ消える。
街道に、静けさが戻った。
◇ ◇ ◇
「…………」
誰も動かなかった。
亮一がゆっくりと腰を下ろす。
「……疲れた」
鏡子もその場に座り込んだ。
「私も……もう動けない」
ガンツは大の字になって倒れ込む。
「俺ぁ……しばらく羊なんぞ見たくねぇ……」
その言葉に、近くにいた村人が吹き出した。
鏡子も笑う。亮一も肩を揺らした。
やがて、村人たちの間にも笑い声が広がっていく。
誰もが汗だくで、泥だらけだった。
それでも――誰の顔にも、やり切ったという満足感が浮かんでいた。
「……終わったな」とガレオスが呟く。
「ああ」と亮一が答える。
そのときだった。
「……ん?」
ガンツが身体を起こした。
視線の先。街道脇には、刈り取られた羊毛が山のように積み上がっている。
純白の毛が、朝日に照らされて輝いていた。
「こいつぁ……」
ガンツが一束を手に取る。
指先で毛を揉み、じっくりと確かめる。その表情が、少しずつ変わっていった。
「……すげぇな」
ガンツはもう一度、羊毛を握る。
軽い。柔らかい。それでいて、しっかりとした弾力がある。
元が硬い岩毛羊の毛なだけあって、魔法の防護効果も宿っているのだろう。
「こいつは間違いなく高級品だぞ」
ガンツの声に、村長が振り返る。
「高級品……?」
「ああ。ただの羊毛じゃねえ。こいつは王都の貴族どもが、金貨を積んででも欲しがる最高級の魔法ウールだぞ!」
「き、金貨……!?」
村長は目を剥き、腰を抜かしかけた。
ガンツは羊毛の山を見渡す。
「これだけの量があるんだ。ちゃんと加工して王都へ売れば、村にとってとんでもねぇ収入になる」
村長は言葉を失った。
目の前にあるのは、ただ刈り取った毛ではない。この村の新しい産業になるかもしれない。
昨日まで、村人たちは岩毛羊を恐れていた。
どうすれば追い払えるのか。どうすれば被害を防げるのか。そればかりを考えていた。
だが――。
今、その羊たちが残したものが、村の未来を支えるかもしれない。
「これで……」
村長の声が震えた。
「これで……村が豊かになる……」
目に涙が浮かぶ。
村長は亮一と鏡子の前へ歩み寄り、深々と頭を下げた。
「理容師様……美容師様……なんとお礼を言えばよいのか……」
「そんな、頭を上げてください」
鏡子が慌てて手を振ったが、村長は頭を上げなかった。
その横で、ガレオスが静かに口を開く。
「村長」
「はい……」
「この件は、俺から王へ報告する」
村長が顔を上げる。
「岩毛羊を、単なる魔物として扱うのではなく――」
ガレオスは、遠くの草原へ目を向けた。
「この村の産業を支える存在として、保護するよう進言する」
「……!」
「定期的に毛を刈れば、羊たちも苦しまずに済む。村にとっても利益になる。ならば、共に生きる道を選ぶべきだ」
村長の目から、涙がこぼれた。
「ありがとうございます……。本当に……ありがとうございます……!」
村長は再び深く頭を下げる。
「あなた方は……羊だけではなく、この村の者たちまで救ってくださった」
その言葉に、村人たちも深く頷いた。
亮一は少し離れた場所で、黙って道具を手入れしていた。
ハサミについた毛を丁寧に払い、刃の状態を確かめる。
星銀製のバリカンも、刃に絡んだ羊毛を取り除きながら、一つ一つ状態を確認していく。
鏡子が隣から亮一を見る。
「亮一」
「ん?」
「何か言わないの? 村長さん、あんなに感謝してくれてるのに」
亮一は少しだけ考えた。
そして、手元のハサミを見ながら答える。
「俺たちは、ただ毛を切っただけだ」
「ふふっ」
鏡子はそう言って笑うと、自分の首にかけていた手ぬぐいを外し、亮一の顔へぐいっと手を伸ばした。
「おい、なんだよ」
