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第10話「真っすぐな想い」②

異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~

作者:阿波根サキ

ハサミ理容室の扉が静かに開く。ほんのり甘いシャンプーの香りと温かな空気がナラを包み込んだ。


「いらっしゃい。」


 亮一が柔らかく笑って迎える。その声は店内の穏やかな音楽と溶け合い、自然と心を落ち着かせた。


「今日は鏡子が担当な。俺は裏でフォローに回るから、安心して任せていいぞ。」


 ナラは少し緊張した様子で店内を見渡す。滑らかな床に靴音がかすかに響く。


 ゆったりとした美容椅子と大きな鏡。見慣れない道具が整然と並び、金属の触れ合う音が小さく響いていた。


「こっち、どうぞ。」


 鏡子が優しく椅子を引く。その仕草に安心感があった。


 ナラは息を整えて腰を下ろす。柔らかなクッションに触れ、緊張が少しほどけた。


 鏡の中には、いつもの自分。


「まずは髪、見せてもらっていい?」


 ナラは結んでいた髪をほどく。

 強いクセがふわりと広がる。

 鏡子は指を通しながら確認していく。


「思ってたより、ずっといい状態だね。ちゃんと手入れしてるの、伝わるよ。」

「一応、ケアしてるんだ。」

 ナラは少し照れくさそうに笑う。


「好きな髪じゃないけど……放っておくのは、なんか嫌で。」


 鏡子は優しく微笑んだ。

「その気持ちがあるなら大丈夫。髪ってね、ちゃんと応えてくれるから。」


 亮一も頷く。

「クセは強いけど、コンディションはいいな。鏡子なら問題なく仕上げるだろ。」


 鏡子は軽く頷き、シャンプー台を指差した。


「じゃあ、まずは一回リセットしよっか。ここから整えていくね。」


 温かいお湯が髪を包む。頭皮に触れた瞬間、緊張がほどけていく。


「……気持ちいい。」

 ナラの口から思わず声が漏れた。


「力、抜いていいよ。今日は全部、私に任せて。」


 鏡子の指先が頭皮を優しく動く。

 ナラは目を閉じた。

 人に髪を洗ってもらうのは初めてだった。


◇ ◇ ◇


 髪を乾かし終えると、鏡子は細いコームを手に取る。

 髪を少しずつ分けていく。クリップが留まる音が規則的に響く。

 亮一は腕を組んで見守っていた。


「……相変わらず、仕事が細かいな。」

「ブロッキング見れば、だいたいその人間の技量がわかる。」


 鏡子は少し照れたように笑う。


「そんなにじっと見られると、ちょっとやりづらいんだけど。」

「ちゃんと褒めてるって。俺じゃここまできっちり分けられないしな。」


 ナラは二人を見た。

「そんなに違うものなの?」


 亮一が答える。

「同じ縮毛矯正でもな、ここが甘いと仕上がりに差が出る。薬剤を均一に効かせるための土台みたいなもんだ。」


 ナラは感心して頷いた。

「そこまで考えてやってるんだ……。」


 鏡子は薬剤を手に取り、軽く息を整える。

「じゃあ、始めるね。ここからが本番。」


 白いクリームをハケに取り、細い毛束に丁寧に塗布していく。

 一本ずつ、均一に。

 ひんやりとした感触が髪に広がる。

 店内には静かな時間が流れていた。

 ナラは鏡越しに、その真剣な横顔を見つめる。


(すごい……。)


