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第3話 南回りの代償

 夜明けの三十分前、エルンが来た。


 約束を守る人間だ、と烈は思った。約束を守れる人間は、戦場では希少種だ。疲弊と恐怖は約束を溶かす。それでも来たということは、この若者には芯がある。


 「歩くぞ」と烈は言った。挨拶も抜きで。


 エルンは頷いた。それだけで十分だった。


 野営地の外周を歩き始める。夜明け前の空気は冷たく、草に霜が降りていた。足音を聞きながら烈は話した。講義ではなく、独り言のように。


 「地図を見るとき、何を最初に確認する」

 「敵の位置、ですか」

 「違う」


 エルンが黙る。


 「水だ」と烈は言った。「川、井戸、湿地。水のある場所がわかれば、人が動ける場所が見える。そこが見えれば、敵がどこから来るかも読める」

 「水から、敵の動きが」

 「人間は水なしでは三日しか生きられない。軍隊も同じだ。どんな大軍も、水を無視して動けない。つまり水源を押さえた側が、戦場の形を決める」


 霜を踏む音が二つ、リズムを刻む。


 「昨夜の補給線の話ですが」とエルンが言った。「南の迂回路を使うと、東側が薄くなると言っていた。それは怖くないんですか」

 「怖い」と烈は即答した。


 エルンがわずかに驚いた。


 「怖くないと言う指揮官は信用するな。怖いと知った上で動く指揮官を選べ。これは覚えておけ」

 「……怖いのに、なぜ動けるんですか」

 「怖さを計算に入れるからだ。怖い、ということは——まあ、碌なことじゃない。リスクがあるということは、対策が必要だということだ。怖いと感じた瞬間から、対策が始まる」


 東の空が、わずかに白くなり始めていた。


 朝の報告が上がった頃、烈は大尉の天幕に呼ばれた。


 今日は副官のベグも同席していた。昨日より険しい顔をしている。地図の上に、新しい書き込みがいくつかあった。


 「南の迂回路の件だ」と大尉が言った。「斥候を出した。お前の言う通り、道は使える状態だった」

 「では」

 「ただし」ベグが割り込んだ。「その道を使うには、荷馬車で半日かかる。その間、東側の守りが手薄になる。昨夜の斥候を退けたとはいえ、敵がまた来ないとは限らない」

 「来ません」と烈は言った。少なくとも、今夜は。

 「断言できる根拠は……あるのか」

 「昨夜の退き方です。二名を失って即座に撤退した。これは損害を嫌う動き方です。もし今夜また来るなら、昨夜はもっと粘るはずだった。少なくとも今日の日暮れまでは、次の行動を準備する時間に使うはずです」

 ベグは腕を組んだ。「もし読みが外れたら」

 「その場合の対策も提案できます」

 「聞こう」

 「東側には十五人いるように見せる。弓兵を八人、槍兵を七人。ただし実際には全員を配置せず、松明だけを多く焚いて人数を多く見せる。本物の守備は八人で十分です。残りの七人を補給護衛に回す」


