30話
雨宮は、俺の手を握ったまま離さなかった。
一週間の契約が終わっても、俺のそばにいたいらしい。俺も、雨宮のそばにいたい。
何の条件もない約束は、今まで交わしたどの契約よりも曖昧だった。それなのに、不思議と破られる気はしなかった。
「九条君。いつまで握ってるんですか?」
「雨宮が離すまで」
「先に掴んだのは九条君でしょう」
「でも、今握り返してるのはお前だよ」
雨宮が慌てて手を離す。
「もう引っ越し業者さんが待ってます!」
「誤魔化したね」
「九条君も最後の箱を運んでください!」
空になった部屋を出る直前、雨宮は一度だけ振り返った。机も、棚も、カーテンもない。父親が帰ってくることに怯えながら、母親と暮らした家だった。
「行こう、雨宮」
「……はい」
雨宮は鍵を置き、俺と一緒に玄関を出た。これから帰る場所は別々になる。それでも、俺たちは他人には戻らなかった。
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三週間後。雨宮の父親が起訴されたと聞いた。
俺と雨宮は、担任に呼ばれて応接室へ来ていた。中には咲さんと弁護士、それから見慣れた黒いスーツの男が座っている。
「爺や。何でいるの?」
「旦那様の代理でございます」
「親父は?」
「ご自身で来れば、司様がお帰りになるまで動かないと仰る可能性がございますので」
「ありそうだね」
雨宮が隣で小さく頭を下げると、後藤さんもいつもの無表情で一礼した。
「まず、雨宮茂についてご説明します」
弁護士が机の上へ数枚の書類を並べた。
父親は、保険金の受取先をアマミヤ・アセットへ変更するため、咲さんの署名を偽造していた。
それだけではない。
雨宮へ送った『母親を助けたいなら死ね』というメッセージ。五千八百万円の送金記録。会社に残されていた帳簿。警察が調べた結果、あの男が最初から家族を捨て、金だけを持って逃げる準備をしていたことが確認されたらしい。
「起訴されたからといって、すぐに全てが終わるわけではありません。裁判には時間がかかります」
「はい」
雨宮は、書類を見たまま答えた。
「ただし、アマミヤ・アセットの口座に残っていた資金は保全されました。今後の手続きは必要ですが、五千八百万円の大部分は債権者への返済に充てられる見込みです」
「では、六千万円は……」
「残額と利息についても、債権者との合意が成立しました」
弁護士が新しい書類を咲さんの前へ置く。
「ご自宅を予定どおり引き渡すこと。それから、保全された資金が返済に充てられること。この二点を条件に、雨宮咲さんと雫さんへ、それ以上の支払いは求めないという内容です」
咲さんが何度も書類を読み返した。
「本当に……これで終わりなんですか?」
「手続きが完了すれば、雨宮さん親子がこの債務を負い続けることはありません」
咲さんは口元を押さえた。隣に座っていた雨宮が、母親の手を優しく握った。
「お母さん」
「ごめんね、雫。私が、もっと早く気づいていれば……」
「もう謝らなくていいよ」
雨宮の声は震えていた。
「お母さんが生きてるから。それでいい」
咲さんが娘を抱きしめる。俺は二人から少しだけ視線を外した。
六千万円の借金は消える。だが、家は戻らない。失った時間も、父親に言われた言葉も、なかったことにはならない。
それでも二人は、生きたまま今日まで来た。一億円を受け取るより、たぶんずっと難しい方法で。
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「一つだけ、確認してもいいですか?」
雨宮が弁護士へ尋ねた。
「お父さんから、また手紙が来ることはありますか?」
「接触を完全に止めたいのであれば、こちらを窓口にできます。手紙や伝言を、ご本人へ渡さないようにすることも可能です」
「そうしてください」
即答だった。
「内容も、知りたくありません。謝罪でも、言い訳でも、お金の話でも」
「分かりました」
「それから……裁判にも、必要がなければ行きません」
雨宮は自分の膝の上で、両手を強く握った。
「私はもう、お父さんが何を考えていたのか知りたいとは思いません」
留置場で父親へ会った日、雨宮は『私は死ななかった』と告げた。あれが最後の言葉になった。
「本当に、それでいいのか?」
俺が聞くと、雨宮はこちらを向いた。
「はい」
「後悔しない?」
「するかもしれません」
「するんだ」
「でも、後悔するかどうかを決めるのも私です」
雨宮は少しだけ笑った。
「もう、お父さんに決めてもらう必要はありませんから」
屋上で会ったころの雨宮なら、こんな言い方はしなかっただろう。
自分が死んだあとのことばかりを考え、生きている自分がどうしたいかなんて、一度も口にしなかった。
「強くなったな」
「九条君に言われたくありません」
「何で?」
「九条君はまだ、洗濯物を三日分も溜めています」
「今それ関係ある?」
「自分の生活も決められない人に、褒められたくないです」
後藤さんが僅かに顔を背けた。
「今、笑った?」
「いいえ」
「絶対笑ったな?」
「司様が洗濯物を三日分お溜めになっているとは、旦那様へ正確にご報告いたします」
「それだけはガチでえぐい」