 迷いのない手つき。

 亮一は静かに微笑む。


「始まったな。鏡子の本気モード。」


 その言葉どおり、鏡子の手は止まらない。

 ナラの”なりたい自分”へ向かう時間が、静かに動き始めていた。


◇ ◇ ◇


 薬剤を塗り終えると、鏡子は手袋を外し、小さく息をついた。指先に残るわずかな薬剤の匂いが、ほのかに鼻をくすぐる。


「よし、こんな感じかな。」


 軽く肩を回しながら、鏡子はナラの髪をもう一度確認する。


「ここからちょっと時間置くね。」


 ナラは鏡越しに自分の髪を見つめた。椅子に座ったまま、そっと背筋を伸ばす。店内にはドライヤーの低い唸りと、遠くで誰かが笑う声が柔らかく響いている。


 薬剤が塗られた髪は、まだ何も変わっていないように見える。指先で触れると、少しひんやりとして重みを感じた。


「これで……ほんとに変わるのかな?」


 不安そうな声だった。ナラは鏡の中の自分と目を合わせるように、じっと見つめる。


 鏡子はふっと優しく笑う。その笑顔は、午後の柔らかな光に照らされて温かく見えた。ナラの肩に軽く手を置く。


「大丈夫、大丈夫。そんなに焦らなくていいよ。縮毛矯正ってね、急ぐと逆にうまくいかないの。」


 穏やかな声で言いながら、鏡子はゆっくりと手を離す。


「髪の様子見ながら、ゆっくり進めていく仕事なんだ。」


 亮一がお茶を運んできた。トレイをそっとテーブルに置くと、ふわりと広がるハーブの優しい香りとともに、カップが触れ合うかすかな陶器の音が心地よく響く。


「はい、どうぞ。」

 軽く会釈しながら差し出す。


「あ、ありがとう。」


 ナラは少し慌てたように両手でカップを受け取る。指先に伝わる温もりに、ほっと息をついた。


 湯気の立つハーブティーから、優しい香りが漂う。カモミールの甘く落ち着いた香りが、緊張していたナラの心をゆっくりとほどいていく。


 亮一は時計を見上げる。壁掛け時計の針が静かに進む音が、時間の流れを穏やかに刻んでいた。


「まだちょっとかかるからさ、ゆっくりしてって。」


 気遣うように微笑み、軽く手を振る。


 鏡子は棚から一冊の雑誌を取り出した。紙をめくるときのさらりとした音が、静かな店内に溶け込む。


「待ってる間、これでも見てみる?」


 雑誌を差し出すと、ナラは少し身をかがめて覗き込む。


「え?……わ、この本の絵、すごいキレイ。転写魔法みたい。」


 ナラは初めて見る、美しい女性たちが並ぶ冊子に目を丸くした。インクの匂いと紙の手触りが新鮮に感じられる。


「わぁ……。」


 思わず声が漏れる。ページをめくる。指先に伝わる紙の滑らかさが心地よい。


 ボブ、ウェーブ、編み込み、ハーフアップ、ロングストレート。


「すごい……こんなに髪型ってあるんだ。」


 ページをめくるたびに目が輝く。光沢のある写真が、窓から差し込む光を反射してきらりと光った。


 ミリアも隣へ座り込む。椅子がわずかに軋む音がした。ナラの肩に軽く寄り添う。


「これ絶対ナラ似合うって!ほら、この編み込み!」

 指でページを指しながら、身を乗り出す。


「ほんとだ、かわいい!」

 ナラも顔を近づけ、二人の距離がぐっと縮まる。


 二人でページを覗き込みながら笑い合う。その笑い声が、店内の空気をさらに柔らかくする。


 その様子に、鏡子も自然と頬が緩んだ。少し離れた場所から、優しく見守るように視線を向ける。


 ナラはあるページで手を止める。指先がぴたりと止まり、呼吸もわずかに浅くなる。


 腰まで伸びた、美しいストレートヘアの女性。


 風になびく髪と、優しく微笑む横顔。写真の中の風の気配まで感じられるようだった。


「……いいなぁ。」


 ぽつりと呟く。視線は写真から離れない。


 鏡子が隣へ来る。静かに歩み寄り、ナラの横に立つ。彼女のシャンプーのほのかな香りがふわりと漂う。


「それ、気に入った?」


 少し顔を傾けて問いかける。


 ナラは少し照れながら頷いた。カップを持つ手がわずかに揺れる。


「うん……こんな髪、ちょっと憧れる。でも私には……。」


 言いかけて、視線を落とす。


 鏡子は優しく首を横へ振る。その動きに合わせて、彼女の髪がさらりと揺れた。ナラの視線をそっと受け止める。


「今日からは違うよ。」


 穏やかに言い切る。


「自分で選べるようになるの。下ろしてもいいし、結んでもいいし、巻いたっていい。」


 指先で軽く空中に円を描くようにしながら説明する。


「大事なのはね、“結ぶしかない”じゃなくて、“選べる”ってこと。」


 ナラは雑誌へ視線を落とし、もう一度その女性を見る。紙越しに伝わる光沢と、そこに映る理想の姿。


(私も……こんな髪で歩いてみたい。)


