31話
翌日の放課後、空には朝から黒い雲が広がっていた。
授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。雨宮は普段どおり俺の斜め前に座っている。休み時間には橘と話し、授業中は真面目にノートを取っていた。
俺とは、一度も目を合わせない。昼休みになっても、雨宮は橘と一緒に教室を出ていった。
「九条君」
戻ってきた橘が、俺の机へ両手をつく。
「雨宮さんに何かした?」
「今日はまだ何もしてないよ」
「今日は?」
「昨日、屋上へ呼び出された」
「えっ!」
橘の声で、教室にいた何人かがこちらを見た。
「ちょっと、詳しく!」
「本人の許可なく話せないな」
「またそれ!」
橘は不満そうに頬を膨らませたあと、急に声を小さくした。
「でも、ちゃんと行ってあげてね」
「行くよ」
「絶対だからね。雨宮さん、昨日からずっと練習してたんだから」
「何を?」
「それは本人から聞いて」
橘はそれ以上教えず、自分の席へ戻っていった。雨宮は、いったい何を練習したんだろう。気になって時計を見る。まだ、午後の授業が三つも残っていた。
時間が早く過ぎてほしいと思ったのは、生まれて初めてかもしれない。
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放課後を知らせるチャイムが鳴った。雨宮は俺を見ないまま、鞄を持って教室を出ていく。
すぐに追いかけようとすると、橘に制服の袖を掴まれた。
「少し待って」
「どうして?」
「女の子には準備があるの」
「もう一日待ったけど」
「じゃああと五分くらい待てるでしょう!」
仕方なく、自分の席で五分待った。四分を過ぎたところで立ち上がる。
「まだ五分経ってないよ?」
「誤差だよ」
橘の声を無視して、教室を出た。階段を上がる。
一段進むたびに、屋上で雨宮と初めて会った日のことを思い出した。あの日の俺は、屋上へ来たことに理由なんてなかった。
ただ退屈だった。
扉の向こうに誰がいるかも知らず、何か面白いものがあればいいと思っていた。そして、フェンスの外へ立つ雨宮を見つけた。
飛び降りるなら、どうぞ。
確か、最初にそんなことを言った。今考えても、最低だな。
だが、あそこで俺がもっと正しい言葉をかけていたら、雨宮は俺を信用しなかったかもしれない。
母親を助けるために死ぬと決めていた雨宮に、生きろと命令しても届かなかっただろう。
正しくなかった俺と、死ぬことしか考えられなかった雨宮。だから、一週間の約束が始まった。
屋上の扉を開ける。冷たい風が、制服の間を通り抜けた。
雨宮は、あの日と同じ場所に立っていた。ただし、今日はフェンスの内側だった。
「遅いです」
「五分待てと言われたから」
「まだ四分しか経ってません」
「雨宮まで細かいな」
「普通は守ります」
「それで、話って何?」
「いきなり聞くんですか?」
「そのために来たから」
雨宮は困ったように視線を逸らした。昨日までに考えておくと言った本人が、まだ覚悟を決められていないらしい。
「やっぱり、明日にしてもいいですか?」
「駄目だ」
「どうしてですか?」
「俺は今日、授業をほとんど聞けなかった。これ以上延ばされたら成績が下がる」
「普段から聞いてないでしょう」
「今日は特にね」
雨宮が小さく息を吐いた。
「九条君らしいです」
「そう?」
「はい。人が真剣に悩んでるときでも、いつも自分勝手で」
「褒められてないね」
「褒めてません」
風が吹き、雨宮の長い髪が揺れる。
「最初は、大嫌いでした」
「知ってる」
「人が死のうとしているのに、どうぞなんて言って。勝手に一週間待てと言って、私の家族のことを調べて」
「うん」
「九条家へ連れていかれて、服を買われて、学校でもずっとついてきて」
「嫌だった?」
「嫌でした」
「そこは少しくらい誤魔化してくれてもよくない?」
「九条君が、できない約束はしないと言ったんです」
雨宮が俺を見る。
「だから、私も嘘は言いません」
「分かった。続けて」
「でも、九条君は一度も私を可哀想だと言いませんでした」
雨宮の声が、僅かに震えた。
「私が死ぬと言っても泣かなかった。お父さんの言葉を信じた私を、馬鹿だと言った。自分で保険を確認して、自分で決めろと言った」
「言ったね」
「最低な人だと思いました」
「まだ悪口が続くんだ」
「最後まで聞いてください」
怒られたので、黙ることにした。
「最低だったけど、九条君だけが、私に生きるか死ぬかを選ばせてくれました」
あの日、雨宮は父親の命令で死のうとしていた。自分で選んだつもりで、選択肢なんて一つもなかった。
「一週間待って、全部確かめて。それでも死にたいなら好きにしろと言われたとき、初めて私の命が、私のものになった気がしました」
雨宮の青い目から、一粒だけ涙が落ちた。
「九条君が、私の命を私に返してくれたんです」
