2話
面白そうなものを見つけたからには、近くで見てみたい。それが人間の性というものだろう。
ビルの入り口を押すと、扉は普通に開いた。あの女が先に入っているのだから、当然と言えば当然だろう。
そのままエレベーターのボタンを押したが、頭上の表示は八階で止まっていた。
「来ねぇ.......」
こんなものを待っていたら、俺が屋上へ着く前に飛ばれてしまうかもしれないだろう!どう責任取るんだよ!
エレベーターをあきらめ、すぐに非常階段へ飛び込んだ。全力で十階まで駆け上がる!面白そうなものを見つけたのに、間に合いませんでしたでは笑えないぜ!
息を切らしながら屋上へ続く鉄扉を押し開けると、強い風と雨が一気に顔へとぶつかってきた。
顔に叩きつけられた雨を片手で払い、屋上へと踏み込む。俺の手から離れた扉が、背後でバタン!と大きな音を立ててしまった。
そのせいで、少女もこちらに気づいてゆっくりと振り返った。
長い黒髪が頬へ張りつき、制服も頭から足元までずぶ濡れになっている。顔立ちはかなり整っていた。学校にいたなら、前の席の女子とは別の意味で目立っていただろう。
雨なのか涙なのかは分からないが、その目元も濡れていた。
「来るな!それ以上近づいたら、今すぐに飛びます!」
「やめろ!それは困る!」
「だったら来ないでください!」
「いや、もう少しだけ待ってくれ。俺が見やすい場所に移動してから飛び降りてくれ」
「............はぁ?」
俺がそう告げると、彼女は信じられないような表情で俺を見つめていた...
「あなた.......何をしに来たんですか?」
「だから、見に来たんだよ。お前が飛び降りるところを」
「ふざけないでください。私は本気です!」
「いや俺も本気だけど?」
なんか冗談だと思われたらしい。少女は怒ったように眉を寄せ、柵を握る手に力を込めた。
「私は......私は本当に飛びます。」
「そうなんだ」
「.......そうです」
「いいね!」
「何が......いいんですか?」
「俺、人が飛び降りるところを一度、生で見てみたかったんだ」
「.............」
「俺のことは気にしなくていいよ!さぁ!どうぞ、どうぞ!」
鞄を陰へ置き、壁際のちょうど見やすそうな場所へ移動した。もちろん撮影するような趣味はない。俺はただ、純粋にこの目で見てみたいだけだ。経験としてね
少女は今にも飛び降りそうだった顔から一変し、珍獣でも見るような目で俺を見つめていた。
「止めないんですか?」
「止めてほしかったのか?」
「違います!」
「じゃあ問題ないね」
「でも普通は止めるでしょう!」
「普通の人に見つけてもらえなくて残念だったね!どんまい」
「最低です」
「初対面の人間に期待しすぎじゃない?」
「見られていたら飛べません! どこかへ行ってください!」
「それは嫌だね」
「どうしてですか!」
「せっかくこの雨の中。ビルの階段を十階まで走ってきたのだぜ?見逃すのはもったいないだろ?」
「悪趣味にもほどがあります!」
ずいぶん元気になったな。俺が来たときより声も大きい。
「私の命を何だと思ってるんですか?」
「お前のものだと思ってるよ」
「えっ……」
「お前の命なんだから、どうするかはお前が決めればいい。俺が勝手に止める権利もないだろ? だから気にせず続けてくれ」
少女は何か言い返そうと口を開いたが、言葉が出なかったらしい。諦めたようにもう一度前へと向き直った。
俺もそれ以上は話しかけず、少女が飛ぶのを待つ。
一分。二分。三分...。何分待ったのだろう...
