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第5話 裁きの形

 大尉の天幕に、四人がいた。


 大尉、ベグ、烈、エルン。


 エルンを残したのは烈の判断だった。証人が必要だと思ったからではない。この夜に何が起きたかを、若い人間に見せておく必要があると思ったからだ。将来、同じ判断を迫られるかもしれないからだ。戦場の判断は、剣の動かし方より複雑だ。その複雑さは、早いうちに知っておいた方がいい。


 縛られた魔族は外に置いてある。見張りはエルンが呼んだ兵士二人に任せた。信頼できる兵だ。


 天幕の中は静かだった。


 焚火がない分、外より寒かった。ランタンが一つだけ、机の上で揺れている。


 ベグは立っていた。座れとも言われず、自分から座ろうともしなかった。軍人の姿勢だ。裁かれる側の姿勢ではない。それが烈には、何かを物語っているように見えた。


 「話せ」と大尉が言った。


 声に感情がなかった。感情を押し込めた声と、感情のない声は違う。大尉の声は後者だった。まだ、感情の処理が追いついていない。


 ベグが話し始めた。


 三年前。第三小隊ではなく、別の部隊にいた頃。北方への偵察任務で、ベグの妻と娘が住む村が魔族に占領された。奪還作戦は一度試みられたが、失敗した。二度目はなかった。本部の判断として、その村は「放棄」された。