 天幕の中が静かになった。


 大尉が地図を見ていた。指で南の迂回路をなぞる。昨日と同じ仕草だ。考えているときの癖らしい。


 「……松明で欺くのは」ベグが言った。「敵が近づいて確認すれば」

 「確認しに来た段階で、弓兵が撃てます。昨夜の実績があるので、敵は慎重になっているはずです。慎重な敵は、松明の数を見て引き返す可能性が高い」

 「可能性が高い、か」ベグは繰り返した。確信ではない、という指摘として。

 「戦場に確実はありません」と烈は言った。「あるとすれば、何もしなければ四日後に食料が尽きることだけです」


 大尉が顔を上げた。


 「やる」と言った。「ベグ、準備しろ」


 ベグは一瞬だけ烈を見た。何かを測るような目だった。それから「わかりました」と言って天幕を出た。


 補給隊が出発したのは昼前だった。


 荷馬車三台、護衛十二人。烈は見送る立場だったが、出発の直前に大尉から声をかけられた。


 「お前も行け」

 「俺は前線担当では」

 「補給路の安全を確認してこい」大尉は言った。「道を提案した本人が一番よく見えるだろう」


 断る理由を探した。


 また、見つからなかった。


 「わかりました」


 荷馬車の列の後ろに、烈とエルンが並んで歩いた。エルンは補給護衛の一人として名前が入っていた。本人は知らなかったようで、少し驚いていた。


 「俺が原因かもしれない」と烈は言った。

 「いえ、光栄です」とエルンは言った。即答だった。


 光栄、という言葉を烈はしばらく反芻した。久しぶりに聞いた響きだった。あちらでは使わない言葉だ。でも悪くない響きだと思った。


 南の迂回路は、地図が示すより細かった。


 荷馬車が通れるぎりぎりの幅。両側に低木の藪が続く。視界が限られる、典型的な伏撃に向いた地形だ。


 烈は歩きながら、視線を動かし続けた。


 藪の揺れ方。鳥の声の有無。地面の窪み。踏み荒らされた痕跡の有無。


 今のところ、問題なし。


 だが、三十分ほど進んだところで、烈は立ち止まった。


 「どうしました」とエルンが言った。

 「鳥がいない」「音が消えてる」


 エルンが周囲を見た。「確かに……さっきまでいたのに」


 「止まれ」と烈は荷馬車の御者に向けて言った。声を抑えつつ、確実に届く音量で。


 列が止まる。


 護衛の兵士たちが顔を見合わせた。烈は藪の右側を見た。風がないのに、藪の一部だけが不自然に揺れている。


 そこだ。


 「右の藪、全員距離を取れ。左に寄れ」


 言い終わる前に、藪から何かが飛び出した。


 人間ではなかった。


 四足で走る、灰色の獣。狼に似ているが、肩の高さが人間の腰ほどある、大型の個体。眼が、燃えるように赤い。


 魔獣、と烈の頭が分類した。兵士たちから聞いていた。魔族が使役する斥候獣。単独では弱いが、群れると厄介だと。


 単独かどうか、確認する時間はなかった。その場で判断するしかなかった。


 獣が烈に向かって跳んだ。


 計算が走る。重量、速度、跳躍の弧。着地点は俺の右肩。


 烈は右に半歩動いた。獣の爪が空を切る。着地した瞬間に、烈は剣を抜いた。


 正確に、一撃で。


 首の付け根、急所。


 獣が倒れた。


 一拍遅れて、誰かが息を吐いた。張り詰めていた空気が、そこでようやく緩む。烈は自分の呼吸がわずかに速くなっていることに気づいた。


 「周囲を確認しろ」と烈は兵士たちに言った。剣を拭きながら。「単独かどうか、まず確かめる」


 兵士たちが動く。三十秒の沈黙。


 「単独のようです」と一人が報告した。……確証はありませんが。

 「進む」と烈は言った。「ただし速度を上げろ。この場所に長くいる理由はない」


 エルンが烈の隣を歩きながら、しばらく黙っていた。


 やがて「今の動き」と言った。「人間の速さじゃなかった」


 烈は前を向いたまま答えなかった。


 「刻印、使いましたか」

 「使っていない」と烈は言った。嘘ではなかった。刻印は使っていない。ただ——右腕の内側が、かすかに熱を持っていた。使おうとした瞬間があったことは、否定できない。

 「でも」

 「エルン」と烈は言った。「見たことと、知っていることは別だ。見た、と思ったことが、必ずしも正しいとは限らない」

 「……それは、教えてくれないということですか」

 「今は、そうだ」


 エルンは黙った。不満そうではなかった。納得はしていないが、受け入れた、という沈黙だ。


 賢い子だ。そして、危うい。


 烈は前を向き続けた。ほんの一瞬だけ、視線が揺れた。


 刻印のことは、まだ誰にも話せない。話せば、使うことを期待される。期待されれば、使わざるを得ない場面が増える。増えれば、消費が増える。


 それは困る。いや、困るで済めばいいが。


 シンプルな計算だ。……そういうことにしている。——そう思っている方が、都合がいい。


 そう、烈は自分に言い聞かせた。


 補給地点は、南の村の廃墟だった。


 リオが言っていた通り、村は燃えていた。残っているのは石造りの倉庫だけ。そこに同盟軍の補給物資が備蓄されていた。輸送が途絶えていただけで、物資自体はあった。


 食料、矢、包帯、替えの革鎧。


 「これだけあれば十日は持つ」と護衛の兵士の一人が言った。安堵した声で。


 烈は倉庫の中を見回した。


 物資の量は確かに十分だ。だが気になることがあった。備蓄の積み方が、いくつか場所によって乱れている。誰かが最近、荷物を動かした痕跡だ。


 「この倉庫に、最後に誰かが来たのはいつだ」


 護衛の一人が「二週間前に補給部隊が来たはずですが」と答えた。


 「二週間前より最近の痕跡がある」


 沈黙。


 「魔族が入ったということですか」とエルンが言った。

 「人間が入った痕跡だ」と烈は言った。「魔族ならもっと荒らす。これは、必要な分だけ取って、残りを残した動き方だ」

 「味方の崩れた部隊が」

 「あるいは」と烈は言った。そこで止めた。


 言葉の先に、F-005の可能性がある。内通者。同盟軍の内部から敵に情報を流している誰か。その誰かが、ここで物資を取り、その代わりに何かを渡した可能性。


 まだ証拠がない。証拠のないことを言えば、疑心暗鬼が広がる。疑心暗鬼は、外からの攻撃より早く部隊を壊滅させる。


 「あるいは、なんですか」とエルンが聞いた。

 「確認してから話す」と烈は言った。証拠のない疑いは、刃よりも早く人を壊す。「今は物資を積んで戻ることだけ考えろ」


 帰路は行きより速かった。


 物資を積んだ荷馬車は重く、速度は落ちたが、全員の足取りは軽くなっていた。食料があるということは、明日がある、ということだ。人間の精神は単純で、それで十分に変わる。