 胸の奥が熱くなる。ハーブティーの温もりが、喉から体へと広がっていくのを感じた。カップを両手で包み込む。


 鏡子は微笑む。ナラの様子を見て、安心したように目を細める。


「美容ってね、人を無理に変える仕事じゃないの。」


 ゆっくりと言葉を選びながら続ける。


「その人が“こうなりたい”って思う自分に近づけるように、ちょっと背中を押す仕事なんだよ。」


 その言葉は、静かにナラの胸へ染み込んでいった。まるで温かな光が心の奥に差し込むように。


 店の窓から差し込む陽射しは、少しずつ傾き始めていた。ガラス越しに入る光が床に長い影を落とし、時間の移ろいを優しく知らせる。


 ナラはゆっくりと、“なりたい自分”へ近づいていた。


◇ ◇ ◇


 十分に時間を置くと、鏡子はそっと髪へ触れた。指先で感触を確かめるように、ゆっくりと撫でる。


「うん、いい感じ。」


 小さく頷きながら、鏡越しにナラの様子をちらりと見る。


「ちゃんと反応してる。」


 一本の毛束を指先で軽く引く。


 狙いどおりに柔らかくなっていることを確認すると、満足そうに頷いた。


「じゃあ、流そうか。」


 ナラは少し緊張した面持ちで、静かに首を縦に振った。


 ぬるま湯が薬剤をゆっくりと洗い流していく。


 鏡子は髪同士が擦れないよう、優しく指を滑らせた。まるで壊れ物を扱うような慎重さだった。


「ここからが一番大事だからね。」


 声のトーンが少しだけ低くなる。

「今の髪、すごくデリケートな状態なの。」


 ナラは静かに頷く。シャンプー台に身を預けながら、鏡子の手の動きを感じ取っていた。

 美容師の仕事が、ここまで繊細だとは思ってもいなかった。

 自分の髪が、こんなにも丁寧に扱われていることに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 同時に、ほんの少しの不安も芽生えていた。


