5話
「雨宮茂。お前が死んだら一億円を受け取るのは――お前の父親だ」
そう告げたあと、電話の向こうから一切の音が聞こえなくなった。
今、雨宮がどんな顔をしているのか、電話越しの俺には見えない。
ただ、すぐに続きを話す気にはとてもなれなかった。
「雨宮、聞こえてるか?」
『・・・嘘です』
「嘘ならよかったんだけどな」
『そんなはずありません・・・』
「三枝さんから届いた報告書に、はっきり書かれてる」
『だって・・・、あの書類にはお母さんの名前が書いてあったじゃないですか!あなたも見たでしょう!?』
「お前が持っている書類は一か月以上前の古い書類だ。そのあと、受取人が変更されてる」
『何かの間違いです。別の雨宮茂さんかもしれない』
「・・・保険の契約者として登録されている雨宮茂と、受取人になった会社の代表者は同一人物だ」
『でも・・・お父さんは、お母さんを助けたいなら死ねんでって・・・』
「・・・だからだろ?」
『えっ?』
「母親を助けられると思わせれば、お前は自分から死んでくれる。父親は何もしなくていい。その上一億まで手に入る」
『もうやめて!』
雨宮の声が病院の廊下に響いたらしい。電話の向こうで、誰かの足音が近づいてきた気がした。
『・・・すみません。何でもありません』
雨宮が小さな声で誰かに謝った。足音が遠ざかるまで、俺も黙って待っていた。
『お父さんが、そんなことするわけありません』
「六千万円の借金と、病気の妻と娘を置いて、金を全部持って逃げた男だぞ?」
『それでも・・・私のお父さんなんです』
「父親なら、娘に死ねと言っても許されるのか?」
『そんなこと言ってません!』
「じゃあ何が言いたいんだ?」
『・・・分かりません』
雨宮の声が、急に弱弱しくなった。
『分からないんです。お父さんが何を考えてるのかも、私が何のために昨日あそこに立ってたのかも・・・』
昨日までの雨宮には、死ぬ理由があった。自分が死ねば、母親の借金を返せる。手術も受けさせられる。だから怖くても、母親のためなら命を投げ捨てれた。
だが、それは全部嘘だった。
今の雨宮には、生きる理由どころか、死ぬ理由すらなくなってしまった。
「今からそっちへ行く」
『・・・はい?』
「病院はどこだ?」
『来なくていいです』
「じゃあ、そのまま一人で泣いてる?」
『泣いてません!』
「声で分かるよ」
『来ないでください』
「住所を言わないなら、書類に載ってるお前の家から近い病院を全部調べあげる、徹底的に」
『・・・キモイです』
「じゃあどこ?」
『・・・九条中央病院です』
「また九条かよ!」
『私に怒らないでください!』
保険会社の次は病院まで身内だった。俺の知らないところで、九条財閥は雨宮家の人生に入り込みすぎではないだろうか。
「三十分くらいで着く。病院ので待ってろ」
『だから来なくていいって――』
最後まで聞かずに電話を切った。そしてすぐに後藤さんへ電話をかけた。
『はい、後藤です』
「爺や。今から九条中央病院へ行くぞ」
『司様、今、午後九時四十分ですが』
「知ってる」
『司様は明日も学校でございます』
「知ってるって」
『夜遊びを覚えるには、まだ少々早いかと』
「同級生の女の子に会いに行くだけだよ」
『五分でお迎えに上がります』
「さっきまでの説教は何だったんだよ!」
通話はすでに切れていた。爺やのやつ、絶対勘違いしてるな。
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後藤さんは言葉どおり、本当に五分ぴったりと玄関前へ到着した。
俺が外へ出ると、空から小さな雨粒が降ってきた。昨日ほどではないが、傘がなければそのうち濡れるほどの雨だ。後藤さんがいつものように傘を差し出そうとしたが、何かを思い出したように手を止めた。
「司様。今朝お渡しした傘をお使いください」
「はー?あれなら部屋に置いてきたぞ」
「では取りにお戻りください」
「車まで十歩くらいだろ?」
「三万円でございます」
「値段は関係ないだろ!」
「初めての傘を一度も使用せず、部屋の飾りにされるおつもりですか?」
「あぁもう!分かったよ!」
仕方なく部屋へ戻り、三万円の黒傘を持ってきた。柄にあるボタンを押すと、バサッ!と勢いよく傘が開いた。
「おぉ・・・」
「司様、もしや傘の開き方もご存じなかったので?」
「知ってたよ。確認しただけな」
「左様でございますか」
絶対に信じてない顔だった。
そして記念すべき人生初の傘を差し、たった十歩先の車まで歩く。
後部座席へ乗り、傘を閉じようとしたが・・・柄のボタンをを押しても閉じなかった・・・
「・・・これどうやって閉じるんだ?」
「お貸しください」
結局、後藤さんに閉じてもらった。普通の人って傘使えててすげーな。