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話が終わり、咲さんと雨宮が先に部屋を出た。俺も続こうとすると、後藤さんに呼び止められる。
「司様。旦那様から、お預かりしている言葉がございます」
「戻ってこい、なら聞かないよ」
「『条件は終わった』と」
足を止めた。
「雨宮様のお母様の手術費を、ご自身で用意されました。旦那様との約束は、すでに果たされています」
「だから、九条家へ戻れ?」
「戻るも戻らないも、お前が決めろ、と仰っていました」
「親父が?」
「はい」
少し意外だった。親父なら、俺が負けを認めるまで玄関で待っていると思っていた。
「なお、お戻りにならない場合も、学費はこれまでどおり旦那様が負担されます」
「それはいい。自分で払う」
「現在の収入で、ですか?」
「配信の金が入る。次の仕事の依頼も来てるよ」
「一時的な注目が、いつまで続くかは分かりません」
「続かなかったら、そのとき考える」
「学校を辞めることになっても?」
「それは困るな」
「では、お受け取りください」
「嫌だね」
後藤さんはしばらく黙って俺を見た。昔なら、こんな会話にはならなかった。学費がいくらなのかも知らず、払われて当然だと思っていたからだ。
「……分かりました」
「説得しないの?」
「旦那様から、無理に連れ戻すなと言われております」
「気持ち悪いな。親父、病気?」
「司様がご自身で稼いだ四百八十万円の明細を、何度もご覧になっていました」
「それ、褒めてた?」
「私の口からは何とも」
親父が俺をどう思ったのかは分からない。ただ、もう試験は終わったらしい。
「なら伝えてくれよ」
「何と?」
「しばらく帰らない。でも、別に縁を切るつもりもないって」
「承知しました」
「あと――追い出してくれて、少しだけ感謝してる」
後藤さんの眉が僅かに動いた。
「少しだけ、ですか」
「家も金もなくなって、かなり苦労したからね」
「その部分まで正確にお伝えいたします」
「できれば省いてくれない?」
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放課後、俺は雨宮の新しい家へ行った。駅から徒歩十二分。古い二階建てのアパートで、部屋は以前の家の半分もない。
玄関を開けると、台所からカレーの匂いがした。
「お邪魔します」
「九条君、遅いです」
「担任に捕まったんだよ」
「また学校へ配信の仕事を持ち込んだんですか?」
「今回は進路希望を白紙で出した件」
「当たり前じゃないですか!」
エプロン姿の雨宮が、呆れた顔で台所から出てくる。奥の部屋では、退院した咲さんが段ボールを開けていた。
「司君、いらっしゃい」
「もう動いて大丈夫なんですか?」
「軽い物だけよ。雫が何もさせてくれないから、暇で」
「お母さんは座ってて!」
「だそうですよ」
俺は咲さんから箱を受け取った。部屋は狭い。家具も安い。窓から見えるのは九条家の庭ではなく、隣のアパートの壁だった。
それでも、前の家より明るく見えた。誰かの足音がするたびに、二人が玄関を見なくていいからだろう。
「九条君、お皿を運んでください」
「了解」
「それから、その箱は寝室です」
「了解」
「靴は揃えてください」
「注文が多くない?」
「うちに来るなら、うちのルールを守ってください」
「毎日来てもいいか?」
雨宮の動きが止まった。
「……食費は払ってください」
「払えば毎日来ていいんだ」
「そういう意味ではありません」
咲さんが楽しそうに笑っている。三人で食卓を囲んだ。カレーは、九条家で出ていた料理よりずっと安いはずなのに、不思議と美味かった。
雨宮が生きている。咲さんも生きている。
俺は自分で電車へ乗り、自分で稼いだ金で買った手土産を持って、ここへ来た。
一億円では、たぶんこの食卓は買えないな。
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食事を終え、帰ろうとしたときだった。雨宮が玄関まで追いかけてくる。
「九条君」
「何?」
「明日の放課後、時間ありますか?」
「あるけど」
「屋上へ来てください」
「屋上?」
「私たちが、最初に会った場所です」
雨宮は俺と目を合わせないまま言った。
「話したいことがあります」
「今じゃ駄目なのか?」
「駄目です」
「気になるな」
「明日まで待ってください」
「何を?」
雨宮はようやく顔を上げた。
「あの日、九条君は私に一週間だけ待てと言いました」
「そうだね」
「今度は、私の番です」
「また契約?」
「違います」
雨宮はきっぱりと否定した。
「契約が終わっても一緒にいたいと言った意味を、ちゃんと話します」
そう言って、雨宮は玄関の扉を閉めた。俺は一人、古いアパートの廊下へ残された。
契約ではない。同情でも、珍しい人間への興味でもない。雨宮を失うのが怖くて、何の条件もないままそばにいたいと思う気持ち。
その意味を、俺も明日までには言葉にしなければならない。
明日、俺はもう一度、あの屋上へ行く。
次回最終回!今日は一話更新です!
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