↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/31

30話

雨宮は、俺の手を握ったまま離さなかった。

 

 一週間の契約が終わっても、俺のそばにいたいらしい。俺も、雨宮のそばにいたい。

 

 何の条件もない約束は、今まで交わしたどの契約よりも曖昧だった。それなのに、不思議と破られる気はしなかった。

 

「九条君。いつまで握ってるんですか?」

 

「雨宮が離すまで」

 

「先に掴んだのは九条君でしょう」

 

「でも、今握り返してるのはお前だよ」

 

 雨宮が慌てて手を離す。

 

「もう引っ越し業者さんが待ってます!」

 

「誤魔化したね」

 

「九条君も最後の箱を運んでください!」

 

 空になった部屋を出る直前、雨宮は一度だけ振り返った。机も、棚も、カーテンもない。父親が帰ってくることに怯えながら、母親と暮らした家だった。

 

「行こう、雨宮」

 

「……はい」

 

 雨宮は鍵を置き、俺と一緒に玄関を出た。これから帰る場所は別々になる。それでも、俺たちは他人には戻らなかった。

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

 三週間後。雨宮の父親が起訴されたと聞いた。

 

 俺と雨宮は、担任に呼ばれて応接室へ来ていた。中には咲さんと弁護士、それから見慣れた黒いスーツの男が座っている。

 

「爺や。何でいるの?」

 

「旦那様の代理でございます」

 

「親父は?」

 

「ご自身で来れば、司様がお帰りになるまで動かないと仰る可能性がございますので」

 

「ありそうだね」

 

 雨宮が隣で小さく頭を下げると、後藤さんもいつもの無表情で一礼した。

 

「まず、雨宮茂についてご説明します」

 

 弁護士が机の上へ数枚の書類を並べた。

 

 父親は、保険金の受取先をアマミヤ・アセットへ変更するため、咲さんの署名を偽造していた。

 

 それだけではない。

 

 雨宮へ送った『母親を助けたいなら死ね』というメッセージ。五千八百万円の送金記録。会社に残されていた帳簿。警察が調べた結果、あの男が最初から家族を捨て、金だけを持って逃げる準備をしていたことが確認されたらしい。

 

「起訴されたからといって、すぐに全てが終わるわけではありません。裁判には時間がかかります」

 

「はい」

 

 雨宮は、書類を見たまま答えた。

 

「ただし、アマミヤ・アセットの口座に残っていた資金は保全されました。今後の手続きは必要ですが、五千八百万円の大部分は債権者への返済に充てられる見込みです」

 

「では、六千万円は……」

 

「残額と利息についても、債権者との合意が成立しました」

 

 弁護士が新しい書類を咲さんの前へ置く。

 

「ご自宅を予定どおり引き渡すこと。それから、保全された資金が返済に充てられること。この二点を条件に、雨宮咲さんと雫さんへ、それ以上の支払いは求めないという内容です」

 

 咲さんが何度も書類を読み返した。

 

「本当に……これで終わりなんですか?」

 

「手続きが完了すれば、雨宮さん親子がこの債務を負い続けることはありません」

 

 咲さんは口元を押さえた。隣に座っていた雨宮が、母親の手を優しく握った。

 

「お母さん」

 

「ごめんね、雫。私が、もっと早く気づいていれば……」

 

「もう謝らなくていいよ」

 

 雨宮の声は震えていた。

 

「お母さんが生きてるから。それでいい」

 

 咲さんが娘を抱きしめる。俺は二人から少しだけ視線を外した。

 

 六千万円の借金は消える。だが、家は戻らない。失った時間も、父親に言われた言葉も、なかったことにはならない。

 

 それでも二人は、生きたまま今日まで来た。一億円を受け取るより、たぶんずっと難しい方法で。

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

「一つだけ、確認してもいいですか?」

 

 雨宮が弁護士へ尋ねた。

 

「お父さんから、また手紙が来ることはありますか?」

 

「接触を完全に止めたいのであれば、こちらを窓口にできます。手紙や伝言を、ご本人へ渡さないようにすることも可能です」

 

「そうしてください」

 

 即答だった。

 

「内容も、知りたくありません。謝罪でも、言い訳でも、お金の話でも」

 

「分かりました」

 

「それから……裁判にも、必要がなければ行きません」

 

 雨宮は自分の膝の上で、両手を強く握った。

 

「私はもう、お父さんが何を考えていたのか知りたいとは思いません」

 

 留置場で父親へ会った日、雨宮は『私は死ななかった』と告げた。あれが最後の言葉になった。

 

「本当に、それでいいのか?」

 

 俺が聞くと、雨宮はこちらを向いた。

 

「はい」

 

「後悔しない?」

 

「するかもしれません」

 

「するんだ」

 

「でも、後悔するかどうかを決めるのも私です」

 

 雨宮は少しだけ笑った。

 

「もう、お父さんに決めてもらう必要はありませんから」

 

 屋上で会ったころの雨宮なら、こんな言い方はしなかっただろう。

 

 自分が死んだあとのことばかりを考え、生きている自分がどうしたいかなんて、一度も口にしなかった。

 

「強くなったな」

 

「九条君に言われたくありません」

 

「何で?」

 

「九条君はまだ、洗濯物を三日分も溜めています」

 

「今それ関係ある?」

 

「自分の生活も決められない人に、褒められたくないです」

 

 後藤さんが僅かに顔を背けた。

 

「今、笑った?」

 

「いいえ」

 

「絶対笑ったな?」

 

「司様が洗濯物を三日分お溜めになっているとは、旦那様へ正確にご報告いたします」

 