結局少女は飛ばなかった。柵の向こうで両手を強く握り、身体もよく見ると少し内側へ傾いていた。
おい、早くしてくれよ!俺もそこまでひまじゃないんだぞ!!......いや、今日は暇だったな。
「.......理由を聞かないんですか?」
先に沈黙に耐えられなくなったのは、少女のほうだった。
「聞いてほしいの?」
「別に」
「じゃあ聞かない」
「あなた、本当にむかつきますね」
「最低から、むかつく人に昇格した?」
「してません!」
少女は吐き捨てるように答え、そのまま黙り込んだ。
また雨の音だけが続く。今度こそ飛ぶのかと思ったが、少女は足元を見つめたまま動かない。
「それで?」
「.......何がですか」
「さっきから飛ぶ、飛ぶと言ってる割に飛ばないだろ。何あきらめ?」
少女の肩がわずかに揺れた。
「結局.......何も変わらないんです」
「そうだろうね」
「私は死なねばならないのです」
「いずれ人は死ぬ、それが今か後かだけだ。俺は今死ぬ気はないけどな?」
「ハハ...そうですね......ごもっともです。.......一億円になるんです」
「ほう?」
「私が死ねば.......一億円になるんです」
おっと.......?マジで?めっちゃ興味が湧いてきた。いや、今までの人生で一番今俺の心は、踊っているかもしれない。
「それはまた、ずいぶんと高価な身体だな?ぜひ詳しく聞かせてくれよ」
「やっぱり、あなたは最低です」
そう言いながらも、少女は制服の内側から透明な袋を取り出した。中には何度も折り畳まれた書類が入っている。
「お父さんの会社が潰れたんです。借金は六千万円。家も土地も担保に入っていて、お母さんは連帯保証人になっています」
「ほう、よくある経営者の話だ。で?その父親は?」
「一週間前に逃げました。家にあったお金も、車も、持っていける物は全部持って」
少女は悔しそうにそうおれに告げた。そして、透明な袋から一枚の書類を取り出した。
「あの人が残したのは、借金とこれだけです。私にかけられた多額な生命保険。死亡保険金は一億円で、受取人は私のお母さんになってる」
「ほうほう、娘へ保険の書類を残して、自分は逃げたってのか」
「メッセージもありました」
「どんな?」
「『母さんを助けたいなら、お前が死ね』」
風が荒れ吹き、少女が震えたそういった。
「『お前の命には一億円の価値がある』って」
なるほどな。父親が娘へ残した最後の言葉が、謝罪でも別れの挨拶でもなく、自分の命を金に換えろとはね。
「お母さんは病気なんです。手術を受けないと助からない。でも、もう治療費も払えない。私が死ねば借金を返せます。お母さんの手術もできる。残ったお金で家だって守れる」
「借金が六千万。保険金が一億円。差し引き四千万か」
「それだけあれば、お母さんは生きられます」
「つまり、お前一人が飛び降りるだけで全部解決するんだな?」
「.......そうです」
「いいね。実に合理的だ」
「だから、止めないでください」
「最初から止めてないだろ。むしろずっと待ってるんだけど」
少女は傷ついたような顔をした。自分で口にしたくせに。本当は止めてほしいのか?
しばらくしてついに覚悟を決めたのか、少女は右足を少しだけ前へ動いた。どうやら本当に飛ぶようだ...
「まぁ、いったん落ち着け。そしてよく考えてみろよ」
俺が話をかけたことで、彼女の動きは再びに止まった。そして、俺の方へと振り返り、会話を求めた。
「……何をですか?」
「その一億円、果たして本当に支払われるのか?」
「.......え?」
「その契約書は今も有効? 保険料は払われる? 自分で飛び降りた場合も支払いの対象になるか?」
「そ、それは...」
「それと受取人は本当に今も母親?書類が最新だという証拠は?」
「で、でも書類には、お母さんの名前が.......」
「六千万の借金を作って、金を持って逃げた父親なんだぜ? そんな男が残した『お前が死ねば母親が助かる』という言葉を、なぜおまえはそんなに素直に信じるんだ?」
少女の顔から、みるみるうちも血の気が引いていった。
「もし、お前が飛び降りて一円も支払われなかったらどうする?」
「や...やめて...」
「母は娘を失い。借金も結局残る。もちろん手術も受けられない。お前は助けたつもりで、母親の絶望を一つ増やすことになる」
「だからやめてって言ってるでしょ!」
「自分が死ねば、母親へ一億円が支払われる。その前提が間違っていたら、お前はくそおやじのために、無駄死にをする。確認もしないまま飛ぶのは、悪いがとても合理的とは思えないよ」
