第4話 疑惑の重さ
翌朝、ベグが烈を呼びに来た。
珍しいことだと思った。これまでは大尉が直接声をかけてきた。副官が使いに来るということは、大尉が何らかの理由で直接動けない状況か、あるいはベグ自身が烈と話したい理由を持っているかだ。
どちらにせよ、警戒が必要だった。
「大尉がお呼びです」とベグは言った。表情は読めない。軍人として鍛えられた顔だ。感情を乗せるのではなく、消す訓練を受けている顔だった。
「……わかりました」と烈は言った。
歩きながら、ベグの背中を見た。首の下。外套で隠れている。中は確認できない。
焦るな。まだ仮説だ。
天幕の前でベグが立ち止まった。「中にどうぞ」と言って、入ってこなかった。
烈は一瞬だけ振り返った。ベグの目と合った。何かを測っている目だ。昨日と同じ。ただし昨日より、その測り方が鋭くなっている。
気づかれているかもしれない。
烈は何も言わず、天幕に入った。
大尉は一人だった。
地図ではなく、羊皮紙の書状を手にしていた。読み終えて、机に伏せるところだった。烈が入ると顔を上げたが、いつもより表情が硬い。
「座れ」と言った。椅子を示した。
烈は座った。大尉が椅子を勧めるのは初めてだった。
「本部から通達が来た」と大尉は言った。「第二防衛線に増援を送れない。当面、現状維持で対処せよ、との内容だ」
「増援の理由は」
「北の第一防衛線が押されている。そちらに戦力を集中する判断らしい」
烈は地図を見た。頭の中で兵力の分布を組み替える。第一防衛線が危機ならば、本部の判断は一応筋が通っている。ただし、それで済む話ではない。
「第二防衛線が崩れれば、第一防衛線の側面が露出します」
「わかっている」と大尉は言った。疲れた声で。「本部にもそう伝えた。返答がこれだ」
書状を指先で叩く。
本部が機能していない。あるいは、誰かが意図的に判断を歪めている。
烈の頭に、内通者の可能性が重なった。第二防衛線の増援を送らないという判断は、ここを意図的に弱体化させることと同義だ。偶然か、それとも——
「もう一つ、聞きたいことがある」と大尉が言った。
烈は黙って待った。
「昨日の倉庫の件だ。お前はベグの名前を出した」
「出していません」と烈は言った。「輸送担当を聞いたら、大尉がベグだと言った」
「そうだな」大尉は認めた。「だが、お前が何を疑っているかは察した」
「仮説の段階です」
「その仮説を、俺に話せ」
烈はしばらく考えた。
話すべきかどうか、という問題ではない。大尉はすでに気づいている。問題は、どこまで話すかだ。証拠のない疑惑を全部並べれば、大尉はベグを即座に拘束するかもしれない。それが正しい判断かどうか、まだわからない。内通者がいるとすれば、拘束の動きを察知した瞬間に証拠を消す可能性がある。
「仮説には手がかりが三つあります」と烈は言った。「ただし、どれも証拠ではない」
「聞く」
「一つ。第三小隊の包囲が精度高すぎた。漏洩がなければ難しい正確さでした。二つ。補給路の遮断が、敵の侵攻とタイミングが合いすぎている。三つ、倉庫に最近人が入った痕跡がある」
大尉は動かなかった。
「これだけでは、ベグを名指しする根拠にはなりません」と烈は続けた。「別の誰かである可能性もある。あるいは偶然の一致の可能性も、まだ消えてはいません」
「だが」
「だが、確認する価値はあります」
大尉はしばらく天井を見ていた。
「ベグとは十二年の付き合いだ」とやがて言った。
「……あいつは」大尉の顔が一瞬歪んだ。
「俺の家に来たこともある。娘に剣を教えていた」
拳が机を叩いた。
烈は何も言わなかった。
「それでも疑えというのか」
「それでも確認しろと、お前は言うか」
「大尉が決めることです」と烈は答えた。「俺が言えるのは、確認しなかった場合のリスクだけです」
「言え」
「内通者がいるとして、その人物が今夜また動けば、敵は明日の夜明けに最適な攻撃ができます。増援が来ない今、この陣地が崩れれば——」と烈は止めた。続きは言わなくていい。大尉はわかっている。
天幕の外で風が鳴った。
「……方法はあるか」と大尉は低い声で言った。「ベグを疑わせずに、確認する方法が」
