29話
母親の手術から一週間が経った。
咲さんの経過は順調だった。まだ退院はできないが、病院食をちゃんと食べられるようになり、今日は病室の中を自分の足で歩いたらしい。
雨宮からその報告を聞くたびに、俺は自分でもよく分からないくらい安心した。
俺が手術をしたわけでも、病気を治したわけでもないのに。
ただ、全部が良い方向へ進んだわけではない。雨宮の家は、正式に手放すことになった。
父親が持ち出した五千八百万円については、警察と弁護士が今も行方を追っている。母親が連帯保証人になった経緯にも問題が見つかり、六千万円をそのまま支払う必要はない可能性が高いらしい。
だが、家に設定された担保まで消えるわけではなかった。
家を残すために争うこともできる。けれど、裁判には時間も金もかかる。何より咲さん本人が、この家へ戻ることを望まなかった。
『あの人がいつ帰ってくるか怯えながら暮らすより、雫と新しく始めたいの』
咲さんは電話でそう言った。だから今日、俺と雨宮は朝から二人で家の中を片づけている。
「九条君。それ、ゴミじゃありません」
「でも一年以上使ってないんだろ?」
「使っていなくても必要な物はあります」
「この欠けた皿が?」
「それは、お母さんが私の誕生日に買ってくれた物です」
「そういう大事な情報は、先に教えてくれよ」
俺は危うくゴミ袋へ入れるところだった皿を、慌てて食卓へ戻した。雨宮が疑うような目で、俺の前に置かれたゴミ袋を覗き込む。
「ほかに捨ててませんよね?」
「大丈夫。まだ何も捨ててない」
「まだ?」
「言葉のあやだよ」
雨宮は俺からゴミ袋を奪い、中身を一つずつ確認し始めた。失礼だな。ちゃんと空の箱と、期限の切れた紙しか入れてないのに。
たぶん。
「九条君は、向こうの本を箱へ入れてください」
「俺にもできそうな仕事を選んだ?」
「何でも捨てようとする人に、思い出の整理は任せられません」
「人を役立たずみたいに言うな、抗議」
「昨日、掃除機の動かし方も分からなかった人は誰ですか?」
「電源の場所が分かりにくかったんですぅ―」
「本体に一番大きく書いてありました」
雨宮の家で暮らし始めてから、俺は知らなくても困らなかったことを、毎日のように教えられている。
洗濯機には洗剤を入れる場所がある。ご飯を炊いたあとの炊飯器は勝手に洗われない。ゴミは好きな日に玄関へ置けば、誰かが持っていってくれるわけではない。
雨の日には、自分で傘を持って家を出る。以前の俺なら、そんなことを覚える意味が分からなかっただろう。
今も面倒だとは思う。ただ、雨宮に呆れられるのは、そこまで嫌いじゃなかった。
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昼を過ぎるころには、いっぱいになった段ボール箱が居間を埋め尽くしていた。
新しい家へ持っていく物。倉庫へ預ける物。処分する物。
家具のほとんどは置いていくことになった。咲さんと雨宮が住む予定の家には、大きすぎて入らないらしい。
「新しい家、決まったの?」
「はい。病院から電車で二駅のところです」
「学校までは?」
「今より少し遠くなりますけど、一時間はかかりません」
「家賃は?」
「九条君に言うと、勝手に高い部屋へ変えそうなので教えません」
「そんなことしないよ」
「目を見て言ってください」
「そんなことするかもしれない」
「やっぱりじゃないですか!」
母親の治療費については、俺が三日間の密着取材で稼いだ金と、配信で入る百四十万円でほとんど支払える。
今後の生活費まで俺が出すと言ったが、それは二人とも受け取らなかった。
咲さんは身体が回復したら、以前勤めていた会社へ戻れるよう話をしている。雨宮も学校を辞めずに済む範囲で、アルバイトを始めるつもりらしい。
金があるなら使えばいいと思う。けれど、二人にとっては自分たちで生活を立て直すことにも意味があるのだろう。そこは、少しだけ分かるようになった。
俺も九条家を出て、初めて自分で金を稼いだからな。
「九条君は、どうするんですか?」
雨宮が、畳み終えた服を箱へ入れながら聞いた。
「何が?」
「この家を出たあとのことです」
「どこか借りるよ」
「一人で?」
「そのつもりだけど」
雨宮の手が止まった。
「九条家には、戻らないんですか?」
「親父からは、いつでも戻ってこいと言われてるよ」
「なら、戻ればいいじゃないですか」
「嫌だね」
「どうしてですか?」
「今戻ったら、結局俺は九条家がなければ何もできなかったことになるだろ?」
「そんなこと・・・」
「あるよ」
父親の力を借りずに母親の手術費を用意する。親父に追い出されたときは、ただ面白そうだから受けただけの条件だった。
だが今は、あのまま何も知らなかった俺へ戻るほうが怖い。傘も持たず、電車にも乗れず、目の前にいる人間が何を考えているのかも知ろうともしない。
九条家へ戻れば、きっとまた何もかも誰かがやってくれる。それはきっと楽だろう。
そして、くそ退屈でもあるだろう。
「もう少しだけ、自分で生きてみたいと思う」
「・・・そうですか」
「何だ、その顔?」
「別に」
