28話
「私が普通になったら・・・九条君は、私に飽きますか?」
雨宮の質問に、俺は答えることができなかった。電車は何事もなかったように走り続け、窓の外の景色だけが後ろへ流れていく。
雨宮はもう俺の方を見ていない。最初は確かに面白そうだったから助けた。それは間違いない。
死ねば一億になる少女。父親に自殺を強要され、屋上から飛び降りようとしていた同級生。今までの人生で、これほど面白そうな人間を見たことはなかった。ワクワクした。人生で初めて感じた気持だった。でも・・・
事件が全部終わったら?母親の手術が成功して、借金を全部整理して、家も手放して、新しい家で新しい生活を始めて。雨宮がもう死のうとせず、普通に学校へ通うようになったら。その時俺は・・・
こいつに興味を失うのだろうか?
「・・・ごめんなさい。変なことを聞きました」
「・・・いや」
「なんでもないので忘れてください」
「それはもう無理かもね」
雨宮が僅かにこちらを向いた。
「俺、できない約束はしないから。今すぐそんなことないとか言ったら、多分それは嘘になる」
「そう・・・ですよね」
「でも、忘れろと言われて忘れるのもさすがに無理だ。もう少し考えさせてくれ」
「考えないと分からないんですか?」
「今まで、家族や親戚以外に、誰かとこんなに長く一緒にいたことがなかったから」
雨宮は何も言わなかった。答えとしては、最悪だったかもしれない。
それでも、ここで優しい言葉を並べるよりは全然ましだと思えた。
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それから二日間、雨宮は少しだけ俺を避けるようになった。
完全に無視されるわけではない。朝は一緒に家を出るし、帰りも同じ電車へ乗る。食事も作ってくれる。
だが、会話が明らかに短い。
「今日の晩飯、何?」
「まだ決めてません」
「肉がいいな」
「そうですか」
「怒ってる?」
「怒ってません」
「怒ってる人の言い方だね」
「知りません」
うん。怒ってるな。学校でも同じだった。
昼休み、雨宮は橘と一緒に昼食を食べ、俺が近づくと露骨に反対側へ顔を向けた。
「九条君。雨宮さんと喧嘩した?」
橘が楽しそうに聞いてくる。
「俺はしてないよ」
「その言い方、絶対何かしたじゃん」
「質問に正直に答えなかっただけ」
「何を聞かれたの?」
「本人の許可なく話せないな」
「またそれ!」
雨宮がパンを食べながら、小さく息を吐いた。
「別に、喧嘩はしてません」
「じゃあ何で雨宮さん、九条君のこと見ないの?」
「見たくないからです」
「喧嘩してるじゃん!」
橘にはそう見えるらしい。俺も同じ意見だった。
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母親の手術当日。
俺と雨宮は学校を休み、朝から病院へ来ていた。
手術着へ着替えた咲さんが、ベッドの上から俺たちを見る。
「雫。そんな顔しないの」
「どんな顔?」
「今にも泣きそうな顔」
「してないよ」
「司君。雫をお願いね」
「分かりました」
「私は子供じゃありません」
「俺たち、二人とも子供だけどね」
「九条君は黙っててください」
久しぶりに、いつもの強さで怒られた。
やがて看護師が来て、ベッドが病室から運び出される。雨宮は廊下を歩き、手術室の前まで母親についていった。
扉が閉まる直前、咲さんは笑顔で小さく手を振った。雨宮も手を上げたが、扉が閉まると同時に力なく下ろした。
「始まったな」
「・・・はい」
待合室の椅子へ並んで座る。手術は五時間ほどかかる予定だった。
最初の一時間、雨宮はほとんど動かなかった。二時間目になると何度も時計を確認し、三時間を過ぎるころには、少しの物音でも手術室のほうを見るようになった。
「水、飲むか?」
「いりません」
「朝から何も飲んでないぞ?」
「喉、渇いてません」
「お前が倒れたら、母親が手術から戻ってきたときに怒られるぞ」
自動販売機で水を二本買い、そのうち一本を渡す。雨宮は何も言わず受け取り、少しだけ飲んでくれた。
「九条君」
「何?」
「もし、手術が失敗したら・・・」
「その先は考えなくていいよ」
「でも」
「考えても結果は変わらない。今は医者に任せるしかないだろ?」
「九条君は、怖くないんですか?」
・・・怖いかもな。そう思ったことに、自分でも少し驚いた。