「大げさだな。俺は面白そうだから調べただけだよ」
「知っています」
「否定しないんだ」
「それでも、助けてくれたことは変わりません」
雨宮は涙を手で拭い、もう一度真っ直ぐ俺を見た。
「私が普通になったら、九条君は私に飽きるのかと聞きましたよね」
「うん」
「今は、もうどちらでもいいです」
「よくないだろ?」
「よくはありません。でも、九条君の答えが何でも、私の気持ちは変わらないから」
雨宮は制服の裾を強く握った。昨日、橘と練習したはずの言葉は、なかなか出てこない。
それでも逃げずに、口を開いた。
「私は、九条君が好きです」
風の音が消えたように感じた。
「助けてもらったからだけじゃありません。自分勝手で、常識がなくて、洗濯もできなくて、高い肉ばかり食べようとする九条君が――」
「告白の途中で悪口を入れる必要ある?」
「黙って聞いてください」
「はい」
「そんな九条君と、これからも一緒にいたいです。契約でも、約束でもなく……私の意思で」
雨宮は、あの日のように俺へ手を差し出した。
今度は助けを求める手ではない。
「九条君は、どうしたいですか?」
雨宮はもう、俺に決めてもらおうとはしなかった。自分の気持ちを伝えたうえで、俺の意思を聞いている。
「俺は――」
そのとき、頬へ冷たいものが落ちた。一滴、二滴と雨が降り始める。
初めて会った日も、雨だった。あの日の俺は傘を持っていなかった。雨宮が死んだあと、自分がどうやって帰るかすら考えていなかった。
今日は、鞄の中に黒い折り畳み傘が入っている。俺は雨宮の手を取った。
「最初は、確かに面白そうだから助けた」
「はい」
「事件が終わって、普通になったお前に飽きるかもしれないとも思った」
雨宮の指先に力が入る。
「でも、事件が何も起きなかった三週間のほうが楽しかった」
「えっ?」
「学校へ行って、一緒に電車へ乗って、お前の家で飯を食べる。怒られながら皿を運んで、次の日も会う。そんな普通の毎日を、俺はもっと続けたい」
雨宮の目から、また涙が溢れた。
「それは……飽きないということですか?」
「未来のことは分からないよ」
「また、それですか」
「でも、飽きないと約束するより、飽きてもそばにいると約束する」
雨宮が目を見開いた。
「面白い事件がなくても、お前が普通になっても、喧嘩して話したくない日が来ても。俺は自分で、お前のそばにいることを選ぶよ」
「それ、告白になってません」
「なってない?」
「一番大事な言葉を言ってません」
「分かってるだろ?」
「言ってください」
雨宮は譲らなかった。
できない約束はしない。
分からない気持ちを、分かったふりもしない。
だが、今はもう分かっている。
「雨宮。俺も、お前が好きだ」
口に出すと、胸の奥で騒いでいたものが、ようやく名前を持った。
「だから、俺と付き合ってほしい」
「……はい」
「返事、小さくない?」
「九条君のせいです」
「もう一回聞きたいな」
「嫌です」
雨宮は泣きながら笑った。
俺は、握っていた手を引き寄せる。
顔が近づくと、雨宮の身体が固まった。
「何をするんですか?」
「恋人らしいこと」
「いきなりですか?」
「嫌ならやめるよ」
雨宮は逃げなかった。代わりに目を閉じる。
触れるだけの短いキスをした。
唇が離れると、雨宮は顔を真っ赤にして俯いた。
「……九条君」
「何?」
「順番が違います」
「告白して、返事を聞いてからだっただろ?」
「場所の話です。ここ、学校の屋上です」
「誰もいないよ」
「そういう問題じゃありません!」
雨が少しずつ強くなる。俺は鞄から、折り畳み傘を取り出した。
「傘、持ってきたんですね」
「成長しただろ?」
「普通です」
「彼氏になったんだから、もう少し褒めてくれてもよくない?」
「九条君は、褒めるとすぐ調子に乗るので」
傘を開き、雨宮へ差し出す。
「雨宮」
「何ですか?」
「帰ろう」
あの日、俺たちは屋上で出会った。雨宮はここから飛び降りようとしていて、俺はそれを見ようとしていた。
でも今日は違う。
二人でフェンスに背を向け、屋上の扉へ歩き出す。小さな傘の下で、雨宮が俺の腕へ自分の腕を絡ませた。
「九条君」
「何?」
「明日も、一緒に帰ってくれますか?」
「明日だけ?」
「では、明後日も」
「その次は?」
「……ずっとです」
「それは契約?」
「違います」
雨宮は笑った。
「私が、そうしたいんです」
「俺もだよ」
死ねば一億円になるはずだった少女は、生きることを選んだ。
そして俺は、その隣で生きることを選んだ。
雨はまだ降っている。
けれど今度は、帰るための傘があった。
めでたく最終回です
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
作品に関する裏話や次回作の話など、また報告できればいいなと思っていますので。ぜひフォローよろしくお願いします!




