第23話 理容師と羊たちの沈黙②
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
街道の先には、見渡す限りの羊の群れが広がっていた。
日光に照らされた白い羊毛が、風を受けてゆるやかに揺れる。
まるで雪原が波打っているかのような、美しい光景だった。
――だが。
その白い群れは街道を完全に埋め尽くし、一頭として道を譲ろうとはしない。
鳴き声はない。
草を食む音さえ聞こえない。
風だけが羊毛を撫で、さらさらと静かな音を立てていた。
その異様な静けさが、一行の肌を粟立たせる。
「なんだ、ただの羊じゃねぇか」
ガンツが大斧を肩に担ぎ直し、豪快に笑った。
危機感など微塵も感じさせず、そのまま群れへ歩き出す。
「待て、ガンツ」
ガレオスが鋭く制した。
しかし、ガンツは肩をすくめるだけだった。
「羊相手に何を警戒するってんだ。」
ガンツは手をひらひらと振る。
「ほらほら、どけどけ! 道を空けろ!」
一歩。
二歩。
三歩。
ガンツと羊たちとの距離が、ゆっくりと縮まっていく。
それでも羊たちは逃げようとしない。
一頭として鳴きもせず、
ただ静かに、その場へ立ち尽くしていた。
その様子を、レインだけが静かに見つめていた。
エルフ特有の鋭敏な感覚が、羊たちを包む魔力の流れを捉える。
空気が重い。
羊たちの周囲だけ、魔力が淀み、渦を巻いていた。
――おかしい。
レインの表情が険しくなる。
「……違う。」
静かに背中の弓へ手を添えた。
「普通の羊じゃない…岩毛羊だ!」
「……は?」
ガンツが振り返った。
その瞬間だった。
一頭の岩毛羊が、前脚で地面を掻く。
乾いた土が跳ね上がる。
鼻息が白く漏れた。
そして――
ドンッ!!
大地を蹴り砕くような轟音。
白い巨体が、矢のような速度で一直線に飛び出した。
「ぬおおっ!?」
避ける間もない。
岩毛羊の頭突きが、ガンツの腹へ突き刺さる。
ドゴォォッ!!
ガンツの巨体が軽々と宙を舞った。
地面を二度、三度と跳ねながら転がり、土煙が勢いよく舞い上がる。
「ガンツさん!」
鏡子の悲鳴が響いた。
土煙の中から、ガンツがゆっくりと立ち上がる。
「この羊っころがぁ!」
怒号と共に大斧を振り上げる。
鍛え上げられた腕の筋肉が大きく隆起し、渾身の一撃を振り下ろした。
その瞬間だった。
ゴゴゴ……。
岩毛羊の毛並みに魔力が走る。
一本一本の羊毛が逆立ち、淡い灰色の光を帯び始めた。
柔らかく揺れていた毛並みは、一瞬にして岩肌のような質感へ変貌する。
ガギィィィン!!
耳をつんざく金属音。
激しい火花が街道へ散った。
しかし、岩毛羊は微動だにしない。
傷一つ付いていなかった。
逆に大斧だけが大きく弾かれ、ガンツの腕を痺れさせる。
「なんだコイツらは……!?」
ガンツが驚愕の声を上げる。
レインが素早く前へ出た。
「ガンツ! 下がるんだ!」
ガンツは舌打ちしながら飛び退く。
レインは羊たちから目を離さないまま、静かに口を開いた。
「岩毛羊は、身の危険を感じると防衛本能で頭突きを放ち、同時に毛を岩のように硬化させる。」
「ガンツが吹き飛ばされたのも、その防衛反応だ。」
ガンツは悔しそうに舌打ちした。
「チッ……羊のくせに、とんでもねぇ危険な奴らだ。」
レインは小さく首を振る。
「本来は非常に温厚な魔獣だ。滅多に人を襲うことはない。」
「……だが、今のこいつらは何らかの原因で、常に強い警戒心を抱いているようだ。」
そう言って、岩のように硬化した羊毛へ視線を向ける。
「その毛には魔力が宿り、高級な衣類や防具の素材として珍重されている。」
少し間を置き、続けた。
「私がエルフの里で読んだ古い文献には、こう記されていた。」
『岩毛羊は、年に一度毛を刈らねばならない。』
「だが、その記録は今ではほとんど忘れ去られている。」
「人々は岩毛羊を『毛が岩のように硬くなる魔獣』と思い込み、毛を刈るという発想そのものを失ってしまった。」
