27話
『雫。お前に直接話したいことがある。一度だけ、面会に来てほしい』
雨宮は父親から届いた手紙を、何度も読み返していた。文章はそれだけだった。謝罪も、母親を心配する言葉も、どうして会いたいのかも書かれていない。
「行くのか?」
「まだ・・・分かりません」
「会いたくないなら、捨てればいい」
「でも、聞きたいことがあります」
「五千八百万円の行方?」
「それもあります。でも・・・どうして私だったのか、聞きたいです」
「どうして私だったのか?」
「お父さんには自分の生命保険もありました。会社だって、土地だって、ほかに売れる物はあったはずです。それなのに、どうして私へ死ねって言ったのか」
そんなもん答えは簡単だ。自分が死にたくなかっただけだろ。
会社も土地も、自分が使える物は手放したくなかった。だから一番抵抗せず、自分の言葉を信じる娘を選んだ。
おそらく、それだけだろう。だが、俺が代わりに答えることはできない。
「なら、会えばいいさ」
「九条君も来てくれますか?」
「俺も?」
「一人で行ったら、またお父さんの言うことを信じてしまうかもしれません」
「信用ないね、自分に」
「あります。でも、お父さんに関しては、一度失敗してるので」
屋上から飛び降りようとしたことを、失敗の一言で片づけるのか。・・・随分と強くなったものだ。
「分かった。もちろん一緒に行くとするよ」
「ありがとうございます」
「ただし、俺が殴りかかりそうになったら止めてね」
「私が止めるんですか?」
「ほかにいないだろ?」
「警察の人が止めますよ!」
それもそうだな。
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面会の日は、二日後に決まった。父親が拘束されている施設まで、雨宮と二人で電車を乗り継いで向かった。
建物へ入る前から、雨宮はほとんど喋らなかった。受付を済ませ、荷物を預け、案内された椅子へ座っても、両手を膝の上で固く握っている。
「やっぱ帰るか?」
「いいえ、帰りません」
「まだ会ってないけど、顔色悪いよ」
「緊張してるだけです」
「俺の手でも握るか?」
「どうして嬉しそうなんですか?」
「雨宮から握ってくれる機会なんて、そうそうないから」
「なら結構です」
断られた。だが、名前を呼ばれて立ち上がったとき、雨宮は俺の制服の袖を小さく掴んだ。
手ではないが、まぁいいか。
面会室へ入ると、透明な仕切りの向こうに雨宮茂が座っていた。
最初に会ったときとは違い、髪は乱れ、頬も少し痩せている。着ている服も、逃げていたときの高そうなものではない。
それでも、娘を見る目だけは変わらなかった。
「雫」
雨宮の指が、俺の袖を強く掴んだ。
「・・・何ですか」
「どうして、その男までいる?」
「私が頼みました」
「家族の話だ。外してもらえ」
「嫌です」
雨宮は一度も俺を見ず、父親だけを見て答えた。
「九条君に聞かれて困ることを、私へ話すつもりですか?」
「・・・随分と口が回るようになったな」
「お父さんが、私に死ねと言ったからです」
父親の顔から、僅かに表情が消えた。
「あの言葉は、本気ではなかった」
「へぇ~」
思わず声が漏れた。
「本気じゃないのに、娘の保険金の受取人を自分の会社へ変えたんですか?」
「君には関係ない」
「あるよ。俺、そのせいで階段を十階まで走ったからね」
「九条君。今は黙っててください」
「はい」
怒られてしまった。雨宮は仕切りの前へ座り直した。
「本気じゃなかったなら、何だったの?」
「お前が母さんのことを、どこまで大切に思っているか確かめたかった」
「嘘」
父親が言い終わる前に、雨宮が否定した。
「私が死ねば、お父さんの会社へ一億円が入るようにしてた。お母さんには一円も入らなかった。全部調べました」
「あれは、一時的に会社で受け取る形にしただけだ。そのあと母さんの治療費も、借金も払うつもりだった」
「五千八百万円を同じ会社へ送って、どこかへ消したのに?」
父親の眉が僅かに動いた。どうやら、俺たちが送金記録を見つけたことは知らなかったらしい。
「書斎に記録が残ってました。警察にも、弁護士にも渡しました」
「雫。あの金は、俺たち家族がやり直すために必要なんだ」
「私たちじゃなくて、お父さんが逃げるためでしょう?」
「違う。会社さえ立て直せば、すべて元に戻せた」
「もう会社は潰れた。家も手放します」
「何だと?」
父親が初めて大きな声を出した。
「勝手なことをするな!あの家がいくらすると思ってる!」