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九条中央病院までは、車で二十五分ほどだった。正面玄関の前に車を止め。病院の中に入っていった。
すでに面会時間は終わっており、入口の自動ドアも片側しか開いていない。受付の人に話を通してもらっていたが、俺は病院の中には入らず車を降りた。
雨宮へ『着いた』と送った、既読はすぐについたが、返事は来ない。
一分ほど待つと、自動ドアの向こうから雨宮が姿を現した。
制服の上に薄いカーディガンを羽織り、胸の前で鞄を抱えている。目元は赤く、どう見ても泣いていた。
「来なくていいって言ったのに」
「俺は行かないとは言ってない」
「屁理屈ばっかり・・・」
「それ、今日二回目だな」
「・・・お父さんに電話しました」
「出たのか?」
「電源が入ってませんでした。メッセージも送れなくなってます」
「どうやら逃げる準備は完璧みたいだな」
「・・・あれ、見せてください」
「何を?」
「あなたが見た報告書です。自分の目で確認しないと信じられません」
「あぁ、もちろん」
スマートフォンで三枝さんから届いた報告書を開き、雨宮へと渡した。画面を何度も拡大しながら、上から一行ずつ読んでいく。
変更前、雨宮咲。
変更後、アマミヤ・アセット管理株式会社。
代表取締役、雨宮茂。
何度読み返しても、そこに書かれている内容は変わらない。
「本当だったんだ・・・」
「だから最初からそう言ってるだろ?」
「少しくらいは黙っててください」
「・・・・・・・」
素直に黙ると、雨宮はそれも気に入らなかったのか、こちらを睨んだ。
どうしろっていんだ?
「私が死んでも、お母さんは助からないんですね」
「あぁ」
「借金も残る。手術も受けられない」
「今のままならな」
「じゃあ、私は・・・何のために死のうとしたんですか?」
「父親の一億円のため」
「最低」
「俺じゃなくて父親に言ってくれ」
雨宮は唇を噛み、下を向いた。その肩が小さく震えている。
雨が少しずつ強くなり、院内の明かりに照らされた地面へ黒い染みを広げていった。
俺はさっき持ってきた黒傘を開き、雨宮のへ差し出す。
「入れよ」
「・・・傘、持ってるんですね」
「今日買った。三万円もした」
「聞いてません」
雨宮が少しだけ俺の近くへ寄った。肩が触れるほどではない。だが、二人とも濡れないためには、もう少し近づいた方がいい。
「もっと入れ。右肩、濡れてるぞ」
「あなたがそっちへ寄せればいいでしょう」
「俺の左肩が濡れるだろ?」
「御曹司のくせにケチですね」
「三万円の傘だからな。平等に使おう」
「値段は関係ないでしょう・・・」
文句を言いながらも、雨宮は半歩だけこちらへ近づいた。昨日は同じ雨の中で死のうとしていた少女と、今日は同じ傘に入っている。
人生というのは、たった一日でずいぶんと変わるものみたい。
「私はこれから・・・、どうすればいいんですか?」
「そうだな・・・まずは雨宮の母親を助ける方法を考えよう」
「六千万円の借金と、手術代ですよ?そんな簡単に・・・」
「簡単だとは言ってない」
「じゃあ、無理かもしれないってことですか?」
「そのための一週間だろ?」
雨宮が顔を上げ、驚いたような目つきで俺を見ていた。
「まだ、助けようとしてくれるんですか?」
「途中でやめたら面白くないからね」
「・・・それだけ?」
「じゃあお前に一目惚れしたからって言えば満足か?」
「結構です」
「即答かよ」
少しだけ、雨宮の口元が緩んだ。ほんの一瞬だったが、昨日から初めて見た笑顔だった。
そのとき、俺のスマートフォンが鳴った。画面を見たら、三枝さんから追加のメッセージが届いている。
『受取人変更時の同意書を確認しました。雨宮雫様ご本人の署名がございます』
添付された書類を開く。確かに一番下には、雨宮雫と手書きで署名されていた。
「雨宮。お前、一か月前にこの書類へ名前を書いた?」
「何ですか?」
画面を見せると、雨宮の表情が固まった。
「・・・書いてません」
「本当に?」
「こんな書類、今日初めて見ました」
「でも、お前の名前がある」
「私の字じゃありません!」
雨宮が声を荒らげ、画面を指差した。
「私、雫の『雫』は最後の部分をこうやって繋げて書くんです。この字は違います」
なるほど。本人が署名していないのなら、答えは一つしかない。父親は家族を捨てて、たまたま逃げたわけではない。
会社を作り、保険金の受取人を変え、娘の署名まで偽造した。そのあと古い証券と「お前が死ねば母親が助かる」という嘘を残した。
すべては、雨宮を自分から死なせるために。
「どうやらお前の父親は、借金から逃げたんじゃない」
「・・・え?」
「最初からお前を殺して、一億円を持っていくつもりだったようだな」




