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第1話 退却の作法

 死ぬ、と思ったのはこれで二度目だった。


 一度目は富士演習場、泥濘んだ斜面をホバークラフトが滑落してきたとき。あのときは間に合った。二度目の今は、間に合わなかった。間に合わない死は、思っていたより静かだった。


 だから、ここは天国か地獄かと問われれば、桐島烈は迷わず答えただろう。


 ――地獄だろう。天国に、こんな臭いはない。


 血と泥と焦げた革の匂い。折り重なった死体の山。そして夕陽。


 夕陽だけが、妙に綺麗だった。


 まるで誰かが「せめて景色くらいは良くしてやろう」と気を遣ったように、アルデニア大陸の西の空は橙と紫に燃えている。桐島烈――いや、今この身体に課せられた名前でいえば「レツ」――は丘の斜面に倒れたまま、しばらくその空を眺めていた。


 現状確認。優先度一位。


 職業的な習性が、感傷を後回しにした。


 身体の点検から始める。右腕は動く。左腕も動く。脚は両方。頭部の損傷なし。腹部に浅い裂傷、出血は許容範囲。肋骨が二本か三本、呼吸のたびに軋むが、致命傷ではない。


 良好。生きている。


 次に周囲。半径二十メートル以内、味方の生存者なし。視認できる範囲で死体が十四。第三小隊、全滅。敵影は現時点でなし、ただし遠方に松明の動きが複数。索敵部隊が戻ってくる前に動かなければならない。


 起き上がろうとした瞬間、肋骨が悲鳴を上げた。


 「うるさい」と烈は胸の内で呟いた。四十二年生きてきたこの感覚がある意味で懐かしかった――演習で打ち身を作るたびに同じことをやっていた。痛みと交渉する技術は、自衛官の必修科目だ。


 死体の山を検分する。


 感情は後でいい。今は情報だ。


 第三小隊の隊員たちは、それぞれに戦った痕跡を残して死んでいた。烈が転生してから三週間。仮初めの部下たちだったが、名前と癖と利き手は全員覚えていた。コーデルは最後まで槍を手放していない。イーノは二人道連れにしている。新兵のソムは、背中に傷がなかった。逃げなかったということだ。


 褒めてやる言葉が、間に合わなかった。


 それだけを思い、烈は感情の蓋を閉めた。だが蓋の内側で、何かが一度だけ音を立てた。今夜は泣く余裕がない。


 問題は装備だ。剣は残っている。水袋一つ。携帯食が三日分。地図はない。


 「地図のない戦場を歩くのは、目隠しで高速道路を横断するようなものだ」


 かつて教壇でそう言ったことがある。生徒たちは笑った。烈も笑った。今は笑えない。


 松明が近づいてくる。この距離なら、逃げ切れる確率は五割を切る。


 烈は丘の北側、灌木が密集する方角へ向けて走り始めた。肋骨が軋む。無視する。脚は動く。それで十分だ。


 走りながら考える。これが烈の癖だった。止まって考える人間は、たいてい止まったまま死ぬ。


 現在地はおそらく、アルデニア同盟軍の第二防衛線から十五キロ前後の敵占領域内。第三小隊は斥候任務で前進したところを、数で圧倒するのではなく、包囲の形そのものが教科書的に洗練されていた。誰かが位置を漏らしたか、あるいは敵の偵察能力を過小評価した同盟軍の情報参謀に問題があるか。どちらにせよ、今夜には関係ない。


 帰還。それだけが今夜の目標だ。


 灌木の中に潜り込んだ瞬間、足が何かを踏んだ。


 柔らかい感触。それが人間だと気づいた瞬間、烈は一瞬だけ剣を握る手を強めた。戦場では“子供”も“罠”になる。


 「――動くな」


 烈は囁き声で言いながら剣を抜いた。視線を落とすと、灌木の根本に子供が蹲っていた。十歳前後の男の子。ぼろぼろの服。眼が、怯えで白くなっている。


 民間人。非戦闘員。変数が増えた。


 烈は三秒考えた。


 置いていくという選択肢は、三秒で消えた。


 「名前は?」


 子供は答えない。震えている。


 烈は剣を納め、子供と同じ高さまで身を屈めた。視線を合わせる。これも教壇で教えたことがある――相手の目線まで降りろ。見下ろしたまま話す指揮官は、部下に何も伝えられない。


