↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/45

第20話「その髪型、本当にお好きですか?」③

異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~

作者:阿波根サキ


王との面談から数日後。


 日が沈み、王都アルトは静かな夜を迎えていた。

 ハサミ理容室では、その日の最後の客を見送り、亮一が店先の看板を裏返す。


 ――CLOSED。


 鏡子は店内を見渡し、小さく息をついた。

「なんだか落ち着かないね。」


「まあな。」

 亮一は理容椅子の位置を整え、鏡を柔らかな布で磨いていく。


 ハサミを一本ずつ並べ、カミソリの刃先を確かめる。

 いつもと変わらない閉店後の準備。

 違うのは、これから迎える客だけだった。


 数日前。

 王城から一通の書簡が届いた。


『日没後、お忍びで伺う。』


 短い文面の下には、王の印章だけが静かに押されていた。


 鏡子が窓の外へ目を向ける。

「そろそろかな。」


 その時だった。


 コン、コン。


 静かなノックが店内に響く。

 亮一は扉へ向かい、鍵を外した。


「いらっしゃいませ。」


 扉を開けると、外套を羽織った二人の男が立っていた。


「こんばんは。」

 ガレオスが穏やかに笑う。

「約束どおりお連れした。」


 隣に立つ男が、ゆっくりとフードへ手を掛ける。

 その素顔を見た鏡子は、思わず姿勢を正した。


 現れたのは、シアール王国国王――アルベルト・レオニス・シアール。


 昼間の豪奢な王服ではない。

 落ち着いた色合いの旅装束に身を包み、王冠も身につけていなかった。


 アルベルトは店内をゆっくり見渡し、小さく目を細める。


「ここが……。」

「噂に聞くハサミ理容室か。」


 木の香りが漂う店内。

 磨き上げられた鏡。

 丁寧に手入れされた理美容道具。

 どこか懐かしさすら感じる温かな空間だった。


「想像していたより、温かい店だ。」


 亮一は静かに一礼する。

「ありがとうございます。」


 アルベルトは穏やかに微笑んだ。

「今夜は王として来たのではない。」

「一人の客として、この店を訪れた。」


 亮一も微笑み返す。

「でしたら私たちも、お客様としてお迎えします。」


 鏡子も笑顔で頭を下げた。

「ようこそ、ハサミ理容室へ。」


 アルベルトはゆっくりと理容椅子へ腰を下ろす。

 革張りの椅子が静かに沈み込んだ。


 ふぅ、と小さく息を吐く。

「不思議だな。」

「玉座より、こちらの方が落ち着く。」


 ガレオスが思わず吹き出した。

「いやはや、大臣たちには聞かせられない話です。」


 鏡子も笑いをこらえきれず口元を押さえる。


 アルベルトもつられて笑った。

「だから今夜だけの秘密だ。」


 店内に柔らかな笑い声が広がる。

 張り詰めていた空気は、いつの間にか消えていた。


 亮一は王の後ろへ回り、白いクロスを手に取る。

「アルベルト様。」


「なんだ。」


「今夜だけは、陛下ではなく、一人のお客様として接します。」


 アルベルトは鏡越しに亮一を見つめ、静かに頷いた。

「望むところだ。」


 亮一は白いクロスをふわりと広げる。

「それでは――。」


「失礼します。」


 白い布が、そっとアルベルトの肩を包み込んだ。


 千年の伝統を背負ってきた王が、初めて一人の客として理容椅子に身を委ねた瞬間だった。


◇ ◇ ◇


 亮一はアルベルトの肩を包むクロスを整えると、鏡越しに穏やかに微笑んだ。


「それでは、始めます。」


「ああ。」

 アルベルトは静かに頷く。


 亮一は頭頂部へ手を伸ばした。

「失礼します。」


 樹脂で固定されたかつらを慎重に持ち上げる。

 わずかな抵抗を残しながら、かつらはゆっくりと外れた。


 鏡子は思わず息を呑む。

「……。」


 姿を現したのは、肩口まで伸びた銀色の髪だった。

 本来なら月明かりのように美しく輝くはずの髪。

 しかし、長年かつらの下に閉じ込められていたそれは、乾燥し、艶を失っている。


 毛先には枝毛が目立ち、髪同士は絡まり、ところどころ切れ毛も見えた。

 頭皮は赤みを帯び、長時間蒸れ続けた痕跡が痛々しく残っている。


 亮一はそっと指を通した。

 何度も引っ掛かる。