「その結果、羊毛は魔力を吸収し続け、やがて岩のように硬化する。」
「完全に硬化した羊毛は、普通の武器では傷一つ付けられない。」
「だから斧が弾かれたのか……。」
ガンツは痺れる腕をさすりながら、大斧を握り直した。
ガレオスは静かに剣を抜いた。
「警戒は解くな。」
ガンツは斧を構え直す。
レインは弓へ矢をつがえる。
鏡子も息を呑み、一歩後ろへ下がった。
誰もが”敵”を見ていた。
――ただ一人を除いて。
亮一だけは、羊を見ていなかった。
彼が見つめていたのは、
羊毛だった。
何年も刈られていない毛は何重にも絡まり、脚へ食い込んでいる。
腹の下まで垂れ下がった毛は地面を引きずり、歩くたびに土や小石を巻き込んでいた。
長く伸びた毛は目まで覆い隠し、前を見ることさえできない。
重すぎる羊毛を支え切れず、一頭の岩毛羊が小さく身体を震わせる。
立っているだけで精一杯なはずだ。
「……違う。」
亮一が小さく呟いた。
「何が?」
鏡子が尋ねる。
亮一は苦しそうな羊から目を離さない。
「暴れたいんじゃない。」
少しだけ間が空く。
そして静かに言った。
「……助けを求めてるんだ。」
その時だった。
一頭の岩毛羊がゆっくりと顔を上げる。
長く伸びた毛の隙間から、小さな瞳がのぞいた。
そこに宿っていたのは敵意ではない。
苦しみと、怯えだった。
「……メェ。」
か細い鳴き声が、静まり返った街道へ溶けていく。
鏡子は胸を締め付けられる思いで、その羊を見つめた。
「……かわいそう。」
亮一は静かに一歩踏み出す。
腰のシザーケースからハサミを取り出した。
「待て。」
ガレオスが腕を伸ばし、亮一の前へ立つ。
「不用意に近付くな。先ほどの突進を見ただろう。」
騎士として当然の判断だった。
亮一は苦しそうに立つ岩毛羊を見つめたまま、小さく首を振る。
「大丈夫だ。」
「この羊たちは、もう戦う気力なんてない。」
一度羊へ視線を向け、ハサミを握り直す。
「それに――」
静かに笑う。
「俺は戦いに行くんじゃない。」
「助けに行くだけだ。」
ガレオスは亮一の横顔を見つめる。
その目にあるのは、恐れではない。
困っている者を放っておけない、職人としての真っ直ぐな覚悟だけだった。
やがてガレオスは小さく息を吐き、腕を下ろす。
「……分かった。」
「だが、危険を感じたらすぐに下がれ。」
「ああ。」
亮一は短く頷く。
その隣へ鏡子も並ぶ。
「私も行く。」
亮一は少しだけ笑った。
「頼む。」
二人はゆっくりと岩毛羊へ歩み寄った。鏡子は胸を締め付けられる思いで、その羊を見つめた。
「……ひどい状態。」
「試してみよう。」
羊毛へハサミを入れる。
その瞬間――
ゴゴゴ……。
再び羊毛の奥で魔力が脈打つ。
柔らかかった毛並みは、みるみる岩肌のような硬さへ変わっていく。
ガキッ。
ハサミが止まる。
「くっ……。」
「反応してる……。」
鏡子が息を呑んだ。
亮一は無理に押し切ろうとはせず、静かにハサミを下ろす。
「このままでは突破できん。」
ガレオスが静かに告げた。
亮一はもう一度、街道を埋め尽くす岩毛羊たちを見渡す。
その瞳に映っていたのは、敵ではない。
長い年月、誰にも助けられることなく苦しみ続けた命だった。
亮一は短く息を吐く。
「……作戦を考えよう。」
誰も異論はなかった。
羊を倒すためではない。
羊を救うための方法を探すために。
◇ ◇ ◇
街道を完全に塞ぐ岩毛羊の群れを前に、馬車は完全に足止めを食らっていた。
モコモコとした白い壁を見つめながら、ガレオスが重々しい口を開く。
「……このままでは、蚕人族の里へ向かえん」
どうにかしてこの群れを突破しなければならない。
一行は馬車の前で、突破方法を話し合うことになった。
レインが懐から地図を取り出し、広げて見せた。
「迂回路はある」
細く美しい指先が、街道の北側に連なる険しい山脈をなぞる。
「だが、山を大きく迂回することになる。到着は五日は遅れるだろう」