 「俺はレツ。お前を傷つけない。ただし、これから俺の言う通りに動いてもらう。嫌なら今すぐ言え。嫌じゃないなら、頷け」


 子供は、ゆっくりと頷いた。


 「よし」と烈は言った。「名前を聞いても答えたくなければ答えなくていい。でも一つだけ教えてくれ。南に道を知っているか?」


 しばらく間があった。それから子供が、掠れた声で言った。


 「リオ」と名乗った。「南の道、知ってる。村があった」

 「あった、というのは」

 「もう、ない」烈は一度だけ目を閉じた。数値でも報告書でもない“焼失した生活”の重さを、脳が遅れて理解する。


 烈は何も言わなかった。


 「でも道は残ってる」とリオは続けた。「道は、燃えないから」


 二人で灌木の中を進む。


 リオは驚くほど足が速かった。恐怖が足を鍛えるのか、あるいはこの三週間で生き延びる技術を身につけたのか。おそらく両方だろう。


 松明の光が遠ざかっていく。敵の索敵部隊は、死体を確認して別方向へ移動したらしい。烈は内心で、小さく息を吐いた。


 「おじさん」とリオが言った。

 「烈。レツでいい」

 「レツは、なんで生きてるの。あの丘で、みんな死んだのに」


 正直な子だと思った。烈は正直な子が好きだ。


 「運と、多少の技術と」と答えた。「あとは、まだやることが残っていたからだろうな」

 「やること?」

 「部下たちを、ちゃんと弔ってやれていない。それが気になって、死ねなかった」


 リオはしばらく考えてから、「変な理由」と言った。


 「よく言われる」と烈は答えた。それは褒め言葉ではないことも、知っていた。


 一時間ほど歩いたところで、リオが立ち止まった。


 「ここ」と彼は囁いた。「川の向こうに、同盟軍の哨戒が来る。毎晩、松明を持って」


 烈は川を見た。幅は十メートルほど。流れは緩い。渡れる。


 「どうして哨戒の時間を知っている?」

 「ずっと見てたから」

 「……一人で三週間、かよ」


 リオは答えなかった。答えなくていいと烈は思った。


 川の向こうで、確かに松明が揺れていた。烈は小石を一つ拾い、対岸の茂みに向けて投げた。松明が止まる。警戒した証拠だ。


 「先に渡る。俺が向こうで手を振ったら、来い」

 「捕まったら?」

 「捕まらない」と烈は言った。ただし、それは“生きて戻る確率が高い”という意味ではない。断言した。断言する理由は特にないが、断言しなければいけない場面がある。これはそういう場面だった。