 この先、自分はどう変わるのだろう――そんな予感が、静かに心を揺らす。

 タオルで丁寧に水気を取り、ドライヤーで少しずつ乾かしていく。

 店内には、温かな風の音だけが流れていた。

 その音に包まれながら、ナラは目を閉じる。肩の力が少しずつ抜けていく。

 期待と緊張が入り混じり、胸の鼓動がわずかに早くなるのを感じていた。


◇ ◇ ◇


 鏡子は大きく息を吸う。気持ちを切り替えるように、軽く肩を回した。

 アイロンの電源が入り、小さく電子音が鳴った。


「ここからは、ちょっと熱いかもしれないけど……」

 ナラの顔を鏡越しに確認しながら言う。


「安心して。痛くならないようにやるから。」

「うん。」


 ナラは小さく返事をする。膝の上で手をぎゅっと握りしめていた。

 その声には、わずかな震えが混じっていた。

 けれど、それは怖さだけではない。

 これから起こる変化への期待が、確かにそこにあった。


 鏡子は細い毛束を取る。

 コームで優しく梳かし、

 その後を追うようにアイロンをゆっくり滑らせた。


 ――スッ。


 静かな音。

 たった一回。

 それだけで、強いクセを持っていた髪が真っすぐに伸びる。


 ナラは思わず目を見開いた。鏡に映る自分の髪を、信じられないように見つめる。


「え……」

「すごい……」


 自分の髪とは思えない変化に、胸が高鳴る。

 こんなふうに変われるのだと、初めて実感した。

 同時に、これまでの自分が少しずつほどけていくような、不思議な感覚が広がる。


 鏡子は笑わない。

 集中したまま、

 一本。

 また一本。

 毛束の厚みを変えながら、丁寧に熱を入れていく。


 店内は静まり返っていた。


 聞こえるのは、

 アイロンが滑る音だけ。

 その規則的な音に、ナラの心も少しずつ落ち着いていく。


 亮一は少し離れた場所から、その手元を見つめていた。腕を組み、じっと観察するように。


「……やっぱり綺麗だな。」

 ぽつりと漏れる。


 鏡子は目を離さないまま、少しだけ口元を緩める。

「何が?私が?」

 軽く冗談めかした声。


「アイロンの入れ方。」

 亮一は視線を外さずに続ける。

「熱の通し方が均一だし、力も無駄に入ってない。」

「毛先までちゃんと計算されてる。」


 鏡子は少し照れたように笑った。ほんの一瞬だけ視線を逸らす。


「そんなに見られると、ちょっと恥ずかしいんだけど。」


「同業だからな。」

 亮一は肩をすくめる。


「俺も一通りはできる。」

「でも、その仕上がりは真似できない。」

「それがお前の技術だ。」


 ナラは鏡越しに二人を見る。二人の間に流れる空気を、静かに感じ取る。

 亮一が驚いているのではない。

 美容師としての鏡子を、心から認めている。

 そのことが嬉しかった。

 そして同時に、自分もその技術に委ねられているのだと実感し、胸の奥がじんと熱くなる。


 鏡子は静かに言う。

「……ありがとう。」


 それだけ言って、また髪へ向き合う。表情がすっと引き締まる。


 一本。

 また一本。

 焦らない。

 急がない。


 その丁寧な手つきに、ナラの不安は少しずつほどけていく。

 この人なら大丈夫だ――そんな確信が、静かに芽生えていた。

 窓から差し込む陽射しは、もう西日へ変わっていた。


 店内をオレンジ色に染めながら、

 時間だけがゆっくり流れていく。


◇ ◇ ◇


 最後の一束へアイロンを通し終える。

 鏡子は小さく息を吐いた。額にかかった前髪を指で払う。


「よし、ここまで。」

 続いて二剤を丁寧に塗布していく。

「今度は、この真っすぐな形を髪に覚えさせる工程ね。」


 ナラは何度も頷く。真剣な表情で鏡子の手元を見つめていた。

「一本の髪に、こんなに手間をかけるんだね……」


 その言葉には、驚きと同時に、どこか感動が滲んでいた。

 鏡子は柔らかく笑う。少しだけ目を細める。


「だからこそ、仕上がった時のお客様の笑顔が嬉しいの。」


 再び静かな時間が流れる。

 ナラはその言葉を胸の中で繰り返す。

 自分も、笑えるだろうか。

 鏡の中の自分を見て、心から――。

 期待が膨らむほどに、緊張もまた強くなる。

 店の外では、夕暮れの市場が少しずつ店じまいを始めていた。


 やがて二剤を流し終え、

 鏡子はタオルで髪を優しく包む。

 毛先を整え、

 最後に艶が出るよう丁寧にブローする。


 サラリ。


 鏡の前で、長い髪が音もなく揺れた。

 その音に、ナラの心臓が大きく跳ねる。思わず息を止める。

 鏡子はブラシを静かに置く。


「……お疲れさま。」


 ナラは鏡を見ないまま、小さく息を呑む。膝の上の手がわずかに震えていた。


 胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


 期待と不安が入り混じり、逃げ出したくなるような気持ちと、見たいという衝動がせめぎ合う。


「……ちょっと、怖い。」


 その一言に、鏡子は優しく微笑んだ。ナラの肩にそっと手を置く。


「大丈夫。」

「私はね――」


 少しだけ間を置いて、言葉を選ぶように続ける。


「お客様が笑顔になる瞬間を見るために、美容師になったの。」


 その言葉が、まっすぐに胸へ届く。

 ナラはゆっくりと息を吸う。目を閉じ、そして開く。

 逃げない、と心の中で小さく決める。

 そう言って、鏡子はゆっくりとナラの正面へ鏡を向けた――。


◇ ◇ ◇


 鏡がゆっくりとナラの正面へ向けられる。

 恐る恐る目を開いた。


「――え……。」

 鏡の中に映っていたのは、知らない誰かだった。


 艶やかに光を映す、真っすぐなロングヘア。肩から胸元へさらりと流れ、柔らかく頬を包み込む毛先に、思わず息を呑む。


「……これ、私……?」

 震える声で呟きながら鏡へ手を伸ばし、指先が髪に触れる。

「うそ……こんなに……。」

