第2話 提案という名の侵略
夜明けの一時間前、烈は目を覚ました。
眠った覚えがない。だが身体は六時間分の休息を主張していた。おそらく意識を失っていたのだろう。眠りと気絶の境界は、極限では曖昧になる。自衛隊の教範にはそう書いていない。でも烈は経験から知っていた。
焚火は落ちていた。
見張りの若い兵士が、壁に寄りかかって舟を漕いでいる。責める気にはなれなかった。交代で見張るべき相手が、全員限界だったのだろう。烈は音を立てずに立ち上がり、外に出た。無意識に右手で地面を払っていた。砂がついていないか確かめる癖だ。
空が白みはじめていた。
東の稜線の向こうに、藍色と白が滲んでいる。あと四十分もすれば完全に明るくなる。烈は西の方角を見た。昨夜、松明が動いていた方角。今は何も見えない。静かだ。
静かすぎる、と思った。理由は説明できないが、落ち着かなかった。
敵の斥候は、昨夜俺たちを見つけられなかった。ただしこちらが見つからなかったことは、まだ敵に確定していない。つまり今夜また来る。あるいは今朝。
計算が勝手に始まる。これも職業病だ。
「眠れませんでしたか」
声がして振り返ると、昨夜烈を案内した若い兵士が立っていた。槍を持った方ではなく、松明を持っていた方。名前を聞いていなかった。
「眠った。お前はどうだ?」
「少しだけ眠った」
嘘だとわかったが、指摘しなかった。
「名前は」
「エルン、です。エルン・ダハ。徴兵で半年前に」
「エルン」と烈は繰り返した。「大尉はどこにいる」
「本陣まで三キロほどです。馬があります」
「案内してくれるか」
エルンは一瞬だけ迷った。その迷いが何なのか、烈にはわかった。命令系統の問題だ。自分はこの人物の部下ではない。指示に従う義務はない。しかし——
「わかりました」とエルンは言った。「……リオは?」
「まだ寝ている。一人の兵士に頼んで見ていてもらう。子供を戦場に連れていくわけにはいかない」
エルンは頷いた。それから、少し躊躇ってから言った。
「大尉は……話を聞く人ではないかもしれません」
「そうか」と烈は答えた。「聞かせる方法を考えればいい」そう言いながら、わずかに気が重かった。
馬で三キロを十数分で走った。
本陣と呼ぶには貧しい野営地だった。天幕が十数張り、兵士が三百人前後。防衛線というよりは、敗走の途中で力尽きて止まった集団に見えた。
兵士たちの目が烈を追った。
見慣れない顔だからだろう、と最初は思った。違うと気づいたのは、三人目の視線を受けたときだ。彼らは烈の顔ではなく、装備を見ていた。第三小隊の紋章が入った革帯。
全滅したはずの部隊の生き残り、ということが伝わっているらしい。
噂は軍隊の中で異常な速度で広がる。これは地球でも異世界でも変わらない。
ホーウェン大尉の天幕は中央にあった。
入り口の前に、副官らしい男が立っていた。三十代後半。疲れた顔をしているが、目に怒気がある。烈を見て、その怒気が整理される前に口が動いた。
「貴様が第三小隊の生き残りか。単独帰還の理由を聞こう」
「全員連れて帰れなかった。それが理由のすべてです」
「言い訳にもなっていない」
「言い訳をしに来たわけではない」と烈は言った。声を低く保った。怒鳴るのは簡単だが、怒鳴った瞬間に交渉の主導権を失う。「大尉に会いたい。提案がある」
「提案? 一兵士が?」
「はい」
「身の程を知れ」と吐き捨てるように言った。
副官の目が細くなった。軽蔑と、わずかな好奇心が混在していた。
「何を提案するというんだ」
「この陣地が、今夜持たない理由と、持たせる方法を」
天幕の中は薄暗かった。
地図が広げられた折り畳みの机。その前に、男が座っていた。
ホーウェン大尉。年齢は四十前後。顎に無精髭。目の下に濃い隈。軍人の顔というよりは、三日間眠れていない文官の顔だ。
烈は大尉を一瞥して、地図に目を移した。
把握に三秒かけた。
現在地、前線の位置、退路、水源、地形の起伏。地図は古く、一部の記載が実際の地形と合っていない可能性があるが、大筋は使える。
「第三小隊の生還者だな」と大尉が言った。声に覇気がない。
「レツといいます」
「提案があると聞いた」大尉は机に肘をついた。「聞こう。ただし短くしろ。俺は今、百の問題を抱えている」
「一つにまとめます」と烈は言った。「この陣地は東側が無防備です。昨夜、敵の斥候が同じ方角から二度動いた。今夜、東から来ます」
沈黙。
副官が「根拠は」と言った。
「松明の動き方です。索敵のパターンに規則性がある。三回に一回、東側の稜線に向けてU字を描く。これは地形を利用した包囲の下準備です」
「……それだけか」