「あります」と烈は言った。
作戦は単純だった。……単純すぎるとも思った。
烈が大尉に、偽の情報を一つ伝える。その情報をベグだけが知り得る形で流す。翌朝、敵がその情報に反応した動きをすれば、漏洩が確定する。
問題は、その偽情報の内容だ。
敵が反応しやすく、かつこちらに致命的な損害を与えない内容でなければならない。
「明日の午前、東側に偵察を出すという情報はどうでしょう」と烈は提案した。「実際には出さない。ただしベグには、偵察の準備を頼む。もし敵が明日の朝、東側に何らかの迎撃準備を見せれば——」
「確定する……はずだ」と大尉は言った。
「はい」
「ただし東側の警戒は一時的に薄くなります」
「ベグが別の誰かに話した可能性は」
「ゼロではない。ただし、情報を持つ人間を絞れば、経路は必ず見えてきます」
大尉はまた長い沈黙に入った。
烈は待った。急かさない。これは大尉が自分で決めなければならない問題だ。十二年の付き合いを疑うことを、他人に急かされてやってはいけない。
「わかった」と大尉は言った。「やる」
声が、少し変わっていた。指揮官の声ではなく、疲れた人間の声だった。
「大尉」と烈は言った。
「何だ」
「仮説が外れることを、俺も願っています」
大尉は烈を見た。何かを測るでもなく、ただ見た。
「……お前は変わった男だな」と言った。昨日と同じ言葉だった。
「よく言われます」と烈は答えた。昨日と同じ答えで。
昼過ぎ、エルンが訓練場の端で烈を見つけた。
烈は一人で剣の素振りをしていた。ゆっくりと、確認するように。刻印を使わない動き方を、身体に覚えさせる作業だ
「教えてもらえますか」とエルンが言った。
「何を」
「剣を。俺の剣、まだ下手で」
烈は素振りを止めた。エルンの構えを見た。槍使いが無理に剣を持っているような、ぎこちない角度だ。
「槍の方が向いている」と言った。
「でも槍が折れたとき」
「折れたら逃げろ」
「逃げられないときは」
「そのときだけ剣を使え」烈は言った。「剣は最後の手段だ。それを前提に教える。いいか」
エルンは頷いた。
「まず構え。剣は盾ではない。防ごうとするな。当たらない場所に動け。動いた先から、最短で急所を取る。それだけだ」
「最短、というのは」
「相手の剣が届かない位置で、自分の剣が届く位置。その場所を、一歩で作れるかどうかが全てだ」
エルンが構えを変えた。ぎこちなさが少し減った。
「動いてみろ」と烈は言った。「俺は動かない。お前が一歩で、その場所を作れるかやってみろ」
エルンが踏み込んだ。速い。槍で鍛えた足腰は本物だ。ただし踏み込む方向が、やや外側すぎる。
「五センチ内側」と烈は言った。
「センチ?」
「センチ? 距離の単位ですか」
しまった。
「少しだけ内側。指一本分」と言い直した。「その分だけ角度が変われば、俺の右腕が届かなくなる」
エルンがもう一度踏み込んだ。
今度は正確だった。
「よし」と烈は言った。「その一歩を、眠っていても出せるまで繰り返せ。戦場では考える時間はない」
「レツはそれを、どうやって覚えたんですか」
「繰り返した」と烈は答えた。「ひたすら繰り返した。他に方法はない」
「何年くらい」
烈は少し考えた。「子供の頃からだ」
エルンは目を丸くした。「子供の頃から」
「だから急がなくていい」と烈は言った。「ただし毎日やれ。一日でも止めると、身体が忘れる。身体の記憶は、頭の記憶より正直だが、頭より早く消える」
エルンは真剣な顔でもう一度踏み込んだ。
烈はその動きを見ながら、別のことを考えていた。
この子が二十年後に生きているかどうか。
考えるべきではないと思った。でも止められなかった。気づけば、そういうことばかり考えていた。目の前の人間の未来を、常に考えてしまう。
夕方、ベグが東側の陣地を見回りに行った。
烈はそれを遠くから確認した。直接見張っているわけではない。ただ、野営地の動きを自然に把握する習慣として。
ベグが戻ってきたのは一時間後だった。大尉の天幕に入り、十分ほどして出てきた。
偽の偵察情報は、午前に大尉からベグに伝えられているはずだ。