「動かないの。……顔、泥と羊の毛でドロドロよ」
ごしごしと少し乱暴に、けれどどこか愛おしむように亮一の頬や額を拭っていく。
亮一は文句を言いながらも、されるがままに目を細めていた。
「はい、これでいつもの男前が戻ったわね」
「……茶化すな。そっちも、泥だらけだぞ。お疲れさん」
亮一は照れ隠しのように顔を背けながら、手入れを終えたハサミをシザーケースへ収めた。
共に戦い抜いた相棒からの労いに、その顔には自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
一行は魔導馬車へ乗り込んだ。
街道には、村人たちがずらりと並んでいる。
子供たちは手を振り、女性たちは笑顔で見送る。男たちは大きな声で感謝を叫んだ。
盛大な拍手と歓声が、街道いっぱいに響き渡る。
亮一が馬車へ乗り込む前に、ふと草原へ目を向けた。
遠くでは、岩毛羊たちが元気に草を食んでいる。
一頭が顔を上げた。そして、こちらを見る。
「メェ」
鏡子が笑顔で手を振る。
「元気でねー!」
岩毛羊は、もう一度、「メェ」と鳴いた。
亮一も小さく手を上げる。
「……元気でな」
馬車へ乗り込む。
御者席では、ガレオスが手綱を握っていた。
「さて……寄り道は終わりだな」
魔導馬車が、ゆっくりと動き始める。
亮一が座席へ身体を預ける。
「長ぇ寄り道だったな」
「でも、楽しかったじゃない」
鏡子が笑う。すると、向かいに座っていたガンツが、自分の太い腕を揉みながら大きく息を吐いた。
「俺ぁ、大斧を振り回すより、羊を優しく抱え込む方がよっぽど疲れるって分かったぜ……」
「ふふっ」
鏡子が笑い、亮一も苦笑する。
レインも横笛を膝の上へ置き、疲れたように背もたれへ身体を預けた。
「……私も、しばらく演奏は遠慮したい」
「お前が言うと説得力あるな」亮一が笑う。
「誰のせいだと思っている」レインがじろりと睨む。
「俺のせいか?」
「少なくとも、あの羊たちを救うと言い出したのはお前だろう」
「……まあな」
亮一は窓の外へ目を向ける。
遠ざかっていく村。その向こうには、朝日に輝く草原。
そこでは岩毛羊たちが、軽やかに走り回っていた。
レインもその光景へ目を向ける。
疲労は残っている。それでも、その表情には満足そうな笑みが浮かんでいた。
「……不思議なものだな。あんなにも美しい大合奏は、初めてかもしれない」
レインが小さく呟く。
「え?」と鏡子が振り返る。
「いや。何でもない」
レインは再び横笛へ視線を落とした。
魔導馬車は街道を進んでいく。
向かう先は――蚕人族の里。
王都で待つ結婚式のために必要な、天羽絹。
その入手という本来の目的へ向けて、一行の旅は再び動き始める。
◇ ◇ ◇
馬車が遠ざかっていく。
その背後には、朝日に照らされた村。
そして、そのさらに向こうには草原が広がっている。
軽くなった岩毛羊たちが、自由に走り回っていた。
昨日まで、村人たちが恐れていた羊たち。
だが、もう違う。彼らは村を脅かす存在ではない。
村人たちと共に生きる存在。
そして――その羊毛は、村の新たな未来を支えるものとなる。
街道脇に積み上げられた純白の羊毛が、朝日を受けて眩しく輝いていた。
やがて魔導馬車は、遠くの丘の向こうへ消えていく。
こうして、一行は次なる目的地へ向かって進み始めた。
蚕人族の里。
そこで待つ、天羽絹。
そして、その先に待つ王都での結婚式。
旅は、まだ終わらない。
新たな出会いを乗せて――。
魔導馬車は、朝日に輝く街道を進んでいった。
――理容師と羊たちの沈黙・完。
カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。