「怒ってる?」
「怒ってませんよ」
「じゃあ、何で俺の服までその箱に入れたの?」
雨宮が今閉じようとしていた段ボール箱には、俺のシャツが何枚も入っていた。
「間違えました」
「新しい家へ持っていく箱だよな、それ」
「間違えたと言ってるでしょう!」
雨宮は慌てて箱を開け、俺の服を取り出した。耳が少し赤い。
「一緒に住みたいなら、そう言えばいいのに~」
「言ってません!」
「俺もまだ何も言ってないよ?」
「今言いました!」
俺のシャツが顔へ飛んできた。
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夕方。ほとんど空になった雨宮の部屋で、俺たちは床へ並んで座っていた。
机も棚も運び出され、部屋に残っているのは二つの鞄と、最後の段ボール箱だけだった。
この部屋へ初めて入った日のことを思い出す。昨日会ったばかりの男の家には泊まれないと言っていた雨宮を、俺と後藤さんが勝手に九条家へ連れて帰った。
その数日後には、今度は俺が九条家を追い出され、雨宮の家に転がり込んだ。知り合ってから、まだ一か月も経っていない。
それなのに、この家を出れば雨宮と一緒に帰る場所がなくなると思うと、少しだけ落ち着かなかった。
「九条君」
「何?」
「最初の約束、覚えてますか?」
「どれのこと?」
「一週間だけ待てって言ったでしょう」
「あぁ、屋上の契約か」
「契約じゃありません」
「まだそれ言うんだ」
雨宮は膝を抱え、自分が使っていた部屋を見回した。
「あの一週間は、とっくに終わってます」
「そうだね」
「調べた結果、私が死んでもお母さんには一億円が入らないと分かりました。お父さんも捕まって、お母さんの手術も終わりました」
「うん」
「だから、もう契約は終わりですよね?」
確かに、俺が屋上で差し出した一週間はとっくに過ぎている。雨宮を死なせないための理由も、母親を助けるために調べることも、もう残っていない。
「そうだな。契約は終わりだ」
雨宮の表情が、少しだけ曇った。
「・・・そうですか」
「残念そうだな?」
「残念そうになんてしてません」
「してるよ」
「してません」
「なら、これで俺たちは他人に戻るな」
「他人・・・」
雨宮が俯いた。昨日までの俺なら、ここでまた面白そうな契約でも考えたかもしれない。
父親が見つかるまで一人で行動しない。母親の手術が終わるまで死なない。この家にいる間は俺へ飯を作る。
理由をつけて、雨宮を俺の近くへ置いておく。でも、それでは何も変わらない。雨宮はもう、誰かに生き方を決められる必要はないのだから。
「雨宮は、どうしたい?」
「えっ?」
「契約が終わったあとの話。俺が決めるんじゃなくて、お前が決めてよ」
雨宮はしばらく黙っていた。廊下の向こうから、荷物を運ぶ業者の声が聞こえる。開けた窓からは、夕方の少し冷たい風が入ってきた。
「私は・・・」
雨宮が自分の制服の裾を握る。
「九条君が、また傘を忘れないか心配です」
「もう持ってるよ」
「一人でちゃんと電車へ乗れるかも心配です」
「最近は乗り換えもできる」
「洗濯物に、洗剤を直接かけそうです」
「一回しかやってないだろ?」
「ご飯も、放っておいたら高い肉ばかり食べそうです」
「肉は美味いからね」
「だから・・・」
雨宮はそこで言葉を止めた。顔を上げたとき、その青い目は真っ直ぐ俺を見ていた。
「契約が終わっても、九条君のそばにいたいです」
俺は、すぐに返事ができなかった。電車で同じ質問をされたときとは違う。
答えが分からなかったわけじゃない。ただ、胸の奥が変にうるさくて、いつものように言葉が出てこなかった。
「・・・九条君?」
「今の、もう一回言ってくれる?」
「嫌です」
「何で?」
「一回で聞こえたでしょう!」
「聞こえたけど、もう一回聞きたい」
「絶対に言いません!」
雨宮が立ち上がろうとしたので、その手を掴んだ。屋上で掴んだときとは違う。
今度は、落ちそうになったからではない。
俺が離したくなかったから、掴んだ。
「じゃあ、一回で我慢するよ」
「離してください」
「嫌だね」
「どうしてですか?」
「俺も・・・、お前のそばにいたいから」
雨宮の動きが止まった。顔だけでなく、耳まで一気に赤くなっていく。
「それは・・・どういう意味ですか?」
「俺にもまだ分からない」
「またそれですか」
「でも、分からないまま離す気はないよ」
雨宮は何か言い返そうと口を開いたが、結局何も言わなかった。代わりに、掴んでいた俺の手を握り返す。
その手は、あの日の屋上よりずっと温かかった。
「それじゃあ、今度こそ契約成立だな」
「契約じゃありません」
「なら、何?」
「それくらい、自分で考えてください」
雨宮はそう言いながら、俺の手を離さなかった。一週間だけだったはずの契約は、今日で終わった。
そして俺たちは初めて、何の条件もないまま、これからも一緒にいることを選んだ。
きゃああああああああ、雫ちゃんがついに言っちゃったぁあああああああぁあああ!
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