「痛くありませんか。」


 アルベルトは小さく笑った。

「……毎日のことだからな。」

「櫛を通すたびに痛む。」

「だが、もう慣れてしまった。」


 その言葉に、店内が静まり返る。


 鏡子は頭皮をそっと覗き込んだ。

「少し失礼します。」


 髪を分ける。

 赤み。

 乾燥。

 硬くなった頭皮。


「かなり負担が掛かっています……。」

 亮一も静かに頷いた。


「毎日、どれくらい着けているんですか。」

「公務の日は十時間以上だ。」

「式典の日は、それ以上になる。」


 亮一は髪全体を丁寧に確かめる。


 長さ。

 毛量。

 髪質。


 一本一本を慈しむように指先を滑らせた。


 やがて、小さく頷く。

「アルベルト様。」

「髪は、ちゃんと生きています。」


 アルベルトが鏡越しに亮一を見た。

「……生きている?」


「はい。」

「傷んでいます。」

「疲れています。」

「ですが、生きています。」


 亮一は優しく微笑んだ。

「だから、まだ応えてくれます。」


 アルベルトは自分の髪へそっと触れる。

 その表情は、どこか戸惑っていた。


「……誰かに。」

 静かな声が漏れる。

「私の髪を、そんなふうに言われたのは初めてだ。」


 少し目を伏せる。

「皆、王冠を見ていた。」

「伝統を守るために被り続けた、かつらを見ていた。」


「だが……。」


「本来の私の髪型を見た者は、一人もいなかった。」

 亮一は静かに首を横へ振る。


「髪型は、その人の一部です。」

「だから、雑には扱えません。」


 鏡子も優しく微笑む。

「私たちは、アルベルト様ご自身を見ています。」


 アルベルトは鏡の中の自分を見つめた。


 傷んだ髪。

 赤くなった頭皮。

 決して美しい姿ではない。


 それでも、不思議と目を逸らしたいとは思わなかった。


「……不思議だ。」

 王は穏やかに笑う。


「髪を切るのが、楽しみだと思ったのは初めてだ。」


 亮一も自然と笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。」


 静かにハサミを手に取る。

 磨き上げられた刃が、店の灯りを受けて鈍く輝く。


「アルベルト様。」

「あなたの髪を、お任せください。」


 アルベルトはゆっくりと目を閉じた。

「ああ。」

「頼む。」


 亮一は深く息を吸う。


 そして――。


 静かにハサミを開いた。


◇ ◇ ◇


亮一は静かに櫛を入れた。

 乾ききった銀髪が、さらりと指の間を滑る。


 傷みはある。

 だが、その一本一本には、十七年という歳月が刻まれていた。


 亮一は髪の流れを確かめるように、ゆっくりと櫛を通していく。


 店内に言葉はない。

 聞こえるのは、櫛が髪を梳く音だけだった。


 やがて亮一は一房の髪を指先で挟み、長さを見極める。


 深く息を吸い、静かにハサミを閉じた。


 シャキ。


 澄んだ音が、静かな店内へ響く。


 切り落とされた銀色の髪が、白いクロスの上へふわりと舞い降りた。


 アルベルトは、その一房を見つめる。

「……これが。」


 小さく息を漏らす。

「私の髪か。」


 十七年間。

 自分の髪は、かつらを支えるためのもの。

 そんなふうに思い込んでいた。


 だからこそ、切り落とされた一房から目を離せなかった。


 亮一は何も言わず、再び櫛を入れる。


 髪を引っ張ることもなく、無理に梳かすこともない。

 絡まりを少しずつほどきながら、指先で髪の状態を確かめていく。


 アルベルトがぽつりと呟いた。

「……痛くない。」


 亮一は穏やかに微笑む。

「無理に梳かしたら、髪がかわいそうですから。」


 アルベルトは静かに目を閉じた。


 その言葉が、不思議と胸に残る。

 これまで誰も、髪を労わるような言葉を口にしたことはなかった。


 ガレオスは黙ってその光景を見つめていた。


 十七年前。

 王位を継いだアルベルトは、若き王として国を背負う覚悟に満ちていた。


 その肩には、王としての責務だけではない。

 歴代の王が受け継いできた、重いかつらという伝統もまた背負わされた。

 あの日から一日たりとも、その重みを下ろすことはなかった。


 ガレオスは小さく目を細める。

(ようやく……伝統という呪縛から解き放たれる。)