 「放棄」という言葉を、ベグは平坦な声で言った。


 一年後、ベグのもとに接触があった。妻と娘は生きている。協力すれば、返す。そう言われた。


 「断れなかった」とベグは言った。

 少し遅れて、「……断り方が、わからなかった」


 大尉は動かなかった。


 烈は天幕の布を見ていた。ランタンの光が、布に影を作っている。


 「何を流した」と大尉が聞いた。

 「部隊の位置。兵力の数。補給の状況」ベグは一つ一つ、机に置くように言った。「第三小隊の斥候ルートも、俺が流した」


 天幕の中の空気が変わった。


 エルンが、喉を鳴らすように息を呑んだ。第三小隊、全滅。その原因が、今目の前にいる。


 烈は動かなかった。


 「補給路を止めたのも」と大尉が言った。

 「止めるよう言われた。止めなければ、娘を——」ベグは止まった。「止めた」


 沈黙が続いた。


 「今夜、魔族に何を渡した」と烈が聞いた。

 ベグが烈を見た。「明日の偵察情報を」

 「偽の情報だ」と烈は言った。「大尉と俺が、お前を確認するために作った話だ」


 ベグの顔が、わずかに歪んだ。驚きというより、確認、という動きだった。


 「だから今夜、魔族が来たのか」ベグは小さく息を吐いた。

 「そうだ」


 ベグはしばらく何も言わなかった。それからゆっくりと、「うまいな」と言った。褒めているのか、呆れているのか、判断できない声で。


 「うまくなければ、確認できなかった」と烈は答えた。

 「処分を決めなければならない」と大尉が言った。

 わずかに息が混じった。


 誰にともなく言った言葉だった。でも天幕の全員に向けた言葉でもあった。


 軍律では、内通は死罪だ。この世界でも、おそらく変わらない。情報を敵に流し、仲間を死なせた。第三小隊の十四人が、その結果だ。


 「大尉」と烈は言った。

 「なんだ」

 「一つ、提案がある」

 大尉が烈を見た。「また提案か」

 「俺にできることは提案だけなので」


 エルンが、微かに何かをこらえる気配を見せた。状況に似合わない、という判断だろう。烈もそう思った。でも止められなかった。


 「聞く」と大尉は言った。

 「ベグさんの家族が、魔族の支配下にある村にいる。その村の位置を、ベグさんは知っているはずです。その情報を、今すぐ俺に教えてもらいたい」


 天幕の中が静かになった。


 「なぜ」と大尉が聞いた。

 「使える可能性があるからです。将来的に。今すぐではない」

 「家族を取り戻す計画があるのか」

 「まだない」と烈は正直に言った。「ただ、情報があれば計画を立てられる。情報がなければ、計画の立てようがない」


 大尉はベグを見た。ベグは烈を見ていた。


 「なぜそこまでする」とベグが言った。今夜、二度目の同じ問いだ。

 「さっきも言った。全員生かして帰したい」

 「俺は裏切り者だ」

 「知っている」と烈は言った。「それでも、だ」


 ベグはしばらく烈を見ていた。


 ランタンの炎が、小さく揺れた。


 「北東に三日。……廃坑の集落だ」とベグは言った。「魔族の小規模拠点を兼ねている。守りは薄い。妻と娘は地下に囲われていると聞いた」


 烈は頭に刻んだ。地図と照合する。北東三日、廃坑。


 「ありがとう」と烈は言った。


 ベグは何も言わなかった。


 処分の話に戻った。


 大尉は長い間、机を見ていた。ランタンの影が、顔の半分を隠している。


 「軍律では死罪だ」と大尉は言った。「それは変えられない」

 「……本当なら、今すぐ撃ちたい」

 大尉は低く言った。「第三小隊は、俺の部下だった」


 ベグは頷いた。予想していた、という頷き方だった。


 「ただし」と大尉は続けた。「執行の時期は、俺が決める」


 天幕の中の空気が変わった。


 「増援が来ない今、お前の戦力は必要だ。それは事実だ」大尉はベグを見た。「お前に残りの時間を与える。その間に、できることをやれ。敵に二重に情報を流すことも、逃げることも、今夜以降は許さない。逃げれば、家族の情報も消える。わかるな」

 「……わかります」とベグは言った。

 「それからもう一つ」大尉の声が、少し変わった。「お前の家族を取り戻す。約束はできない。できるかどうかも、今はわからない。ただ、俺はそれを試みる」


 ベグが大尉を見た。


 十二年間、共に戦った二人の視線が、ランタンの光の中で交差した。


 烈はその場所を見ないようにした。見てはいけない気がしたから。


 「……ありがとうございます」とベグが言った。

 「……あいつらに、顔向けできない」

 ベグは机を握った。「それでも、生きていいのか」


 声が、初めて崩れた。軍人の声ではなく、疲れた人間の声になった。


 大尉は何も言わなかった。それが答えだった。


 天幕を出ると、夜気が冷たかった。


 エルンが烈の隣を歩いた。しばらく二人とも何も言わなかった。


 「第三小隊の人たちは」とエルンがやがて言った。「ベグさんのせいで死んだ」

 「そうだ」

 「それでも、助けるんですか」

 「助けようとする、だ」と烈は言った。「できるかどうかはわからない。ただ、試みる価値はある」

 「なぜですか」エルンの声に、怒りがあった。抑えた怒りだ。「死んだ人たちは、戻ってこない。なのに、裏切った人を助けようとするのは——」

 「正しくないと思うか」

 「思います」とエルンは言った。「思いますが——」そこで詰まった。

 「でも、腑に落ちないところもある」と烈は言った。代わりに。


 エルンが烈を見た。


 「ベグさんを単純に悪人にした方が、楽だ。楽な方が、次に動きやすい。でも楽な答えが正しいとは限らない」

 「じゃあ正しい答えは何ですか」

 「今夜は、ない」

 烈は少し黙った。

 「……たぶん、ない」

 「ない答えを無理に作ると、嘘になる」


 烈は一度言葉を切った。


 「……嘘で動くと、いつか人が死ぬ」


 エルンは黙った。


 「怒っていい」と烈は言った。「怒りは正しい。ただ、怒りだけで判断するな。それだけだ」

 エルンはしばらく歩いてから、「難しいです」と言った。

 「難しい」と烈は同意した。「二十年経っても難しい」

 「でも……逃げるよりは、向き合う方がいい気がします」

 「二十年経ってもですか」

 「経ってもだ。慣れるものじゃない。ただ、難しいと知っていれば、少し丁寧に考えられる」


 エルンは何も言わなかった。でも黙り方が、さっきとは違った。怒りの黙り方ではなく、考えている黙り方だった。


 烈はそれで十分だと思った。


 夜明け前。ほとんど眠らずに、烈は縛られた魔族の前に立った。


 見張りの二人に少し離れるよう頼み、一対一になった。


 魔族は座っていた。縛られているが、暴れようとしていない。烈を見上げている。眼が、人間とは違う色をしている。金に近い、琥珀色。


 「言葉はわかるか」と烈は現地語で言った。


 魔族は答えなかった。


 「わかるはずだ。さっきベグと話していた言葉は現地語だった」


 沈黙。


 「お前を殺すつもりはない」と烈は言った。「情報が欲しい。お前が持っている情報と、俺が持っている情報を交換する。取引だ」


 魔族がわずかに動いた。


 「交換できるものを、俺は持っていないと思っているだろう」と烈は続けた。「持っている。お前の仲間の位置だ。昨夜、北へ逃げた。あの速度と方向なら、今頃どこにいるか、俺にはわかる」