「私とお母さんの家です。お父さんが借金の担保にしたから、私たちで手放すことにしました」
「俺が戻れば、まだ何とかできる。雫、お前が警察へ誤解だったと話せば――」
「誤解じゃありません」
「父親を犯罪者にしたいのか?」
「自分でしたことでしょう!」
雨宮の声が面会室へ響いた。係の人間がこちらを見たが、雨宮は止まらなかった。
「お父さんは、私が死ぬと思ってた。私が死んだあと、一億円を受け取って逃げるつもりだった。違うなら、私の目を見て言ってよ!」
父親は何も言わなかった。その沈黙だけで十分だった。
「どうして、私だったの?」
雨宮の声が小さくなる。
「お母さんを助けたいなら、お前が死ねって。どうして、私なら死なせてもいいと思ったの?」
「・・・お前は、昔から母親の言うことなら何でも聞いた」
「それだけ?」
「俺まで死んだら、誰が母さんを守る?」
「守ってないでしょう!」
父親は、自分が死にたくなかった。そして雨宮なら、母親のためと言えば自分から死ぬと思った。
本当に、それだけだったらしい。
「雫。今からでも遅くない。俺に協力すれば、隠した金の一部を母さんへ――」
「いりません」
「話を最後まで聞け」
「いらないって言ってるんです」
雨宮は震えながら、それでも父親から目を逸らさなかった。
「お母さんは手術を受けられます。家はなくなるけど、借金も弁護士さんと整理します。もう、お父さんのお金は必要ありません」
「その男に払わせたのか?」
「九条君は、自分で稼ぎました」
「九条の名前で集めた金だろう。結局、お前は次の男に利用されてるだけだ」
雨宮の表情が変わった。
「この男がお前を助けるのは、お前が珍しいからだ。死にたがる娘が面白くて、自分の退屈を紛らわせているだけだろ?」
「黙ってください」
「事件が終わって、お前が普通の女になれば、すぐに飽きる。九条の御曹司が、本気でお前と一緒に生きると思っているのか?」
「黙って!」
「ねぇ、雨宮」
俺が呼ぶと、雨宮がこちらを向いた。
「言わせておけばいいよ」
「でも・・・」
「俺が何を考えてるか、父親よりお前のほうが分かるだろ?」
雨宮は何かを答えようとして、口を閉じた。分からないのかもしれない。
俺自身ですら、まだよく分かっていないのだから当然だ。
「お父さん」
雨宮はもう一度、仕切りの向こうを見た。
「私、あの日、本当に屋上から飛び降りようとしました」
「・・・」
「お父さんの言葉を信じて、私が死ねば、お母さんが助かると思ってました。でも、飛びませんでした」
雨宮は俺の袖から手を離した。今度は、自分の両手を膝の上へ置く。
「私は死ななかった」
父親は、何も答えなかった。
「もう、お父さんのためにも、お金のためにも死にません。私が生きるかどうかは、私が決めます」
「雫・・・」
「私の父親だった人へ、言いたかったのはそれだけです」
雨宮は立ち上がった。面会時間はまだ残っていたが、もう話すことはないらしい。
俺も立ち上がる。
「九条司」
部屋を出る直前、父親に名前を呼ばれた。
「何?」
「お前は雫を救ったつもりか?」
「そんな立派なことをしたつもりはないよ」
「なら覚えておけ。お前が興味を失ったとき、今度こそ雫は死ぬ」
雨宮の足が一瞬止まった。俺は父親へ何も返さず、面会室を出た。
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帰りの電車で、雨宮はずっと窓の外を見ていた。父親へ言いたいことは言えたはずだ。それでも、晴れた顔はしていない。
生まれてから家族だった人間を切り捨てて、すぐに笑えるわけもないか。
「九条君」
「何?」
「お父さんが言ったこと・・・本当ですか?」
「どれ?」
「私が珍しくて、面白いから助けたって」
・・・最初は、そうだったかもしれない。
人が飛び降りるところを見たくて、階段を十階まで走った。死ねば一億円になると聞き、今までにないほど心が躍った。
それを否定すれば嘘になる。
「本当だよ」
「・・・そうですか」
雨宮の声が、僅かに沈んだ。
「じゃあ、全部終わったら?」
「全部?」
「お母さんの手術も、借金も、家のことも終わって、私が普通になったら・・・九条君は、私に飽きますか?」
俺はその問いにすぐに答えることができなかった。
しばらく黙ったままでいると、雨宮も何も言わず、もう一度窓の外へ顔を向けた。
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