 亮一は鏡子へ視線を送る。

 鏡子は何も言わず、小さく頷いた。


 それだけで十分だった。


 亮一は霧吹きを受け取り、銀髪を軽く湿らせる。


 しっとりと潤った髪へ櫛を滑らせると、さっきまでとは違う素直な手応えが指先へ伝わる。


 亮一はゆっくりとハサミを開いた。


 その銀髪に、再び刃が添えられる。


◇ ◇ ◇


亮一のハサミは、迷いなく銀髪を整えていく。


 頭の形に合わせ、毛流れを読み、一房ずつ丁寧に切り揃える。

 長く重たかった銀髪は少しずつ表情を変え、軽やかさを取り戻していった。


 アルベルトは鏡を見ない。

 ただ、亮一の指先が髪へ触れる感触を静かに感じていた。


 やがて亮一はハサミを置く。


「ここからは鏡子。」

「うん。」


 鏡子は椅子をゆっくりと倒した。

「少し失礼しますね。」


 アルベルトは静かに身を委ねる。


 視界いっぱいに天井が広がる。

 温められた湯が銀髪へ流れ落ちた。


 さらさらと流れる湯音が耳に心地よく響く。


「熱くありませんか?」

「……いや。」


 アルベルトは静かに目を閉じた。

「ちょうどいい。」


 鏡子はシャンプーを泡立てる。

 雪のようにきめ細かな泡が銀髪を包み込み、指の腹がゆっくりと頭皮を揉みほぐしていく。


 こめかみを押し上げる。

 耳の後ろを円を描くようにほぐす。

 後頭部から首筋へと指先が流れるたび、凝り固まっていたものが静かにほどけていく。


「……っ。」


 アルベルトの肩が小さく震えた。


「なんだ……これは。」


 頭が、ふっと軽くなる。

 思わず目を閉じた。


「頭を洗われるだけで、これほど心地よいものなのか。」


「ありがとうございます。」


 鏡子は優しく泡を洗い流す。

 温かな湯が頭皮を包み込み、全身から力が抜けていく。


 銀髪はしっとりと潤いを取り戻していた。


「続いて、髪を補修しますね。」


鏡子はトリートメントを手に取り、傷んだ毛先へ一本一本、慈しむようになじませていく。


乾ききっていた銀髪は、ゆっくりと潤いを取り戻し、くすんでいた輝きが少しずつ蘇る。鏡子の指先を滑る感触も、ざらつきから、するりと心地よいものへと変わっていった。


 洗い流し、柔らかなタオルで水気を拭き取る。

 櫛を通すたび、するりと指先を抜けていった。


「亮一。」

「ああ。」


 亮一は蒸しタオルを手に取る。

「温かいタオルをお掛けしますね。」


 ふわりと湯気をまとったタオルが、アルベルトの顔を優しく包み込んだ。


「……温かい。」


 頬を包む柔らかな熱が、ゆっくりと肌へ染み渡る。

 鼻を抜ける湯気が、自然と呼吸を深くした。


「……なんと心地よい。」


 亮一は静かにタオルを外し、理容用の剃刀を手にする。

 きめ細かな泡を頬へ塗り広げた。


「力を抜いてください。」

「ああ。」


亮一は剃刀を静かに手に取る。

鏡の前には、目を閉じたアルベルト。

その表情には、わずかな緊張が残っていた。


亮一はそっと頬へ手を添え、肌の張りを確かめる。


そして、剃刀を滑らせた。


刃が触れた――。


そう思った瞬間には、もう刃は頬を通り過ぎていた。


恐ろしさはない。

肌へ吸い付くような滑らかな感触。


温かな蒸しタオルで柔らかくなった肌の上を、剃刀は羽根で撫でるように滑っていく。


産毛だけを静かにさらい、肌には何の刺激も残さない。


「……。」


アルベルトの肩から、ふっと力が抜けた。

思わず息を吐く。


温もりに包まれながら、頬を優しく撫でられているような、不思議な心地よさ。


いつしか、剃られていることすら忘れていた。

部屋に響くのは、剃刀が産毛を払う微かな音だけ。

静かで、穏やかな時間が流れていく。


やがて亮一は剃刀を置き、蒸しタオルで頬をそっと拭った。


「片側が終わりました。」


アルベルトはゆっくりと目を開く。