 さらりと、指の間を絹のような髪が滑り落ちた。


 何度も触れ、何度も鏡を見るうちに、目尻に涙が滲んでいく。


「私……こんなふうに……。」

 鏡子は隣で優しく微笑み、そっとナラの肩に手を添えた。

「どう? 気に入ってくれた?」

 ナラは涙をぬぐいながら、小さく笑う。

「……うん。すごく、嬉しい。ほんとに……ありがとう。」

 その一言を聞いて、鏡子も自然と笑顔になり、軽く頷いた。

「こちらこそ。任せてくれて、ありがとうね。」


 少し離れた場所で様子を見ていた亮一は、腕を組みながら静かに頷く。


「似合ってるな。もともと綺麗な髪だったし、クセが強くて隠れてただけだ。」

 ナラは視線を落とし、照れくさそうに笑った。

「そんな……言いすぎだよ。」

「いや、言いすぎじゃない。」

 亮一は間を置かず、真っ直ぐ答える。

「鏡子が、その良さをちゃんと引き出しただけだ。」

 鏡子は少し照れながら肩をすくめ、視線を逸らした。

「まあ、そういうこと。……さ、みんなを驚かせに行こうか。」


◇ ◇ ◇


 美容室の扉が開く。


 夕暮れの市場。


 外のざわめきが一瞬だけ止まり、買い物客や商人たちが、一斉に振り返った。


「……え? 誰だ、あの人。」

「ちょっと、すごく綺麗じゃない?」

 その女性が一歩踏み出した瞬間、一人の商人が目を丸くする。

「あれ……まさか、ナラか!?」

 市場中がどよめいた。

「嘘だろ! 別人みたいだぞ!」

「ナラが髪下ろしてるの、初めて見た!」

 子どもたちまで駆け寄ってくる。

「ナラお姉ちゃん! かわいいー!」

 ナラは少し照れながら笑い、軽く手を振った。

「もう、やめてよ……。」

 その笑顔を見て、市場の空気がさらに明るくなる。


年配の八百屋が腕を組み、嬉しそうに笑う。


「何驚いてんだ。ナラは元から別嬪だろ。髪で印象が変わっただけさ。」


 隣の魚屋も頷きながら、にやりと笑った。


「ほんとそれ。今まで気付かなかった俺らが鈍かったな。」


 すると、女性客たちが次々とナラのもとへ集まってくる。


「ナラ、本当に綺麗!」

「その髪、触ってもいい?」

「さらさら! 信じられない!」

「すごく似合ってる!」


 次々と褒められ、ナラは照れ笑いを浮かべる。


「もう、そんなに言われると恥ずかしいよ……。」


 一人の女性が目を輝かせながら尋ねた。


「ねぇ、その髪、どこでやってもらったの?」


 ナラは嬉しそうに振り返り、亮一の隣に立つ鏡子を見る。


「鏡子さんにやってもらったの。」


 その一言で、女性たちの視線が一斉に鏡子へ向いた。


「えっ、本当ですか!?」

「私もお願いしたい!」

「予約できますか?」

「私もこんな髪になりたい!」


 鏡子は一人ひとりへ笑顔を向ける。


「ありがとうございます。」

「順番にお話を聞かせてくださいね。」


 その様子を少し離れた場所から見ていた亮一は、肩をすくめて苦笑した。


「今日は完全に美容室の勝ちだな。」


 鏡子は振り返り、くすっと笑う。

「ふふ、たまにはいいでしょ?」


◇ ◇ ◇


「ナラ。」

 聞き慣れた声だった。


 ナラははっとして振り向くと、ルークが少し離れた場所に立っていた。


 一瞬だけ目を見開く。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 どうしてだろう。さっきまでの賑やかな声も、周囲のざわめきも、すべて遠くに押しやられていく。


 ただ、彼の姿だけが、はっきりと浮かび上がる。


「……すごいな。」

 飾らない、本音だった。


 その一言が、まっすぐに胸へ届く。


 ナラは照れ隠しに髪へ触れ、視線を少し逸らす。


 けれど、心の奥では、ずっと聞きたかった言葉を待っている自分に気づいてしまう。


「変……じゃない?」

 声がわずかに震えた。


 否定されるのが怖いのに、それでも確かめずにはいられない。


 ルークはゆっくり首を横に振り、一歩踏み出す。


「全然。」

 さらに距離を詰める。


 その足音が近づくたびに、鼓動が速くなる。


「前の髪型もナラらしくて好きだったけど……その髪も、すごく似合ってる。……綺麗だ。」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが、ふっとほどけた。


 ずっと、自分に自信が持てなかった。

 変わることが怖くて、踏み出せなかった。

 でも――今、彼の言葉が、確かに背中を押してくれている。


 ナラの頬が赤く染まり、思わず視線を落とした。

 けれど、もう逃げるような気持ちはなかった。


「……ありがとう。」

 その一言に、これまでの迷いや不安が、少しずつ溶けていく。


 ルークは少しだけ頭をかき、言葉を探すように息を整える。


「その……もしよかったら、今度……一緒に――」

 夕暮れの風が、二人の髪を優しく揺らした。


 その続きは、市場の賑わいに溶けて聞こえなかった。

 けれど。

 ナラはその言葉の意味を、ちゃんと受け取っていた。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 怖くない。

 もう、逃げなくていい。

 自分の気持ちに、正直でいい。


 ナラは嬉しそうに微笑み、小さく頷く。


 風が再び二人の髪を揺らす。

 夕日に照らされた真っすぐな髪が、やさしく光を受けてなびいた。


 今日からは、髪型だけじゃない。

 誰かにどう見られるかではなく、自分がどうありたいかを選んでいく。


 その一歩を、今、踏み出したのだと感じる。

 ナラは夕焼け空を見上げ、そっと微笑んだ。

カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。

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