「五日もか……」
ガンツが忌々しげに顔をしかめた。
ガレオスもまた、険しい表情で腕を組む。
王都では、ガレオスとエミリアの結婚式が間近に迫っている。王家は婚礼衣装に使う『天羽絹』の到着を今か今かと待っているのだ。
それに加え、目的地である蚕人族の女王ティセラからは、切羽詰まった救援要請が届いていた。
ここで五日も遅れれば、結婚式に間に合わないばかりか、蚕人族を致命的な危険にさらす可能性すらある。
「……迂回は却下だ」
ガレオスが静かに、しかし断固とした声で結論を出した。
「なら、馬車を置いて歩いて抜けりゃいいじゃねぇか」
ガンツが大斧を地面に突き立てて提案する。
だが、レインが即座に首を振った。
「この先は山岳地帯だ。馬車を捨てれば、十分な食料も荷物も運べなくなる」
「蚕人族の里まではまだ距離がある。馬車は捨てられん」
ガレオスの言葉で、この案もあっけなく却下された。
手詰まり感が漂う中、亮一が来た道を振り返った。
「さっき、手前に村があったよな。あそこの人たちなら、羊のことを何か知ってるかもしれない」
「確かに……地元の者の知恵を借りるのが最善か」
ガレオスが深く頷く。
「よし。一度村へ戻ろう」
◇ ◇ ◇
村へ引き返した一行を、村長が慌ただしく出迎えた。
ガレオスが王命を帯びて動いている騎士であることを伝えると、村長は顔面を蒼白にして勢いよく頭を下げる。
「し、失礼いたしました! まさか王都からの御一行とは露知らず……!」
「構まわない、面を上げてくれ。」
ガレオスは鷹揚に頷き、本題を切り出した。
「街道を塞いでいる岩毛羊について、知っていることを教えてほしい」
村長は安堵したように息を吐き、静かに語り始めた。
「岩毛羊がこの辺りで見られるようになったのは、数年前からです。」
「数年前、この近くの山で大きな土砂崩れが起きましてな。それ以来、山奥に棲んでいた羊たちが麓まで下りてくるようになったのです。」
「最初は数頭だけでした。人にもよく慣れ、大人しいものですから、私たちも普通の羊だと思っておりました。」
村長は遠くを見るように目を細める。
「ところが年々数が増え、ここ数か月で突然、街道を群れで塞ぐようになったのです。」
レインが腕を組みながら尋ねる。
「毛を刈ろうとはしなかったのか?」
その一言で、村長の表情が曇った。
「もちろん試しました。」
「毛があまりにも伸びておりましたので、普通の羊と同じように刈ってやろうとしたのです。」
村長は悔しそうに拳を握る。
「ですが、刃物を当てた瞬間、毛が岩のように硬くなってしまうのです。」
「鎌も斧もまるで歯が立ちませんでした。何度試しても同じでした……。」
深いため息をつき、肩を落とす。
「あの重い毛のせいで、羊たちも苦しんでおります。」
「助けてやりたい。村のみんな、そう思っております。」
「ですが……私たちには、どうすることもできませんでした。」
話を聞いていたレインが、小さく顎へ手を当てた。
「……土砂崩れか。」
何かを思い出すように目を細める。
「古い文献には、こんな記述もあった。」
『岩毛羊は年に一度毛を刈らねばならない。また、山々に点在する”魔砥石”へ身体を擦りつけ、余分な羊毛を落とす習性がある。』
レインは村長を見る。
「土砂崩れで、その魔砥石が埋まってしまった可能性がある。」
「魔砥石……?」
村長が首を傾げる。
「自然に魔力を帯びた巨大な岩だ。岩毛羊は昔から、その岩に身体を擦りつけて毛量を調整していたらしい。」
「もし、その岩場が失われたのだとすれば……。」
レインは街道の先を見つめる。
「毛を落とせなくなった岩毛羊は、年々毛が伸び続ける。」
「やがて重さに耐えられなくなり、人里まで下りて来たのだろう。」
ガンツが腕を組む。
「なるほどな。住処を追われたってわけじゃなく、手入れができなくなったのか。」
「おそらくな。」
レインは静かに頷いた。