「……終わったのか?」


「まだ片側です。」

「今ので……か。」


思わず右頬へ手を伸ばす。

指先が触れた瞬間、目を見開いた。


「これは……。」


指が吸い付くように滑る。

これまで自ら剃ってきた肌とは、まるで別物だった。


何度も頬を撫でる。

そのたびに、滑らかな感触が指先へ返ってくる。


「驚いた……。」


「これほど丁寧に……これほど心地よく顔を剃られたことは、一度もない。」


思わず口元が緩む。


髭を剃る時間とは、本来こんなにも心地よいものだったのか――。

アルベルトは、生まれて初めて知った。


◇ ◇ ◇


 亮一は剃刀を置き、両手を頭へ添えた。


「最後に、頭皮をほぐします。」


 指先がゆっくりと頭皮を押し上げる。


 側頭部。

 頭頂部。

 後頭部。

 首筋。


 固く張っていた筋肉が、少しずつほどけていく。


 アルベルトは何も言わない。

 ただ、その心地よさへ身を委ねていた。


 ガレオスが小さく声を掛ける。

「陛下……?」


「……止めないでくれ。」


 ガレオスは思わず目を丸くする。


「この心地よさを……もう少し味わいたい。」


 亮一と鏡子は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。


 さらに数分。


 亮一はゆっくりと手を離す。

 アルベルトは静かに目を開いた。


「……終わってしまったのか。」


 どこか名残惜しそうな声だった。


 亮一はクロスを整え、ゆっくりと椅子を起こす。

「陛下。」


 アルベルトが顔を上げる。


「仕上げに入ります。」


亮一は首元に残った細かな毛を、柔らかなブラシで丁寧に払い落とす。耳の周りや襟足も指先で確かめ、一本の切り残しも見逃さない。


続いて、温かな蒸しタオルを首筋に当てる。張り詰めていた筋肉がふっと緩み、アルベルトは静かに息を吐いた。


「最後に、肩を少し失礼します。」


亮一はアルベルトの肩へ両手を添え、ゆっくりと力を込めた。


「……っ。」


その瞬間、岩のように張り詰めていた筋肉がわずかに沈み込む。


「かなりお疲れですね。」

「……ああ。最近は執務が立て込んでいてな。」


亮一は親指で肩の奥深くを探るように押しほぐし、凝りを見つけると数秒かけてじっくりと圧をかける。


「そこだ……。」


思わず漏れた声に、亮一は小さく笑う。

「皆さん、同じことをおっしゃいます。」


指先は肩から首筋へ、首筋から肩甲骨へと流れるように移る。


凝り固まっていた筋肉がゆっくりとほどけ、重くのしかかっていた見えない鎧を一枚ずつ脱いでいくようだった。


アルベルトは静かに目を閉じる。


王となってから、誰かに身体を預けることなどほとんどなかった。


国の未来を決める決裁。

山積みの報告書。

終わることのない会議。


気づけば、肩には自分でも忘れていた重みが積み重なっていた。


亮一の指がその重みを少しずつ溶かしていく。

呼吸は自然と深くなり、胸いっぱいに空気を吸い込む。


「……不思議だ。」

「はい?」

「肩が軽くなるだけではない。」


アルベルトは薄く笑みを浮かべた。


「頭の中まで澄んでいくようだ。」

「血流が良くなると、気分も変わりますから。」


亮一は最後に肩全体を包み込むように軽く揺らし、両手を離した。


アルベルトはゆっくりと目を開く。


先ほどまで感じていた重苦しさは消え、肩は驚くほど軽い。


思わず肩を回してみると、関節は滑らかに動き、身体全体がひと回り軽くなったような感覚が広がった。


「……これは見事だ。」


王としてではなく、一人の客として漏れたその言葉には、偽りのない感嘆が込められていた。


亮一は手のひらに少量の整髪料を伸ばし、髪全体へなじませる。流れを整えながら、王としての威厳と、一人の人間としての穏やかさが同居するよう、前髪と毛流れを繊細に整えていく。