「十分です」と烈は答えた。断言する。これも教官時代の癖だ。「対策は単純で、東側の稜線に弓兵を十人、夜明け前に展開させる。奇襲の先頭を叩けば、後続は止まります。敵は今夜、大規模侵攻ではなく陣地の弱点確認に来るはずなので、十人で十分です」
大尉が烈を見た。
長い沈黙だった。
「お前は戦術を学んだことがあるのか」
「前の仕事で、少し」
「前の仕事」大尉は繰り返した。「兵士ではないのか」
「今は兵士です」
また沈黙。大尉は地図に目を落とした。指で東側の稜線をなぞる。地図の上でも、確かにそこは記載が薄い。
「……仮に、お前の言う通りだとして」大尉はゆっくり言った。「弓兵の展開は、俺が命令する。お前が指揮するわけではない」
「もちろんです」
「お前は一兵士だ」
「そうです」
「ならば、提案だけして下がれ」
「一つだけ、追加していいですか」
副官が「まだあるのか」と眉を上げた。大尉の沈黙が許可の代わりだった。
「食料です」烈は続けた。「三日分の携帯食が、この野営地全体で何日分あるか確認してください。俺の見立てでは、五日ありません。補給線が機能していない。戦術以前に、兵站が崩れています」
天幕の中が静かになった。
大尉の顔が、初めて変わった。疲弊から、別の何かへ。
図星だ。
烈は表情を動かさなかった。
「……下がれ」と大尉は言った。今度は命令の声だった。「提案は受け取った」
天幕の外に出ると、エルンが待っていた。
「どうでしたか」
「聞いてもらえた」と烈は言った。「それで十分だ」
「提案は通りましたか」
「通るかどうかは大尉が決める。俺の仕事はもう終わった」
エルンは釈然としない顔をした。若い。物事が「提案」で終わることに、まだ慣れていないのだろう。烈にもかつてそういう時期があった。上官に意見して無視されるたびに歯を食いしばっていた時期が。
「大尉は……動くと思いますか」
「動く」と烈は言った。「意地を張っているように見えたが、目が死んでいなかった。あれは、正しい判断を求めている目だ。ただ、誰かに指図されることに慣れていない」
「それはどう違うんですか」
「指図は拒絶される。提案は、相手が自分で決めたと思える」
エルンはしばらく考えた。それから、「戦術というのは、戦い方だけじゃないんですね」と言った。
「そうだ」と烈は答えた。「人の動かし方も、戦術のうちだ」
言ってから、少し苦い気持ちになった。
人を動かすことが得意な人間は、人を動かしすぎることがある。その先に何があるか、烈は知っている。
一度、動かしすぎた。正しい判断で、部下を全滅させたことがある。
昼過ぎ、東側の稜線に弓兵が展開された。
大尉の命令で、十二人。烈の提案より二人多い。それが大尉なりの「自分で決めた」という証明だと烈は思った。文句はない。十二人の方が安全だ。
烈はその様子を遠くから見ていた。
リオが隣にいた。朝食の乾パンを齧りながら、弓兵たちを眺めている。
「あの人たちが動いたのは、レツのせい?」
「提案しただけだ」
「でも動いた」
「動いたのは大尉の判断だ」
リオは「でもレツが言わなかったら、あの人たち死んでたよね」と言った。
子供の論理は時として正確すぎる。
「……似ているが、違う」と烈は言った。「動かした、と動いた、では責任の所在が変わる。俺はまだここで、責任を負える立場にない」
リオは乾パンを一口齧った。「難しいね」
「そうだな」
「レツは、いつかここの偉い人になるの?」
烈は答えなかった。
なる、とは言えない。なりたいとも、正直なところ思っていない。ただ——誰かが整理しなければ、この陣地は崩れる。崩れれば死ぬ人間が増える。それを黙って見ていられる性格を、烈は持ち合わせていなかった。
「偉くなりたいわけじゃない」と烈はようやく言った。「ただ、できることをやるだけだ」それ以上は、言葉にしなかった。
「それって同じじゃないの」とリオはまた言った。
今度は烈も、反論しなかった。
夜、東側から音がした。
烈が予測した通りの時間帯に、予測した通りの方角から。
弓兵の斉射が一度。
それから静寂。
朝になって報告が上がった。敵の斥候、四名。うち二名を仕留め、残りは退却。こちらの損害なし。
大尉が烈を呼んだ。
天幕の中。昨日と同じ机、同じ地図。だが大尉の顔が、少し違った。隈は変わらないが、目に何かが戻っていた。
「お前の読み通りだった」
「大尉の判断が正確でした」
「……素直じゃないな」大尉は言った。皮肉ではなく、どこか可笑しそうに。「提案した本人が、なぜそういう言い方をする」
「提案は提案です。実行したのは大尉と兵士たちです。だからこそ、責任は分かれるべきです。」
「なるほど」大尉は腕を組んだ。「食料の件も調べさせた。お前の言う通り、四日分しかない」
