1話
雨宮雫の命には、どうやら一億円の価値があるらしい。
俺がそれを知ったのは、高校二年生になった最初の日。決して忘れもしない彼女との出会いの日だった。
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自慢ではないが聞いてくれ。俺は生まれてこの方、一度も傘を持ったことがない。
雨の日に家を出れば、使用人が玄関先で傘を差している。その下を数歩よちよちと歩いて車に乗り、学校に着けば、運転手が屋根のある場所へ車をつける。なければ傘をさしてくれる。もちろん帰りも同じだ。だから傘という物は知っていても、自分で持ち歩く物だという認識はなかった。
九条財閥。その名前を知らない人間は、この日本国内にはほとんどいない。
銀行、不動産、保険、医療、通信。生活のどこかで必ず九条の名前を目にするとまで言われる巨大な企業で、俺はその九条家の一人息子だった。俗に言う御曹司、財閥二世だ。
傘を持ったことがないと言えば、たいていの人間は冗談だと思うかもしれないが。俺にとっては、別に傘だけの話でもない。電車などの乗り物の切符を買ったこともなければ、店の会計で待ったこともない。欲しい物は口にすれば用意され、面倒ことは俺が知るより先に誰かが片づける。
俺の人生では、それが普通だった。まさにイージーモードで......退屈で....くださいない人生なのだ.......
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高校二年生の始業日も。今日の朝も空はよく晴れていた。
クラス替え初日の教室はもちろん騒がしい。去年からの知り合いを見つけて喜ぶ者もいれば、さっそく隣の席へ話しかけている者もいた。
ひときわ目立っていたのは、俺の前の席に座った女子だった。
明るく染めた茶色の髪を肩の辺りで揺らし、誰に話しかけられても相手の名前を呼んで笑う。別のクラスから来た生徒まで彼女の席へ顔を出し、休み時間になるたびに机の周りへ人だかりができていた。
当の本人もそれを嫌がる様子はなく、むしろ楽しそうに会話の中心へ収まっている。新しいクラスで友人を作ろうとしているというより、彼女がいる場所へ勝手に人が集まってくるように見えた。
そんな彼女が何度か振り返り、俺にも話しかけてきた。
「ねぇねぇ!九条君って、あの九条財閥の九条君なんだよね?」
「あぁ?おそらく、たぶん、メイビー、君が言うその九条君だと思うよ」
「たぶんって何それ。テレビで見たことあるし」
彼女が笑うと、周りにいた女子たちもつられて笑った。俺の机の周りにも何人か集まってきたが、何を話したかはほとんど覚えていない。
誰と同じクラスになっても、特段に俺の生活が変わるわけではない。大抵俺に近づいてくる人間は、九条司本人に興味を持っているか、あるいは九条財閥の後継者として興味を持っているのか。今となると、もういちいちそんなことを考えるのも飽きていた。
覚えているのは、窓際に一つだけ空席があったことくらいだった。初日から休むなんて珍しいとは思ったが、それだけだった。
放課後、下駄箱に行くと、外は笑えるほどの大雨になっていた。後藤さんはまだかな?
「あれぇ?九条君じゃん!外すごい雨だね!折り畳み傘持ってきてよかった!九条君は?」
朝から休み時間のたびに人に囲まれていた、前の席の女子が声をかけてきた。下駄箱でも友
人らしい女子が二人、少し離れたところで彼女を待っている。
「持ってないよ」
「え、忘れたの?おっちょこちょいところあるんだな、九条君にも」
「いや?生まれてこの方16年、一度も持ったことがないさ」
「……傘を?」
傘を」
彼女は笑いかけた顔のまま固まり、俺を見つめていた。それから外の大雨を見て、もう一度
俺の方を見た。
「財閥の御曹司って、そこまでデタラメなんだね……」
小さく漏れた本音に、少しだけ引いているのが分かった。
「自分で傘を持つ必要があるって、今日初めて知ったよ」
「自分のことなのに?」
「うん」
「あきれるわねまったく.......、じゃあ駅まで一緒に行く? ちょっと狭いけど」
彼女はそう言って、薄い水色の傘を持ち上げた。
「そろそろ迎えが来るから大丈夫だよ。心配してくれてサンキュー」
「そっか.......。じゃあ、また明日ね」
「あぁ。また明日な」
彼女は少し残念そうな雰囲気を出し、待ってた友達と合流し帰っていた。彼女の名前も朝に聞いたはずだが、どうしても思い出せなかった。明日までに覚えておこう。
彼女と入れ替わるように、今度はポケットの中でスマートフォンが鳴った。
『誠に申し訳ございません、司様。交通事故による渋滞に巻き込まれました。到着までおそらくまだ二十分ほどかかります、今しばらくお待ちください。』
後藤さんからだった。本人が事故ったわけじゃなくてとりあえず一安心、後藤さんが遅刻することはめったにないから少し心配したよ......それにしても......
二十分かー。待てないほどではないが。大勢の生徒たちが行き交う下駄箱で、何もせずに突っ立っているのは、さすがに退屈だ。
『わかった。歩いて帰るとするよ』
後藤さんに返信して、俺は校舎を飛び出した。すぐに電話がかかってきたが、画面を伏せてポケットへと戻した。
あとで俺がずぶ濡れになった姿を見せれば、しばらく焦った顔をするだろうな。それを想像すると、大人しく来るのを待つよりは少しだけ面白そうだった。もちろん、雨の日に濡れながら帰るというイベンドも、一度は経験してみたかった。
人生初のずぶぬれ状態での帰宅は、思っていたより最悪だった。
数分で髪から水が滴り、シャツがびしょ濡れで肌へ張りつき。靴の中にも水が入り、歩くたびにぐしゅ、ぐしゅ、と気持ちの悪い音がする。
なるほど?どうやらみんなが雨の日に傘を持つのには、ちゃんと理由があったみたいだな?
まぁでも、初めての経験ってやつはたいてい想像していたほど面白くないのは、俺がよく知っている。このずぶ濡れでの帰宅も、もう十二分ほど飽きてきた。
道半ぱまで来たところで、雨がさらに強くなってきた。さすがに鬱陶しくなり、目についた雑居ビルの下へと避難した。
そろそろ後藤を許してやろうと、現在地を送るためにスマートフォンを出そうとしたとき、大きな水滴が頭上に落ちてきた。
「はぁ.......」っと溜め息をつきながら後悔して、何気なく空を見上げると。
十階建てのビルの上に、人が立っていた。天気が悪くてよくは見えないが。
黒い髪。紺色のスカート。身に纏うブレザーには見覚えがある。今、俺が着ている制服とまったく同じものだ。俺はズボンだけどな。
そしてもう一つ、彼女がいるのは、落下防止柵の内側ではなかった。
足を滑らすと、落ちる。建物の縁に近い、柵の向こう側。
「へえ~」
思わずに声が漏れてしまった。なぜなら俺が見たその景色は.......
雨に濡れて帰るより、ずっと面白そうだったからだ。