最後に全体を一周見回し、左右の均衡を確かめると、小さく頷いた。


「──お待たせしました。」


◇ ◇ ◇


亮一はクロスを静かに外した。


 亮一が鏡子へ目配せすると、鏡子は大きな姿見を椅子の正面へ運んだ。


「それでは、ご覧ください。」


 アルベルトはゆっくりと鏡へ視線を向ける。


 そこに映っていたのは――。


 かつらの下で重く垂れ下がり、乾いて艶を失っていた銀髪はもうない。

 長く伸び放題だった髪は頭の形に合わせて整えられ、自然な毛流れが気品を引き立てている。


 額を覆っていた前髪は柔らかく流れ、これまで険しく見えていた表情に穏やかさが宿る。

 傷んでいた毛先には艶が戻り、光を受けて美しく輝いていた。


 丁寧なシェービングによって輪郭はすっきりと引き締まり、それでいて威圧感はない。

 王としての風格だけが静かに残されている。


 鏡の中には、疲れ果てた王の姿はなかった。

 一人の品格ある男が、穏やかな眼差しでこちらを見つめていた。


 アルベルトは言葉を失う。


 鏡へ手を伸ばし、前髪へそっと触れる。

 続いて頬へ触れた。


 滑らかな肌を指先が静かに滑っていく。


「……これが。」


 小さく息を呑む。


「私……なのか。」


 亮一は穏やかに微笑んだ。

「はい。」

「陛下ご自身です。」

「私たちは、その魅力を少しだけ引き出しただけですよ。」


 アルベルトは再び鏡へ目を向ける。


 王となって十七年。

 鏡に映るのは、豪華なかつらを被った王の姿ばかりだった。


 身だしなみとは、伝統を守るための儀式。

 そう思い込み、自分自身の髪を見ることさえ忘れていた。


 しかし今、鏡の中にいるのは違う。


 王冠も、豪華な衣装も変わらない。

 それでも、その顔には確かに自分自身がいた。


「……そうか。」


 静かな声が漏れる。


「私は、こんな顔をしていたのか。」

 ガレオスは胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 十七年間。

 王の傍らで、その背中だけを見続けてきた。


 国のため、民のため。

 すべてを背負い続けた王が、こんなにも穏やかな表情を浮かべたことがあっただろうか。


「ガレオス。」

「……はい。」

「どうだ。」


 ガレオスは目頭を押さえ、小さく頭を下げる。

「……お似合いです。」


 それ以上の言葉は出てこなかった。


 アルベルトは思わず笑みをこぼす。

「お前がそのような顔をするとはな。」

「失礼いたしました。」


「いや。」

 アルベルトはもう一度鏡の中の自分を見つめる。


 そして亮一と鏡子へ向き直った。


「二人とも。」

「はい。」

「ありがとう。」


 王としての言葉ではない。

 一人の客として贈る、心からの感謝だった。


 亮一と鏡子は深く一礼する。

「こちらこそ、ありがとうございました。」


 店内は静寂に包まれる。


 アルベルトは鏡の中の自分を見つめ、満足そうに頷いた。


「――実に見事だ。」


◇ ◇ ◇


アルベルトはもう一度鏡の中の自分を見つめた。


