3話
昨日死にたがってた少女――雨宮雫は、ホームルームが終わった瞬間に教室から逃げ出した。
いや、逃げたは言い過ぎ、普通にトイレに行っただけかもしれない。走り出すほど我慢してたのかな?
だが、一時間目が終わったときも、二時間目が終わったときも、俺が席を立つより先に教室から消えた。これはどう考えても、俺を避けているな。
昨日はあんなに熱い契約を交わした仲だというのに、ずいぶんな扱いではないだろうか。司君はとても悲しんでおります。
「なーに?九条君、雨宮さんと知り合いだったの?」
そう話をかけてきたのは、昨日名前を思い出せなかった前の席の女子、橘いちかだった。今朝、本人にもう一度聞いたら「昨日教えたじゃん!」と若干怒られたが、今度はちゃんと覚えたぞ。
そして今日も彼女の机の周りには人が集まっている。新学期二日目にして、すでにこのクラスの中心人物になったらしい。美少女ってすげーとも思ったが、容姿に限らず、コミュ力とひと隣りも彼女が人気な理由なんだろうな。恐るべき。
「いやなに、昨日、たまたま知り合ったよ」
「ふーん?どこで?」
「ビルの屋上」
「屋上? 何してたの?」
「さてな、それは本人の許可なく話せないな」
「なにそれ! 余計に気になるんだけど!」
周りにいた囲いたちまで、興味深そうにこちらを見た。
これ以上話すと、雨宮が戻ってきたときに殺されそうだな。あいつは自分が死ぬのを一週間延期したばかりなのだから、殺人犯にするのはさすがに申し訳ないぜ。俺が先に死ぬわけにはいかん!
「雨宿りをしてたら、たまたま会っただけだよ」
「へー……」
橘は、明らかに納得していない顔をしていたが、ちょうどそのとき、教室の後ろの扉から雫が戻ってきた。
俺と目が合うと、雨宮は一瞬だけ立ち止まり、いちかたちが俺を囲んでいるのを確認すると、何も言わず自分の席へ戻った。
もちろん俺も何も言わない。ただ、笑顔で小さく手を振ってあげた。
なのに雨宮はものすごく嫌そうな顔をして、窓の外へ顔を向けた。
うん。今日も元気そうで何よりだ。
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昼休み。
雨宮はチャイムが鳴ると同時に、鞄から小さなパンを一つだけ取り出して教室を出ていった。
一方のおれはというと、机には後藤さんが届けさせた昼食が置かれている。
三段の弁当箱を開けると、よく分からない高級そうな魚や肉や野菜が、食べやすい大きさで綺麗に詰められていた。
「九条君のお弁当、今日もヤバいね。これ一食いくらするの?」
「知らね」
「自分のお弁当なのに?」
「俺が作ったわけじゃないからな」
「御曹司ってやっぱりデタラメだわ……」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
ふと窓の外を見ると、中庭の隅に雨宮がいた。一人でベンチに座り、さっきのパンを少しずつ食べている。
昨日の話が本当なら、家には六千万円の借金があり、母親の治療費も払えない。昼食に金を使う余裕などないのだろう。
・・・俺の弁当一つで、あいつなら何日食べられるのだろうか。
少し考えて、弁当の蓋を閉じた。
「九条君、もう食べないの?」
「食べるよ。外に雨宮が一人で食べてるから寂しくないように、一緒に食べようかなと」
「雨宮さん?本当だ。それなら私も一緒・・・」
「いや、それはまだ今度にしよう。あいつ意外とシャイなんだ」
「はぁ、何それ?」
適当にしゃべってるから深入りするな。雨宮と二人でご飯食べたいってことだ。
そうこうしているうちにもう一度中庭を見た、そこにもう彼女の姿はなかった。パン一個だから食べるのも早いな。しくしく
結局、弁当は教室の自分の席で全部食べた。
でも今考えてみると。勝手に腹がすいてると思って、急に高そうな弁当を持って追いかけられても困るだろうし。
それに今の雨宮が欲しいのは、俺の食べ残しではない。
自分が死ねば、本当に母親を助けられるのか。
俺が渡すべきものは、飯などではなく、その答えだ。
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そして迎える放課後、雨宮は帰りのホームルームが終わる前から鞄を膝の上へ置いていた。
担任が「今日はここまで」と言った瞬間、立ち上がった。
逃げる気満々だな?