「それだけはガチでえぐい」

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

 話が終わり、咲さんと雨宮が先に部屋を出た。俺も続こうとすると、後藤さんに呼び止められる。

 

「司様。旦那様から、お預かりしている言葉がございます」

 

「戻ってこい、なら聞かないよ」

 

「『条件は終わった』と」

 

 足を止めた。

 

「雨宮様のお母様の手術費を、ご自身で用意されました。旦那様との約束は、すでに果たされています」

 

「だから、九条家へ戻れ?」

 

「戻るも戻らないも、お前が決めろ、と仰っていました」

 

「親父が?」

 

「はい」

 

 少し意外だった。親父なら、俺が負けを認めるまで玄関で待っていると思っていた。

 

「なお、お戻りにならない場合も、学費はこれまでどおり旦那様が負担されます」

 

「それはいい。自分で払う」

 

「現在の収入で、ですか?」

 

「配信の金が入る。次の仕事の依頼も来てるよ」

 

「一時的な注目が、いつまで続くかは分かりません」

 

「続かなかったら、そのとき考える」

 

「学校を辞めることになっても?」

 

「それは困るな」

 

「では、お受け取りください」

 

「嫌だね」

 

 後藤さんはしばらく黙って俺を見た。昔なら、こんな会話にはならなかった。学費がいくらなのかも知らず、払われて当然だと思っていたからだ。

 

「……分かりました」

 

「説得しないの?」

 

「旦那様から、無理に連れ戻すなと言われております」

 

「気持ち悪いな。親父、病気?」

 

「司様がご自身で稼いだ四百八十万円の明細を、何度もご覧になっていました」

 

「それ、褒めてた?」

 

「私の口からは何とも」

 

 親父が俺をどう思ったのかは分からない。ただ、もう試験は終わったらしい。

 

「なら伝えてくれよ」

 

「何と?」

 

「しばらく帰らない。でも、別に縁を切るつもりもないって」

 

「承知しました」

 

「あと――追い出してくれて、少しだけ感謝してる」

 

 後藤さんの眉が僅かに動いた。

 

「少しだけ、ですか」

 

「家も金もなくなって、かなり苦労したからね」

 

「その部分まで正確にお伝えいたします」

 

「できれば省いてくれない?」

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

 放課後、俺は雨宮の新しい家へ行った。駅から徒歩十二分。古い二階建てのアパートで、部屋は以前の家の半分もない。

 

 玄関を開けると、台所からカレーの匂いがした。

 

「お邪魔します」

 

「九条君、遅いです」

 

「担任に捕まったんだよ」

 

「また学校へ配信の仕事を持ち込んだんですか?」

 

「今回は進路希望を白紙で出した件」

 

「当たり前じゃないですか!」

 

 エプロン姿の雨宮が、呆れた顔で台所から出てくる。奥の部屋では、退院した咲さんが段ボールを開けていた。

 

「司君、いらっしゃい」

 

「もう動いて大丈夫なんですか?」

 

「軽い物だけよ。雫が何もさせてくれないから、暇で」

 

「お母さんは座ってて!」

 

「だそうですよ」

 

 俺は咲さんから箱を受け取った。部屋は狭い。家具も安い。窓から見えるのは九条家の庭ではなく、隣のアパートの壁だった。

 

 それでも、前の家より明るく見えた。誰かの足音がするたびに、二人が玄関を見なくていいからだろう。

 

「九条君、お皿を運んでください」

 

「了解」

 

「それから、その箱は寝室です」

 

「了解」

 

「靴は揃えてください」

 

「注文が多くない?」

 

「うちに来るなら、うちのルールを守ってください」

 

「毎日来てもいいか?」

 

 雨宮の動きが止まった。

 

「……食費は払ってください」

 

「払えば毎日来ていいんだ」

 

「そういう意味ではありません」

 

 咲さんが楽しそうに笑っている。三人で食卓を囲んだ。カレーは、九条家で出ていた料理よりずっと安いはずなのに、不思議と美味かった。

 

 雨宮が生きている。咲さんも生きている。

 

 俺は自分で電車へ乗り、自分で稼いだ金で買った手土産を持って、ここへ来た。

 

 一億円では、たぶんこの食卓は買えないな。

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

 食事を終え、帰ろうとしたときだった。雨宮が玄関まで追いかけてくる。

 

「九条君」

 

「何?」

 

「明日の放課後、時間ありますか?」

 

「あるけど」

 

「屋上へ来てください」

 

「屋上?」

 

「私たちが、最初に会った場所です」

 

 雨宮は俺と目を合わせないまま言った。

 

「話したいことがあります」

 

「今じゃ駄目なのか?」

 

「駄目です」

 

「気になるな」

 

「明日まで待ってください」

 

「何を?」

 

 雨宮はようやく顔を上げた。

 

「あの日、九条君は私に一週間だけ待てと言いました」

 

「そうだね」

 

「今度は、私の番です」

 

「また契約?」

 

「違います」

 

 雨宮はきっぱりと否定した。

 

「契約が終わっても一緒にいたいと言った意味を、ちゃんと話します」

 

 そう言って、雨宮は玄関の扉を閉めた。俺は一人、古いアパートの廊下へ残された。

 

 契約ではない。同情でも、珍しい人間への興味でもない。雨宮を失うのが怖くて、何の条件もないままそばにいたいと思う気持ち。

 

 その意味を、俺も明日までには言葉にしなければならない。

 

 明日、俺はもう一度、あの屋上へ行く。

次回最終回!今日は一話更新です!


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけたら、作品のフォローや評価、感想をもらえると嬉しいです。



執筆の励みになります!



次回もよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。