 川に入る。


 冷たい。十月の水温だ。足が瞬時に痛くなる。肋骨が、水の抵抗のたびに文句を言う。


 うるさい、と烈はもう一度、自分の胸に言った。


 対岸まで十数秒。這い上がり、茂みに隠れる。松明は動いていない。烈はゆっくりと立ち上がり、「同盟軍の者か」と声をかけた。


 松明が止まる。


 「誰だ!」

 「同盟第七連隊、レツ。斥候の帰還だ。あと一人、子供を連れている。敵ではない」


 沈黙。それから、松明が近づいてきた。


 兵士は二人いた。若い。烈よりずっと若い。十七か十八か。一人が槍を構え、もう一人が松明を烈の顔に向けた。


 顔を確認した瞬間、槍を持った兵士の表情が変わった。


 「……第三小隊の人ですか。あの、斥候の」

 「そうだ」

 「全滅したと」

 「俺以外は、な」


 兵士の眼が揺れた。十七か十八か。この歳で最前線に来ている。それだけで、この世界が何を消費しているかわかる。


 「川の向こうに子供がいる。俺が手を振る。驚かずに受け入れてくれ」

 「……子供?」

 「村を焼かれた子供だ。それ以上は追求するな」


 烈は川に向けて手を振った。しばらくして、リオが川に入ってくる音がした。


 哨戒基地は粗末な木造の小屋だった。


 中には七人の兵士がいた。焚火を囲み、誰も眠れていない顔をしていた。烈とリオが入ってきたとき、全員が振り返った。


 烈は全員の顔をざっと見た。


 疲弊。恐怖。ただし崩壊はしていない。まだ戦える目だ。


 「第三小隊の生還者だ。色々と報告することがある。先に一つだけ聞かせてくれ」


 全員が烈を見ていた。


 「第二防衛線の司令官は誰だ。今もイレン将軍か?」


 兵士たちが顔を見合わせた。それから一人が、疲れた声で言った。


 「イレン将軍は、先週の戦闘で」

 「亡くなった」と別の兵士が引き取った。

 「今は誰が」

 「……副官のホーウェン大尉が代理ですが、正直、まとめられていなくて」


 烈は焚火を見つめた。


 指揮系統の崩壊。最悪のパターンの一つだ。


 「わかった」と烈は言った。声に感情を乗せなかった。乗せると、誰かが泣くから。「俺を大尉のところへ連れて行ってくれ。明日の夜明け前に、話がしたい」

 「あなたは……一介の兵士ですよね」と若い兵士が恐る恐る言った。

 「そうだ」と烈は答えた。「ただ、作戦の提案がある。大尉が聞く気があるかどうかは、大尉が決めればいい」


 焚火が一つ、爆ぜた。


 誰も反論しなかった。


 リオが烈の袖を引いた。眠い眼をしていた。烈は無言で自分の外套を外し、子供の肩にかけてやった。


 「今夜は寝ていい」と烈は言った。「俺が見張る」

 「眠れるの?」とリオが聞いた。

 「眠れない」と烈は正直に答えた。「でも眠らなくていい理由が、最近やたら多い」


 リオは小さく笑った。転生してから、誰かが笑うのを初めて見た気がした。


 焚火が落ち着いた深夜、烈は一人で外に出た。


 空には星がある。アルデニアの星は、地球とは並び方が違う。それでも星は星で、冬の空気の中で鋭く光っている。


 烈は右腕の内側を見た。


 転生してから三日目に気づいた。うっすらと、皮膚の下に何かが刻まれている。光の加減によって見えたり見えなかったりする、複雑な文様。これが「刻印」というものらしいと、後で兵士の一人に教わった。


 「刻印術の使い手か」と言われたとき、烈は曖昧に笑って答えなかった。


 今日の戦闘で、一度だけ使った。丘の上で、三人に囲まれたとき。この身体は、前の世界の“兵士の延長”ではない。だが思考だけが、まだ軍隊のままだった。


 その三人をどう倒したかは、自分でもよく覚えていない。身体が勝手に動いた。人間には出せないはずの速度で。刻印が、内側から熱くなった。


 そしてその夜、烈は鏡の代わりに川の水面を見た。


 こめかみに、白い髪が、数本増えていた。


 代償。なるほど。


 驚く余裕が、そのときはなかった。今もない。ただ、計算した。


 三人倒して、白髪数本。


 この先、大陸規模の戦争を戦い抜くとしたら。


 計算の答えは出た。出たが、見なかったことにした。


 小屋の中でリオが寝返りを打つ音がした。


 烈は星を見上げた。


 「全員生かして帰す。それだけだ」


 誰に言うでもなく、呟いた。


 星は答えない。星は約束しない。それでいいと思った。約束するのは、自分だけでいい。

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