「おーい、雨宮」
俺が名前を呼ぶと、雨宮の足が止まった。
教室に残っていた何人かが、同時にこちらを見る。
「……何ですか」
「昨日の約束、忘れたのか?」
「ここでその話をしないでください!」
小声で怒られた。
「なら場所を変えよう」
「今日は病院へ行かないといけないんです」
「十分だけでいい」
「何をするんですか?」
「確認と報告だ」
雫は俺を睨んだまま、しばらく黙っていた。
その話を出されると断れない。自分でも分かっているらしい。
「……十分だけですからね」
「交渉成立だな」
「何でも契約みたいに言うの、やめてもらえます?」
「嫌だね。口約束より、そのほうが面白そうだろ?」
「昨日から、そればっかり……」
雫は深いため息をつき、先に教室を出た。二人で空いていた特別教室へ入り、そっと扉を閉めた。
念のためもう一度廊下を確認してから、俺へ向き直った。
「昨日のことは、絶対に誰にも言わないでください」
「屋上から飛び降りようとしていたこと?それとも一億?」
「声が大きい!」
「誰もいないぞ?」
「そういう問題じゃありません!」
今日一日俺を避けていた理由は、これか。
「分かった。お前が話していいと言うまで黙っておく」
「……それでお願いします」
「はいよ」
雨宮はまだ疑うように俺を見ていたが、やがて鞄から透明な袋を取り出した。昨日、屋上で見せられた保険関係の書類だ。
「これを調べればるんですよね」
「あぁ。貸してくれ」
「嫌です」
「なんでだよ」
「見せるだけです。持っていかないでください」
袋を胸へ抱きしめたまま、こちらを警戒している。
「一億円の書類を盗むほど、金には困ってないよ」
「あなたが何者なのかも、私はまだ知らないんです」
「同じクラスの九条司」
「それ以外の話です」
どうやら本当に知らないらしい。それなりに有名人だぜ?・・・父親が・・・
俺はスマートフォンを取り出し、自分の名前を検索して画面を見せた。
九条財閥会長の父親と並んで写っている写真。慈善晩餐会へ出席したときの記事。ついでに、勝手に計算された我が家の推定資産まで出てきた。おぉ・・・こりゃすげー額だ。
雨宮は画面と俺の顔を交互に見た。
「九条って……あの九条財閥?」
「おそらく、たぶん、メイビー。その九条だな」
「何でそんな人が、昨日ずぶ濡れでビルの下にいたんですか?」
「傘を持ってなかったから」
「……忘れたんですか?」
「いや? 生まれてから一度も持ったことがない」
「ちょっと意味が分かりません」
「昨日、クラスの女子にも似たような顔をされたよ」
雨宮は頭が痛そうに額へ手を当てた。財閥の御曹司だと知った驚きより、傘を持ったことがない事実のほうが理解できないらしい。
失礼だな。俺にとっては昨日まで、それが普通だったのだ。
「これで信用できた?」
「お金を持ってることだけは分かりました」
「それで十分だ」
ようやく雫が袋を差し出した。中身を机へ並べ、スマートフォンで一枚ずつ撮影していく。
保険証券。契約内容の案内。保険料の支払いを示す紙。そして父親から届いたメッセージの印刷。
死亡保険金、一億円。
受取人、雨宮咲。
「雨宮咲っていうのが、お前の母親?」
「はい」
「父親の名前は?」
「雨宮茂です」
「ん?この保険会社……」
証券の端に印刷されている社名には見覚えがあった。
九条生命保険株式会社。と
思いっきり身内じゃねーか。
「何ですか?」
「いや、思っていたより早く調べられそうだ」
「本当に分かるんですか?」
「契約が今も有効か。保険料が払われているか。受取人が本当に母親のままか。それくらいならな」
「……そうですか」
雨宮の表情が少しだけ緩んだ。安心した、という顔ではない。
もし一億円が母親へ支払われると分かれば、雨宮はまた死ぬつもりなのだ。
自分の死が無駄にならないと確認できることを、希望みたいに待っている。
ずいぶんと壊れた希望だな。
「連絡先も教えてくれ」
「どうしてですか?」
「結果が分かったときに連絡するためだ。それと一週間、勝手に死んでないか確認する」
「監視する気ですか?」
「契約を守っているかの確認だよ」
「言い方を変えただけですよね?」
文句を言いながらも、雨宮はスマートフォンを取り出した。
連絡先へ『雨宮雫』と登録する。たったそれだけなのに、昨日まで何の関係もなかった少女が、俺の日常へ勝手に入り込んできたような気がした。
「これで契約成立だな」
「昨日もう成立したんじゃないんですか?」
「今日は追加契約だ」
「面倒くさい人ですね……」
「よく言われる」
「私しか言ってないと思いますけど」
雨宮は書類を袋へ戻すと、壁の時計を見た。
「もう行きます。お母さんの面会時間に遅れるので」
「病院まで送ろうか?」
「結構です」
「遠慮しなくていいぞ」
「昨日会ったばかりの男の車に乗るほど、私は不用心じゃありません」
「昨日会ったばかりの男の前で飛び降りようとはしてたけどな」
「それとこれとは別です!」
そう言い残して。彼女は逃げるように教室を出ていった。