 これは嘘だ。

 ……わからない。

 外れれば、交渉は終わる。


 ただし、魔族にはわからない。わかるかどうかを試している。


 魔族の眼が、わずかに揺れた。


 反応した。


 「取引に応じるなら頷け」と烈は言った。「応じないなら、今夜のうちに大尉が判断を下す。その判断がどういうものになるか、お前の方が知っているだろう」


 長い沈黙。


 魔族がゆっくりと、頷いた。


 烈は地面に膝をついた。魔族と同じ目線になった。


 「名前は」

 「……ヴァルク」と魔族は言った。低い声だった。

 「俺はレツだ」と烈は言った。「ヴァルク、一つだけ聞く。ベグの家族を囲っている廃坑の拠点、今も使っているか」


 ヴァルクは烈を見た。長い間、見ていた。


 「使っている」とやがて言った。「ただし——」

 「ただし?」

 「来月、移す予定だ。人質を別の場所へ」

 「人質は便利だ。お前たちも、同じことをしているだろう」


 烈の頭が動いた。


 来月。今から数えて、三十日以内。


 「なぜ移す」

 「上から命令が来た。人質を分散させろ、と」

 「分散? どこへ」

 「それは知らない」ヴァルクは言った。「俺の階層には、知らせない情報だ」


 烈は頷いた。


 嘘をついているかどうかは、今の段階ではわからない。でも「来月移す」という情報の緊迫感は、本物のように見えた。嘘に緊迫感を乗せるのは、難しい。


 「ありがとう」と烈は言った。

 ヴァルクが烈を見た。「礼を言うのか」

 「情報をくれた。礼を言うのは当然だ」

 「俺は魔族だ」

 「知っている」と烈は言った。「関係ない」


 ヴァルクはしばらく烈を見ていた。琥珀色の眼が、何かを計算しているように動いた。


 「お前は変わった人間だな」とヴァルクは言った。

 「よく言われる」と烈は答えた。


 立ち上がって、見張りを呼び戻した。


 夜明けが来た。


 烈は大尉の天幕に向かった。ヴァルクから得た情報を伝えるためだ。


 天幕に入ると、大尉とベグが向かい合って座っていた。話していた気配がある。何を話していたかは聞かない。


 「来月、人質が移される」と烈は言った。前置きなしで。


 大尉が顔を上げた。


 「どこから」

 「魔族から聞いた」

 ベグの顔が変わった。「魔族と話したのか」

 「取引した」

 「何を——」

 「こちらの情報は何も渡していない。嘘の情報で釣った」烈は言った。「廃坑の拠点、来月中に人質を移すそうだ。移し先は不明。つまり、動けるとすれば今月中だ」


 天幕の中が静かになった。


 「今月中に、北東三日の廃坑へ」と大尉はゆっくり言った。「この状況で」

 「難しい」と烈は言った。「でも不可能ではない。小規模の精鋭を出せれば」

 「何人必要だ」

 烈は考えた。「五人」

 「五人で廃坑の拠点を崩すのか」

 「崩しません。入って、出るだけです。守りが薄いという情報が正しければ」

 「正しくなければ」

 「その場合の対策も、出発前に立てます」


 大尉はベグを見た。ベグは俯いていた。


 「ベグ」と大尉が言った。

 「……はい」

 「お前も行くか」


 ベグが顔を上げた。


 「俺が」

 「お前が一番、その場所を知っている。地形も、守りの配置も」大尉は言った。「ただし強制はしない。お前が決めろ」


 ベグはしばらく俯いた。


 烈は何も言わなかった。これも、待つべき場面だ。


 「行きます」とベグは言った。


 声が、今夜で三度変わった。軍人の声でも、疲れた人間の声でもなく、何かを決めた人間の声だった。


 「わかった」と大尉は言った。「準備に三日かける。出発は四日後だ」


 烈は頷いた。


 四日。その間に、防衛の穴を塞ぎ、増援なしで持ちこたえる体制を整え、五人の精鋭を選ぶ。


 やることが、また増えた。


 増える一方だ。


 烈は少し可笑しくなった。笑いはしなかったが。


 その日の夕方、リオが烈を見つけた。


 「また考えてる顔してる」とリオは言った。

 「考えることが増えた」

 「増えたの? 減らせないの?」

 「減らし方がわからない」

 リオは足元の小石を蹴ってから、少し考えて、「じゃあ今日だけでも、考えるのやめたら」と言った。

 「やめたら、明日困る」

 「明日困ったら、明日考えればいい」


 烈はリオを見た。


 「お前は哲学者か」

 「てつがく?」

 「賢いやつのことだ」

 リオは「ふうん」と言った。嬉しそうでも嬉しくなさそうでもない顔で。「でも今日だけ、でしょ。明日からまた考えればいい」


 烈はしばらくリオを見ていた。


 「わかった」と言った。「今夜だけ」


 リオは頷いた。満足した顔で。


 夕陽が落ちていく。橙が紺に溶けていく。


 烈は今夜だけ、計算を止めた。


 右腕の内側も、確認しなかった。


 星が一つ、出た。アルデニアの空の、まだ名前を知らない星が。


 そのうち覚える。


 烈はそう思った。

 急がなくていい。

 ……今夜だけは。

 

 答えはまだない。だが、探し続けることだけはやめない。

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