あとは明日の朝を待つだけだ。
待つことは、烈は得意だった。好きではないが。
昔の訓練で、三日間泥の中で動かずにいたことがある。待つことは体力を消耗しない。消耗するのは、待ちながら考え続けることだ。
だから待つときは、考えることを整理する。
整理すべきこと。一。内通者の確認結果を待つ。二。増援なしでの防衛計画を立てる。三。リオをいつまでここに置くか決める。……順番はどうでもいい。
三番目が、一番答えが出ない問題だった。
戦場に子供を置いておくことは正しくない。でもリオを安全な場所に送るには、安全な場所が必要だ。今この陣地の後方に、安全と呼べる場所がどれだけあるか。
倉庫があった廃村は、すでに燃えている。
道は残っている、と言っていた。
道の先に、何がある。
考えながら歩いていると、リオがいた。
野営地の端、石の上に座って、西の空を見ていた。夕陽が落ちるところだった。橙と紫。あの夜と同じ色だと烈は思った。
「何を見ている」
「空」とリオは言った。「村が燃えた夜も、空はきれいだった。変だと思って」
烈は隣の石に腰を下ろした。
「変じゃない」と言った。「空は何も知らないから、きれいでいられる」
「知ったら、きれいじゃなくなるの?」
「知っても、きれいでいられる空もある」烈は言った。「ただ、見る側が変わる」
「どう変わるの」
「きれいだと思う気持ちに、何か別のものが混ざる」
「何が混ざるの」
烈は答えなかった。
悲しみ、と言おうとした。でも違う気がした。悲しみより、もう少し静かで、もう少し重いもの。
「大人になるとわかる」と言った。
リオは「ずるい答え」と言った。「知るって、守れないものが増えるってこと?」
「そうだな」と烈は認めた。
夕陽が稜線に触れた。影が長く伸びる。東側の稜線が暗くなり始める。松明が、そろそろ焚かれる時間だ。
「レツ」とリオが言った。
「何だ」
「ここ、長くいられないよね」
烈は少し驚いた。子供の口からそういう言葉が出るとは思っていなかった。
「なぜそう思う」
「だって、みんな怖い顔してるから。怖い顔の人たちが増えてるってことは、もっと怖いことが近づいてるってことでしょ」
子供の論理は、時として軍事分析より正確だ。
「正しい」と烈は言った。
「だから、どこか行かなきゃいけないと思って」
「どこに行きたい」
リオはしばらく考えた。「どこでもいい。ただ、レツと一緒がいい」
烈は答えに困った。
一緒に、とは言えない。烈には戦場がある。リオを戦場に連れてはいけない。でも「一緒には行けない」と言う言葉が、喉のところで止まった。
「もう少し待て」と烈はやがて言った。「行き先を、俺が探す」
「約束?」
「約束だ」
リオは頷いた。それ以上は聞かなかった。子供らしくない、と烈は思った。この三週間が、この子から何かを奪っていったのかもしれない。
夕陽が完全に落ちた。空が紺になる。
烈は立ち上がった。
深夜、烈は眠れなかった。
眠れない理由が、今夜は一つではなかった。
明日の朝の結果。リオの行き先。増援なしの防衛。そして——右腕の内側。
今日、エルンに剣を教えながら、刻印が反応した。使っていない。使う気もなかった。ただ、エルンの踏み込みに合わせて身体が自動で動こうとした瞬間、刻印が微かに熱を持った。
戦闘の予感を、刻印が先に感知する。
それが今夜は、静かな野営地の中で続いていた。
何かが近い。
烈は起き上がった。
外に出ると、夜気が冷たかった。星が出ている。
東側の稜線を見た。松明が規則正しく並んでいる。異常なし。
南を見た。異常なし。
北を見た。
そこで、烈は止まった。
北の方角。野営地の外れ、木立の影の中に、動くものがあった。人間の影。一人。
松明を持っていない。
夜中に、灯りなしで動く人間。
烈はゆっくりと、音を立てずに動き始めた。
影が木立の奥に消えた。烈は追った。草を踏む音を消しながら。二十年分の訓練が、身体に染みている。
木立の向こう。小さな空き地。
影が立っていた。
その向こうに、もう一つの影があった。
二つの影が、何かをやり取りしている。