「......じゃあ、私はどうすればいいんですか!」
「きちんと調べればいい、関連するすべてをな」
「そんなの無理です!もう父親はいません!」
「ならばすべてを俺に任せてみろ」
少女は頭のおかしい人を見るような目で俺を見た。失礼だな。さっきから飛び降りようとしているお前にそんな目をされたくねーよ。
「なぜ...どうして、あなたがそこまでするんですか?」
「それはね......面白そうだからだ」
「……それだけ?」
「ほかになんか必要か?じゃあお前に一目ぼれしたからとかでどうだ?これで満足か?」
俺は柵の手前まで歩き、少女へ右手を差し出した。当然まだ届かない。
「じゃあ私は、どうすればいいんですか。このまま家に帰って、お母さんが死ぬのを待てって言うんですか?あなたが本当にできるかもわからないのに!」
怒鳴るような声だった。けれど、その中には初めて、誰かに答えを求める響きが混ざっていた。
「一週間だけだ」
「一週間……?」
「契約内容、受取人、保険料の支払い状況。それから、お前の父親がどこへ消えたのか。俺が全部調べあげてやる」
「......そんなこと、あなたにできるんですか?」
「当然だ、俺を誰だと思ってる?」
「知りません」
「あっ、そういえば自己紹介してなかったな」
俺は少し考え、笑ってみせた。
「まぁ、今はまだ知らなくていい。とにかく俺が全力でお前を助けようとしてみせるよ」
「助けようと……してみせる?」
「助かる保証まではしてないからな」
「そこは助けるって言い切ってくださいよ!」
「嘘は嫌いなんてね」
少女は呆れたように俺を見た。
「もし調べた結果、本当に私が死んだほうがいいと分かったら?」
「そのときはもう止めない。だが一番近くで見届けさせてくれ」
「二言はないですね?」
「あぁ、約束する」
「ここで飛んで一億円が支払われることに賭けるか。一週間待って、全部確かめてから飛ぶか。好きなほうを選べばいいさ」
少女は長い間、俺の手を見つめていた。
やがて柵を握り直し、外ではなくこちら側へ片足を戻そうとした。そのとき、濡れた靴底が滑り、身体が一瞬だけ外へ傾いた。
「危なっ!」
俺の右手が反射的に動いたが、少女は自分で柵を掴み直した。そのままゆっくりとこちら側へ降り、その場に座り込む。
「勘違いしないでください。生きることにしたわけじゃありませんから」
「あ、あぁ......分かってるよ」
「一週間、延期しただけです」
「それでいい」
「もし騙したら、絶対に許しません」
「安心しろ。俺は綺麗事も言わないし、できない約束もしない」
少女は床に座り込んだまま、しばらく俺の顔を見つめていた。
「.......変な人ですね」
「よく言われる」
「初対面の女の子に、飛び降りるところを見せてくれなんて言う人、ほかにいませんよ」
「俺も、お前が初めてだよ」
「褒めてません」
「知ってる」
少女は小さく息を吐くと、まだ震えている右手を俺へ差し出した。
「一週間ですからね」
「あぁ」
「それを過ぎたら、私がどうしようと邪魔しないでください」
「約束する」
その手を掴む。
氷みたいに冷たかった。雨に濡れていたからなのか、ついさっきまで死のうとしていたからなのかは分
からない。
「それじゃあ、契約成立だな」
「勝手に契約にしないでください」
「口約束より、そっちのほうが面白そうだろ?」
「本当に、あなたは......」
少女は何か言いかけ、結局、諦めたように口を閉じた。
こうして、名前も知らない少女の飛び降りは、一週間だけ延期された。
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翌朝、教室へ入った俺は、昨日まで空いていた窓際の席を見て足を止めた。艶やかな黒髪。綺麗な青色の瞳、そして、見覚えのある不機嫌そうな顔。
昨日、屋上から飛び降りようとしていた少女が、何事もなかったように座っていた。
「おはよう」
試しに声をかけてみると、少女は目を見開いたあと、すぐに顔をしかめた。
「どうして、あなたがここに......」
「それはこっちの台詞だよ」
ちょうどそのとき、担任の先生がが教室へと入ってきた。
「ほら、席に着け。お?新学期の初日に休んだ不良生徒も来てるな。体調はもう大丈夫か、雨宮」
「……はい」
雨宮、雫。
それが、自殺しようとした彼女の名前だった
俺は自分の席へ座りながら、思わず笑ってしまった。死ねば一億円になる少女が、まさか同じクラスだったとは。
高校二年生の新学期。
どうやらあと一週間は、退屈せずに済みそうだ。