 その表情には、先ほどまでの硬さはない。

 穏やかな笑みを浮かべ、小さく頷く。


「亮一。」

「はい。」

「次は、いつ頃整えればよい。」


「およそ一か月ですね。」

「その頃になると髪が伸びて、ちょうど整えやすくなります。」


 アルベルトは静かに頷いた。


「……亮一。」

「はい。」


 一瞬、言葉を選ぶように間を置く。

「そなたに、これからも王の整髪を任せたい。」


 亮一はわずかに目を見開いた。

 その言葉の重みを、誰よりも理解している。


「……喜んで。」

 深く頭を下げる。

「お任せください。」


 ガレオスも安堵したように微笑む。

「陛下が、これほど満足されたお姿を見るのは初めてです。」


 アルベルトは照れ隠しのように咳払いを一つした。

「……帰るぞ。」


「はっ。」

 二人は店を後にする。


 扉のベルが静かに鳴り、やがて店内は穏やかな静けさに包まれた。


◇ ◇ ◇


 鏡子は閉まった扉を見つめ、小さく息を吐く。


「終わったね。」

「ああ。」


 亮一はクロスを畳み、使い終えた道具を片付け始める。


 鏡子は感心したように亮一を見た。


「知らなかった。」

「理容師には、守破離なんてあるんだね。」


 亮一は鋏を布で拭きながら、何気なく答えた。

「いや。」

「そんなものないぞ。」


 鏡子の動きが止まる。

「…………え?」


 亮一は平然としている。

「理容師に守破離なんてない。」


 一拍。


 鏡子は目を見開いた。

「ええぇぇぇぇぇっ!?」


「ちょっと待って!」

「あれだけ堂々と陛下に話しておいて!?」

「全部その場で考えたの!?」


 亮一は苦笑する。

「まぁ、そうだな。」


 鏡子は額を押さえ、大きくため息をついた。

「信じられない……。」

「相手は国王だよ?」

「もし怒られてたら、どうするつもりだったの?」


 亮一は肩をすくめた。

「守破離って言葉を借りただけだ。」

「考え方については、嘘は言ってない。」


 鏡子は首をかしげる。

「え?」

「ただ……。」


 亮一はケースへハサミを収めながら静かに続けた。


「理容師は、流派を守る仕事じゃない。」

「目の前のお客様に合わせる仕事だ。」

「昨日と同じ切り方が、今日も正しいとは限らない。」


「髪質も違う。」

「髪の生え方も違う。」

「悩みも、なりたい姿も違う。」


 ケースの蓋を静かに閉じる。

「だから、理容師に守破離なんてない。」


 一呼吸置き、亮一は穏やかに笑った。


「あるのは――鏡の前のお客様だけだ。」


 鏡子はしばらく亮一を見つめていた。

 やがて、ふっと笑みをこぼす。


「……やっぱり、亮一ってすごいね。」


 店の片付けを終えた二人は、最後の明かりを落とす。

 窓の外には、静かな夜の帳が下りていた。


 カラン。


 営業を終えた『ハサミ理容室』の扉が静かに閉まる。


 その店には今日もまた、一人のお客様と向き合った確かな時間だけが残っていた。

カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。