 野営地に戻ったのは日が傾き始めた頃だった。


 東側の稜線は静かだった。松明の罠は機能している。烈は稜線を一瞥して、大尉の天幕に向かった。


 報告は簡潔にした。物資の確保、魔獣との遭遇、倉庫の痕跡。


 大尉は最後の報告を聞いて、眉を寄せた。


 「倉庫に誰かが入った」

 「はい。最近、二週間以内に」

 「それは」

 「まだわかりません」と烈は言った。「ただ、補給路が途絶えた理由と関係している可能性があります。輸送部隊が来なかったのは、道が危険だからだと思っていた。でも物資は倉庫にあった。誰かが意図的に、輸送を止めた可能性があります」


 大尉の顔が変わった。


 「……それは」

 「確認が必要です。まず輸送部隊の担当者と話したい」

 「担当はベグだ」

 「……ただし、単独ではないがな」


 烈は何も言わなかった。言う必要がない。


 大尉も何も言わなかった。沈黙が、二人の間で重くなった。


 「わかった」と大尉はやがて言った。「調べる。ただし、静かに」

 「それが正しいと思います」

 「お前はどこまで読んでいる」


 烈はしばらく考えた。


 「まだ仮説の段階です。ただ、仮説が正しければ、この部隊の中に問題があります。外の敵より、内の問題の方が先に対処が必要になるかもしれない」

 「……厄介なことを言う」

 「厄介なことが、現実です」と烈は言った。「都合の良い現実は、たいてい誰かが作った嘘です」


 大尉は長い息を吐いた。疲れた音だった。でも諦めた音ではなかった。


 「今夜は休め、レツ。明日、また話す」

 「はい」と烈は言って、天幕を出た。


 夜、焚火の前でリオが待っていた。


 一日中、野営地の中で大人しくしていたらしい。食料も配給されていた。顔色が昨日より良い。


 「おかえり」とリオは言った。

 「ただいま」と烈は答えた。


 日本語で言いかけて、現地の言葉に直した。でもリオには通じた。言葉より、声の調子で伝わったのかもしれない。


 「何かあった?」とリオが聞いた。

 「色々あった」

 「大変だった?」

 「大変だった」

 「でも、帰ってきたね」

 「帰ってきた」と烈は繰り返した。


 焚火を見つめた。炎が揺れている。風が出てきたらしい。


 「リオ」と烈は言った。「村が燃える前、村に変な人は来ていなかったか。知らない人間が、夜に来るとか、物をこっそり運ぶとか」


 リオが黙った。


 長い沈黙だった。子供の沈黙は、大人のそれより正直だ。何も知らなければ、すぐに「知らない」と言う。沈黙は、何かを知っているということだ。


 「……一人いた」とリオはやがて言った。「兵士の格好をした人。でも村の人は知らない人。夜中に来て、朝には消えてた」

 「何回くらい」

 「三回。村が燃える前の月に」

 「顔は覚えているか」

 「暗かったから……でも」リオは考えた。「背中に、傷があった。首の下のところ。大きい傷」

 「あと……鉄みたいな匂いがした」


 烈は頷いた。


 「よく教えてくれた」

 「役に立った?」

 「立った」


 リオは少し誇らしげな顔をした。それからまたすぐに、子供の顔に戻った。「眠い」と言った。


 「寝ていい」と烈は言った。「俺が見ている」

 「今夜も眠れないの?」

 「今夜は、少し眠れるかもしれない」

 「なんで」

 「やることが、整理できたから」と烈は答えた。

 リオは「ふうん」と言って、外套を引き寄せて横になった。すぐに、規則正しい寝息を立て始めた。


 子供の眠りは正直だ。安全だと感じれば、すぐに眠れる。


 この子に、安全だと思わせている場所が、ここでいいのか。


 烈は焚火を見ながら思った。


 内通者の可能性がある部隊の中で、子供を寝かせている。それは正しいのか。


 正しくないかもしれない。でも今夜、他に選択肢はない。


 首の下に、大きな傷を持つ人間。それがベグなのか別の誰かなのか、まだわからない。でも手がかりは一つ増えた。


 増えた手がかりと、増えた守るべき人間。


 右腕の内側が、また静かに温かくなった。


 今夜は見なかった。


 焚火の向こうで、エルンが見張りに立っていた。烈と目が合うと、小さく頷いた。


 烈も頷いた。


 言葉はいらなかった。——だが、言わなかった言葉の方が多すぎる。

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