第六話 過去
「それで、これが立花君じゃなかった、竜輝君の部屋なんだね」
「竜、竜輝君?」
苗字ではなく名前が告げられたことを受け、竜輝の声が上めく。
好きな人から、下の名前で呼ばれた。
それが、竜輝にとっては衝撃の事件なのだ。
「私たち友達になったんだから、下の名前で呼び合わないとおかしいじゃん」
「下の名前……」
という事は、田島さんを、リサさんと名前呼びする。
いやいや、
「無理です。恥ずかしいです」
竜輝は必死で首を振りながら言う。
「いいじゃない。竜輝君、竜輝君、竜輝君」
「止めてください、田島さん」
「私のこともリサって呼んで」
「恥ずかしいですよそれは」
竜輝にとってハードルが高い中のハードルの高さだ。
「今はまだ田島さんでいいですか?」
今はまだリサ呼びは無理だ。
「ちぇ、それは面白くないなあ」
「もう、無理です。もう駄目です」
「はあ、分かったわ。でも、私だけ言わせてもらうから、竜輝君」
「はいはい」
自分だけ名前呼びを避けられた。それだけでなんとなく救われた気分だ。
まだ竜輝と呼ばれるだけだったら照れ臭さは半減だ。
「それで、ぼくはこれからどうしたら」
「ああ、せっかくだから明日のことについて話し合わない? 私ずっと話したくて」
「いいですけど」
「分かった」
そうして俺たちは翌日のことについて話す。
将棋を教えてほしいと言っている田島さんの妹は、今中学三年生だそうだ。
そして、彼女は将棋アプリで十分切れ負け三段らしい。
中々の実力者だ。奨励会に入れるほどではないが、もう少しで、と言った所だろう。
将棋という物は、男性社会で、女性はほとんどいない。
現に女流棋士のトップが若手男性プロに負けるなんてこともざらだ。
これには、そもそも男性の方が将棋を指すからという、人口比の説や、女性は将棋をしても、男性社会の中だと気落ちするという説もある。
そんな中で女性でそこまでの実力があるというのは立派な物だろう。
「明日になってみないと分からないけど、中々の実力者みたいだから平手でいいかな。僕も明日が楽しみだよ。女性で強い人なんて……」
いや、一人いることにはいる。奨励会二段には行っている、竜輝の妹弟子が。
彼女は今かなり注目されている。
15歳で奨励会二段という、順調なペースで進んでいる凛こそ初の女性プロ棋士に成れるかもしれないのだから。
「一人いますけど、それだけですから」
そう、竜輝は言い切った。
「プロになる気はないんですか?」
「そんな恐れ多いって彼女は行っているけどね」
「まあ、女流棋士という手もありますけど、それは個人の自由ですから」
あれ、結構喋れてるのではと、一瞬竜輝は思った。
だけど、その理由をすぐに理解したからこそ、竜輝は軽く顔を赤くした。
自分が喋れている理由は単純に将棋の内容だからだ。これは所謂早口喋りで、田島さんに聞き取る作業を貸しているのではないか。
そう思うと自分が恥ずかしく思えてきた。自分はしょうもない事しかしていないのだと。
そして彼は一言、
「僕は将棋の話になると熱中しすぎてしまうんです。……すみません」
そう、謝った。そして、
「熱中しすぎないように意を付けます」
そう付け加えた
「え、何? 私が今の話つまらないと思ってたの?」
「え?」
「私は今の竜輝君の話を聞いてて楽しいと思ったよ。だから気に病む必要なんてさらさらないって」
「楽しい……」
竜輝にとって言われるとは思ってなかった言葉そのものだ。だが、竜輝は自然と笑みがこぼれた。
それに気が付いた竜輝は咄嗟に口を隠そうとしたが、
「その笑顔いいよ、竜輝君!」
そう笑顔で笑ったリサを見て、口を隠すのをやめた。
「確かにそうですね」
「てかさ、いつ将棋始めようとしたの? 今まで聞いたことなかったなって思って」
「ええ、僕のおじさん。渡辺霧生永世竜王、名人です。彼は僕の尊敬する人です。……もう死んじゃいましたけどね」
竜輝の家族と共に事故で命を落とした。
あの時の事は、竜輝として今も思い出したくない。
それほど辛かった出来事だ。
今でもあの時の事は《《悔やんでも悔やみきれない出来事》》なのだから。
「そうなのね……」
「暗い雰囲気にするつもりはなかったんです」
「うん。それは分かってる。竜輝君の話を聞きたいって言ったのはこっちだから気に病む必要なんてないわよ」
「……はい」
竜輝は自分を軽く辱めた。
なんで、自分はこんなに気を使わせてしまうんだろうか。
そう思うと、次の言葉が出てこなくなってくる。
目の前では正座座りしている田島さんがいるというのに。
……ちょこんと座っている田島さんは可愛い。
天使みたいだ、今思えば自分の部屋にリサがいる。
急激に緊張してきた。
そんなリサは今、髪の毛をくるくるといじっている。
その時点で、竜輝の脳内はパニック状態になりつつあった。
「ねーえ、何黙ってるの?」
気が付けば、リサが竜輝の顔を覗いている。
竜輝はそれを見て思わず顔を覗けた。今ほぼ確実に赤くなっている頬を、リサに見せるわけにはいかない。
「授業中に寝てた時に先生にあてられたの?」