暗くて顔は見えない。ただ、一方の影の動き方に、烈は見覚えがあった。副官として十二年を生きた、訓練された軍人の動き方。
ベグだ。
もう一方の影は、人間の形をしているが、動き方が違った。関節の曲がり方が、わずかにずれている。魔族の体型だ。
確認した。
仮説が、事実になった——そう見えた瞬間だった。
烈は息を止めた。
今ここで飛び出せば、魔族の一体を捕らえられるかもしれない。ベグも取り押さえられる。
ただし、一人では無理だ。
助けを呼べば、ベグに気づかれる。
右腕の内側が、熱を持ち始めた。刻印が、戦闘を感知している。使えば、二体同時に制圧できる可能性は高い。
でも——
寿命が削れる。どのくらい削れる。計算しろ。
烈の頭が、冷たく動いた。そう思い込もうとした。
魔族一体、副官一名。刻印を二画分使えば確実だ。刻印を二画分使えば、前回の経験から推算して——数年単位。
数年。
烈は奥歯を噛んだ。
他の方法を探せ。まだ間に合う。失敗すれば、この陣地は終わる。
ベグと魔族のやり取りが、終わろうとしていた。魔族の影が、木立の外の方向、北へ向かおうとしている。
逃がせば、情報が敵に渡る。
一秒。
烈は決断した。
刻印は使わない。
代わりに、石を一つ拾った。指先がわずかに滑った。木立の反対側、南の方向へ向けて、力いっぱい投げた。
乾いた音が響いた。
ベグと魔族が、南を向いた。
その瞬間に、烈は走った。
刻印なしで。
二十年分の身体能力だけで。
魔族に体当たりする寸前、烈は肘を顔面に叩き込んだ。魔族が体勢を崩す。ベグが叫ぼうとした。
「声を上げたら、俺はお前を殺す」と烈は囁いた。ベグの耳元で、ひどく静かに。脅しではなく、事実として言った。「上げなければ、大尉に話す機会を与える。選べ」
一秒の沈黙。
ベグは声を上げなかった。
魔族が立ち上がろうとした。烈は膝で制した。刻印なしの力だ。でも間に合った。
「大声で、エルンを呼べ」と烈はベグに言った。「お前の声で呼べ。変なことを言えば——わかるな」
ベグは、長い息を吐いた。
それから「エルン」と呼んだ。かすれた声で。
エルンが来るまで、三十秒かかった。
状況を見て、エルンは固まった。呼吸が一瞬止まっていた。
「縛れ」と烈は言った。「魔族を先に。ベグさんは—— 縄は要らない。ここから動かないなら」
エルンが動き始めた。震えながら、それでも手は止まらなかった。
烈はベグを見た。
「なぜ」とだけ聞いた。
ベグはしばらく黙っていた。
「家族が、向こうに捕まっている」と言った。その言葉は、少し遅れて出てきたように聞こえた。
ベグの声は、かすれていた。
「三年前だ。最初は一人だった。妻だけだった」
「次に娘が消えた」
「最後に——息子がいなくなった」
「全部、俺の目の前からだ」
ベグは笑った。音のない笑いだった。
「俺は副官だ。陣地の守りは任されている」
「だから敵は、順番に奪っていった」
烈は何も言わなかった。
言えることが、何もなかった。
正しいとも、間違っているとも言えない。家族を人質に取られた人間に、忠誠を求めることができるか。烈にはわからない。わかる立場にない。
「大尉に話せ」と烈は言った。「全部。俺が横にいる」
「……殺されるかもしれない」
「かもしれない」と烈は正直に言った。「でも話さなければ、確実にそうなる。話せば、可能性がある」
ベグは烈を見た。
「お前は、なぜそこまでする」
烈は少し考えた。
「全員生かして帰したいからだ」と言った。「できるかどうかは、まだわからないが」
ベグはしばらく烈を見ていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。
自分の足で、大尉の天幕に向かった。
烈はその背中を見ながら、右腕の内側を確認した。
熱は、引いていた。
刻印を使わなかった。今夜は、使わずに済んだ。
白髪は、増えていない。
それだけを確認して、烈は星を見上げた。
全員生かして帰す。
ベグが含まれるかどうかは、まだわからない。
でも今夜は、可能性を残した。それで十分だと、思うしかなかった。