話を聞き終えた亮一は、どこか遠くを見るような目で静かに呟いた。
「つまり……。」
一同の視線が亮一へ集まる。
「散髪できなくなったってことか。」
「散髪?」
ガンツが首を傾げる。
亮一は当然のことのように続けた。
「髪だって伸びっぱなしなら困るだろ。」
「羊も同じだ。」
「切る方法がなくなったから、ここまで苦しんでる。」
鏡子もハッとしたように羊たちを思い浮かべる。
「だから、あんなに苦しそうだったのね……。」
亮一は静かに頷く。
「そういえば……。」
そう呟くと、腕を組んで考え込んだ。
そして、不意に何かを思い出したように顔を上げる。
「昔、一人旅でオーストラリアへ行ったことがあるんだ」
ガンツは腕を組み、大きく首をかしげる。
「おーすとらりあ? 聞いたこともねぇ国だな。」
亮一は少し笑う。
「俺たちがいた世界の国だ。」
「そこで、羊刈りを手伝わせてもらったんだよ」
「勉強のため?」
鏡子が尋ねると、亮一は少し照れくさそうに笑った。
「まあな。理容師の仕事に役立つことなら、何でも見ておきたかったからな」
「羊ってのは、警戒すると体に力が入る生き物なんだ」
亮一は全員の顔を見回しながら説明を続ける。
「だから、向こうの毛刈り職人は、刈る前にゆっくりした音楽を流して羊を落ち着かせるんだよ」
「音楽、だと?」
レインが興味深そうに目を細めた。
「どんな音楽だ?」
「激しくない、心が落ち着くような、ゆっくりした音色だ。もし、この世界の岩毛羊も同じなら……」
亮一は腰のシザーケースにそっと触れた。
「警戒が解ければ、毛は柔らかいままになるかもしれない」
話を聞いていたレインが、おもむろに腰のポーチから木製の横笛を取り出した。
そっと唇を当て、繊細な指使いで息を吹き込む。
澄み切った柔らかな音が、まるで爽やかな風のように優しく広がっていく。どこか懐かしく、聴く者の心を解きほぐすような穏やかな旋律が村を包み込んだ。
風が吹き抜けるような心地よい演奏が終わると、亮一はパッと明るい笑顔を見せた。
「そうそう! そんな感じだ」
「聞いてるだけで、なんだか安心する音色ですね」
鏡子がうっとりとしたため息を漏らす。
ガンツも腕を組みながら、鼻を鳴らした。
「よく分からんが、悪くねぇな。俺も少し眠くなってきたぜ」
「試す価値は大いにあるな」
ガレオスが力強く頷く。
「夜明けに試そう。羊たちもまだまどろんでいる時間帯がいい」
レインが笛をしまいながら提案した。
亮一が頷く。
「それと、できれば村の人たちにも楽器を持ってきてほしい。」
村長が首を傾げる。
「楽器……ですか?」
「ああ。」
亮一は静かに説明する。
「一匹だけを落ち着かせても、周りが興奮したままだと群れ全体が混乱する。」
「羊は群れで行動する生き物だからな。」
「群れ全体を安心させるには、一人で演奏するより、みんなで穏やかな音を奏でた方がいい。」
レインも納得したように頷く。
「なるほど……。音で群れ全体を包み込むわけか。」
村長は力強く胸を叩いた。
「承知しました! 楽器を扱える者には笛や弦楽器を持たせ、レインさんと共に演奏させます!」
「毛を刈る者、羊を誘導する者、刈り取った羊毛を運ぶ者も集めましょう!」
亮一は深く頭を下げた。
「ありがとう。きっと上手くいく。」
◇ ◇ ◇
翌朝。
朝靄に白く包まれた街道には、しっとりとした冷気が漂っていた。
視界の先には、岩毛羊たちが身を寄せ合い、静かに立っている。
レインが横笛をゆっくりと口元へ運んだ。
亮一は腰から愛用のハサミを抜き放ち、静かに握り直す。
その隣には、彼をサポートするべく鏡子がピタリと並んで立っている。
朝の静寂の中、ガレオスが短く告げた。
「……始めよう」
レインの吹き鳴らす優しい笛の音が、靄のかかる静かな街道へと、ゆっくり流れ始めた――。
カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。