「補給線の問題は」
「わかっている。ただ、どこが詰まっているかが把握できていない」烈を見た。「お前なら、どう動く」
来た。
烈は地図に目を向けた。
「補給路は三本あります。このうち中央の道は魔族に監視されている可能性が高い。残り二本のうち、北の山道は時間がかかりすぎる。南の迂回路を使うべきです。ただし——」
「ただし?」
「南の迂回路を使うには、一時的にここの東側防衛を薄くする必要があります。昨夜の斥候を退けた直後の今が、唯一の窓口です。敵が次の手を考えている間に動く」
大尉はしばらく地図を見ていた。
「……お前を、どう使えばいい」
予想していなかった問いだった。
「俺は一兵士です」と烈は言った。
「それはわかっている」大尉は烈を見た。「だから聞いている。お前自身は、どう使われたいと思っている」
烈は少し考えた。
「前線に置いてください」と答えた。「参謀よりも、前線の方が俺には向いています」
「理由は」
「机の上で考えることと、泥の中で考えることは、同じようで違います。俺は泥の中の方が頭が働く」
大尉はしばらく黙っていた。それから、小さく笑った。初めて見る表情だった。
「変わった男だな」
「よく言われます」と烈は答えた。
その夜、烈は再び外に出た。
星を見るためではなかった。東側の稜線を確認するためだ。それでも、昔教え子が星の話をしていたのを思い出した。
暗闇の中、稜線は静かだった。
昨夜の成功は小さい。本当に小さい。大陸規模の戦争の中では、塵ほどの勝利だ。魔族連合が三王国を飲み込んだ二十年の戦争に対して、斥候四人を退けた一夜。
比べるのも馬鹿げている。
でも、と烈は思った。
どんな戦争も、最初は一つの判断から始まる。提案は侵略に似ている。相手の意思の中に入り込み、流れを変える。
正しい判断が積み重なれば、いつか大きな流れになる。それを信じてきた。教官として、部下たちに教えてきた。
信じ続けるしかない。
右腕の内側を、無意識に手でなぞった。刻印の位置。皮膚の下で、何かが静かに脈打っている。わずかに痛みが走る。昨夜、ほんの一瞬だけ使った代償だ。寿命にして、数時間。使っていないときでも、そこにあることを主張している。
昨夜の戦闘では使わなかった。使う必要がなかった。小規模な斥候戦で済んだからだ。
できるだけ、使わずに済む戦争をする。
それが最も合理的な戦略だと烈は思っている。敵を戦術で圧倒できれば、刻印術を使う場面は減る。減れば、寿命の消費も減る。
完璧な計算だ。……そう思いたかった。
完璧すぎて、どこかで必ず崩れると、烈にはわかっていた。
戦場に、完璧は存在しない。それも教壇で教えたことだ。
「眠れないんですか」
エルンだった。またこの若者だ。よほど眠れないのか、それとも烈を見張っているのか。
「習慣だ」と烈は言った。
「戦術教官の習慣ですか」
烈は振り返った。「何を知っている」
「今日、大尉と話したあとで」エルンは少し緊張した顔をしていた。「副官のベグさんが言っていました。あの男は軍の教官か何かだろう、と」
「買いかぶりだ」
「でも、当たってますよね」
烈は答えなかった。
答えない、ということが答えだと、エルンくらいの歳ならわかる。
「俺に、戦術を教えてもらえますか」
唐突な申し出だった。
烈はエルンを見た。十七か十八。槍を持った手は荒れていた。半年前まで農民か職人か。徴兵で前線に来て、この混乱の中を生き延びている。
「なぜ」
「生き残りたいからです」エルンは真っ直ぐに言った。
「死に方を選べないのは嫌なんです」
「あなたの考え方を知っていたら、昨夜もっとうまく見張りができたと思う」
烈はしばらく黙っていた。
断る理由を探した。
見つからなかった。
「明日の朝、俺が起きているときに来い」と烈は言った。「歩きながら話す。立ち止まって教える時間はない」
エルンの顔が、わずかに明るくなった。
「ありがとうございます」
「感謝は早い」と烈は言った。「まず明日を生き延びてからだ」
エルンは頷いた。それから小屋に戻っていった。
烈は再び稜線を見た。
また一人、増えた。
守るべき人間が、また一人。
それを重荷とは思わなかった。ただ、右腕の内側が、かすかに温かくなった気がした。刻印が、何かを感じ取ったように。嫌な予感に近い反応だった。
烈は腕を見ない。見ると、計算したくなるから。
今夜は計算しないと決めた。
空には星がある。アルデニアの星は、まだ名前を知らない。
そのうち覚える、と烈は思った。長くいるつもりはないが、星の名前くらいは覚えておいた方がいい。
理由は、うまく言葉にできなかった。