「なんですか、そのたとえは」
「えへへ。もっと聞かせてよ、過去の話」
「あまりプライベートなことに突っ込むのは良い事ではない気がしますけど」
「いいじゃん」
その笑顔には逆らえない。
仕方ないとばかりに、竜輝は続きを話す。
「僕は、将棋を始めたのはいいですけど、そこから暫くは勝てない日々が続きました」
「天才少年、竜輝君でも?」
「恥ずかしいからやめてください」
(この人はすぐに褒めようとするんだから)
竜輝にとって、気兼ねなく褒める性格は好きだか、苦手でもある。
この人は自分の価値を分かりってはいない。
その言葉には彼女が思っている以上の価値があるのだから。
「それで僕は、いったん将棋をやめようかなとさえ思ったんです。でも、僕は将棋への情熱を捨てられなかったんです。だから、将棋を指し続けた。他人よりも劣っているなら、他人よりも努力したらいいって。そして僕はあっという間に、気づけば、小学生名人戦で優勝していました。これが、小学四年生の時です。それから僕は奨励会に入りました、とはいえ、楽しいばかりじゃありません、段々と、将棋を指すのが辛くなってきました。まだまだ若いとはいえ、二十六までプロに成れなかったらほとんどプロへの道は閉ざされますから」
「将棋棋士って、二十六になったらなれないの?」
(そう言えば説明してなかった)
「奨励会というプロ育成機関はとある例外除けば、二十六までで退会なんですよそ。それ以外にプロになるには、アマの戦いで勝ち上がって、プロの棋戦に参加してそこで勝ち上がってようやくプロ棋士と戦う編入試験を受けられます。でも、そのハードルがとにかく高いんです」
今までに二人しかいない。
多くの人は編入試験を受けられても、その中で敗北を喫してしまう。
女流のトップ棋士でも、編入試験は受かった試しがないのだ。
「へ―なるほどね」
「それで、僕は、手を休めることなく研究を繰り返した。それで、僕はプロに成れたんです」
でも、あの時は実感なんてなかった、
それに、ここからだという感じが強かった。
だからこそ、今の立場に奢らずに努力し、竜王になったわけだが。
「これで十分ですか?」
竜輝にはもう何を言ったらいいのか分からない。
「ええ、ありがとう」
そう感謝され、竜輝はむずかゆい気持ちになった。ここで、竜輝にある考えが浮かんだ。
田島さんの過去も教えてくださいと言えば、彼女の過去も聞けるのではないかと。
だが、それを言う勇気など……
「じゃ、私の過去も教えなきゃね」
無かったが、聞けた。
自分から話してくれた。
それに竜輝は歓喜した。リサの話も聞けると。
ああ、自分の過去を話してよかったなって。
「とは言っても、私の過去は竜輝君に比べたら大したことがないんだよね」
そう言ってため息をつくリサ。それに対し竜輝は、
「いえ、大したことのない過去の人はいません。それは、個々の人生の軌跡ですから」と言い放った。
そして次の瞬間。
イキりすぎたと、竜輝は軽く後悔した。
中二病っぽいことを流石に言いすぎた。
「ふふ、じゃあ話すね。多分そこまで長くならないけどさ。私はね、昔からこんな性格だったわけじゃないの。昔は、もう少しおとなしい性格だったと思う。心を閉ざしたの。でもね、私は変わったの。完璧な私に」
そう言った彼女はふふんと、息を慣らした。
「だから、竜輝君も友達作れるよ、沢山。だって同じ道を歩んでた私が言うんだから」
リサも、コミュ障だった。……それを聞いて、竜輝は少し安心した。
それと同時に、もう少し過去を聞きたいという気持ちが芽生える。
「ねえ、田島さん。きっかけは何だったの?」
図々しいかなと、少し思いながらも、竜輝は訊いた。
気になるのもそうだが、自分が変わるきっかけになるかもしれないという気持ちもあったからだ。
「私はね、実は少し虐められていたの。根暗だって、だから性格を直したそれだけの話よ」
それだけの話。そう簡単に言ってしまえるリサが凄いと思ってしまう。竜輝なんていじめられたこともないのに、今はこんなに弱い。
「まずます凄いです。僕なんかよりも」
「僕なんかって言ったらダメだよ」
「え?」
「竜輝君は立派なんだから。私は尊敬してるしねー。だからさ、いじめに屈した私でもこんなに友達が出来たんだからね」
「なんだかいつの間にか、友達作る云々の話になってますね」
「ありゃ、本当だ」
「でも、本当にうれしいです」
自分の事を思ってくれている人がいるという自信だけで。
「あ、てかもう五時じゃん。そろそろ帰らないとだめだね」
「何か用事でもあるんですか?」
「いやね、家事をしなきゃならないから」
「そう言う事ですか。ならまた明日」
「うん、楽しみにしとくね。じゃーね!!」
そう言ってリサは出て行った。
「はあ」
幸せで死んじゃいそう。家でこんなにも話ができるんなんて。
なんか変な事を言っちゃったかななどと、不安な気持ちが襲う。だが、今日、リサと話せてよかったという気持ちは本当だ。
リサと疎遠になるなんてことにならなくてよかった、と。竜輝は真に思うのであった。