咲さんに何かあれば、雨宮はまた壊れるかもしれない。今度こそ、本当に俺の手が届かないところへ行くかもしれない。
最初の俺なら、それすら面白がったのだろうか。少なくとも今は、見てみたいとは思わなかった。
「怖いよ」
正直に答えると、雨宮が俺を見た。
「九条君でも?」
「俺を何だと思ってる?」
「人の飛び降りを見たがる人です」
「まだ覚えてたんだ」
「忘れるわけないでしょう」
雨宮はそう言ったあと、僅かに身体をこちらへ寄せた。肩が触れあった。俺は離れなかった。
「手、握るか?」
「どうして少し嬉しそうなんですか?」
「二日前に断られたから」
「今は・・・握ってください」
雨宮が差し出した手を握る。屋上で初めて掴んだときより、ずっと温かかった。
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手術室の扉が開いたのは、予定より三十分ほど遅れてからだった。医師がこちらへ歩いてきた。雨宮は俺の手を握ったまま立ち上がって、医師の方へと向かった。
「手術は予定どおり終了しました。現在のところ、大きな問題はありません」
その言葉を聞いた瞬間、雨宮の手から力が抜けた。
「本当ですか?」
「はい。しばらく経過を見る必要はありますが、まずは安心していただいて大丈夫です」
医師から手術の説明を聞いている間、雨宮は何度も頷いた。話が終わると、もう一度近くの椅子へ座り込んだ。
「よかったな」
「・・・はい」
雨宮は両手で顔を覆った。声は出していないが、指の間から涙が落ちている。
「まだ泣いてるか?」
「今は、いいでしょう・・・」
「そうだな。今は思いっきり泣いた方がいい」
俺は雨宮の隣へ座り、泣き止むまで何も言わなかった。母親の手術は成功した。あの日、雨宮が屋上から飛び降りていたら、この日を迎えることはなかった。
母親を助けるために死のうとした雨宮が、生きたまま母親の手術を見届けた。
それだけで、あの一週間には意味があったのかもしれない。
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病院を出ると、外は雨だった。
朝は晴れていたため、傘を持っている人は少ない。だが俺の鞄には、後藤さんから渡された黒い折り畳み傘が入っていた。
人生で初めて、自分で持ってきた傘だ。
「傘、持ってきたんですね」
「成長しただろ?」
「天気予報に雨って書いてありましたから、普通です」
「もう少し褒めてくれてもよくないか?」
傘を開き、二人で中へ入る。一本しかないため、肩が触れるくらい近い。
雨宮は少しだけ俺から離れようとしたが、傘から出そうになったので腕を掴んで引き戻した。
「濡れるぞ」
「・・・九条君が近いです」
「傘が小さいからね」
「三万円もするのに?」
「値段と大きさは関係ないらしい」
病院から駅へ向かって歩く。雨音を聞いていると、二日前に雨宮から聞かれた言葉が、また頭へ浮かんだ。
『私が普通になったら、九条君は、私に飽きますか?』
「雨宮」
「何ですか?」
「この前の質問の返答だけど」
雨宮の足が、僅かに遅くなった。
「答え、出たんですか?」
「まだ分からない」
「・・・そうですか」
「でも、分からないことが怖いと思った」
雨宮が俺を見上げる。
「俺は今まで、誰かを失うことを怖いと思ったことがない。興味がなくなれば、離れればいいと思ってた。でも、お前を失うかもしれないと考えたら・・・それは嫌だった」
「それは、どういう意味ですか?」
「俺にもまだ分からないよ」
「そこまで言って、分からないんですか?」
「初めて・・・だからな」
雨宮は少し不満そうな顔をした。それから、傘を持つ俺の腕へ、自分の腕をそっと絡ませる。
「何?」
「傘が高いのに小さいみたいなので」
「値段と大きさは関係ないからな」
「そうみたいですね」
理由になっていない気もする。だが、離してほしいとは思わなかった。
「一つだけ、分かったことがあるよ」
「何ですか?」
「俺は、お前を失うのが怖い」
雨宮はなにも答えなかった。ただ、俺の腕へ絡めた手に、少しだけ力を込めたのだった。
きゃああああああああ、九条君がついに照れたぁあああああああぁあああ!
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