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24話

六百万円の契約書には、雨宮雫という名前は一度も書かれていなかった。

 

 その代わり、もっと都合のいい言葉がいくつも書かれている。

 

『乙と行動を共にする人物』

 

『乙の生活へ密接に関係する第三者』

 

『本件取材中に偶然撮影された人物および音声』

 

 名前を書かなくても、これなら雨宮をいくらでも撮影できるというわけだ。なかなかやるねー。どうしてやろうか?

 

「これ、駄目じゃないですか?」

 

「駄目だね」

 

「さっき、私の個人情報は扱わないって言ってましたよね?」

 

「名前を書かなければ嘘にはならないと思ったんだろ?」

 

「汚い・・・」

 

「契約書って、そういうものだよ」

 

 もちろん、全部が相手を騙すために書かれているわけではない。街中で撮影すれば、通行人が映ることもある。店へ入れば、店員の声も入る。そのたびに全員から許可を取っていては、取材などできないだろう。

 

 だが今の俺と一緒に行動している人物といえば、ほぼ雨宮しかいない。この条文をそのまま残せば、結局あいつを売るのと同じだ。

 

「ここは削除だな」

 

「削除してくれるんですか?」

 

「してくれなければ契約しない」

 

「でも、六百万円が・・・」

 

「必要だから何でも信じるなって、さっき話したばかりだろ?」

 

 雨宮は何も言えなくなったように口を閉じた。

 

 契約書を読み進める。

 

 取材期間は三日間。撮影した映像、音声、写真は雑誌だけでなく、動画番組や広告にも使用できる。出版社が提携する別会社へ渡すこともでき、使用期間に制限はない。

 

 つまり一度署名すれば、十年後でも俺の家出映像を勝手に使えるということだ。

 

「使用期間、永久だって」

 

「そんなこと書いてあります?」

 

「期間を定めない、と書いてある」

 

「言い方が違うだけじゃないですか」

 

「だから契約書は面白いんだよ。同じ意味でも、柔らかく書くと気づかない人がいる」

 

「私は全然面白くありません・・・」

 

 さらに、契約後に俺の都合で取材を中止した場合、契約金の二倍を違約金として支払うとも書かれていた。

 

「二倍って、千二百万円ですよね?」

 

「そうだね」

 

「払えるんですか?」

 

「払えないね」

 

「絶対に署名しないでください!」

 

「でも、雨宮が途中で殴りかかって取材が中止になった場合、俺の都合になるのかな?」

 

「殴りません!」

 

「本当に?」

 

「場合によります」

 

 殴る可能性はあるらしい。やはり消してもらおう。

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

 最後まで読み終えたのは、日付が変わる少し前だった。問題がある箇所へ印を付けていくと、全部で十九か所になった。

 

「随分と多いですね」

 

「最初に出す契約書は、相手がどこまで何も言わずに受け入れるかを見るためのものでもあるからね」

 

「そうなんですか?」

 

「知らない。今考えた」

 

「それっぽく嘘を言わないでください!」

 

 少なくとも、このまま署名する気はない。柴崎へ電話をかけると、まだ起きていたのか、すぐに出た。

 

『契約書をご確認いただけましたか?』

 

「確認したよ。十九か所、変更してほしい」

 

『十九か所、ですか・・・?』

 

「まず、俺と行動する第三者の撮影を認める条文は削除。雨宮の姿、声、名前、家、母親、学校、事件については一切使わない」

 

『しかし、九条さんの現在の生活を取材する以上、同居されている雨宮さんを完全に除外するのは難しいかと』

 

「なら俺が外へ出る。家の中では撮影させない」

 

『お二人の共同生活には、非常に高い関心が集まっています』

 

「だから売らないんだよ。一番高い物を最初から渡す馬鹿はいないだろ?」

 

 電話の向こうで、柴崎が黙った。

 

 雨宮が隣から、最低ですと小声で言った。守っているのに怒られるのは納得いかないな。

 

「映像の使用期間は一年。提携先への無断提供は禁止。俺の発言を意味が変わるように編集しない。未公開の映像を広告へ使う場合は、別料金」

 

『そこまで制限されますと、六百万円という金額は・・・』

 

「俺の配信を記事にしたい会社は、お前たちだけじゃないよ」

 

 配信中から、取材依頼は何十件も届いていた。海外のメディアらしい連絡もある。英語と中国語で取材を受けられると返せば、六百万円以上になる可能性もあるだろう。

 

「断るなら、次の会社と話す。それだけだよ」

 

『・・・違約金については、故意に取材を妨害した場合を除き、発生しない形へ修正します。第三者に関する条項も、ご希望どおり削除いたします』

 

「ほかの十七か所も送るね」

 

『十七か所・・・』

 

 柴崎の疲れた声が聞こえた。記者も大変だな。頑張ってほしい。

 

「あと、支払い方法を変えたい」

 

『契約金のうち三百四十万円を、明日の正午までにお支払いする件でしょうか』

 

「それだけだと、病院に必要な四百八十万円へ届かない」

 

 隣にいる雨宮が、俺の袖を掴んだ。

 

 金の使い道を話すつもりはなかった。だが、雨宮の名前を出さず、支払先だけを病院にするなら、隠す必要もない。

 

「三百四十万円は病院へ直接払って。残りの百四十万円については、配信収益の支払予定証明と、親父の同意書を病院へ出す。それで支払いの予定が立っていることを示す」

 

『契約金の残額二百六十万円は、取材終了後のお支払いとなります』

 

「それも病院への支払い保証に使えるよう、契約書へ書いてくれ。もし配信収益が支払われなかった場合、そこから不足分を病院へ払う」

 

『弊社にとっては、通常行わない形となります』

 

「通常の高校生へ六百万円を払うこともないだろ?」

 

『・・・編集長へ確認いたします』

 

 電話が保留に切り替わった。

 

「本当に通るんでしょうか」

 

「通らなければ、ほかを探す」

 

「時間がありません」

 

「だからって、急いで変な契約へ署名したら、また一週間前と同じだよ」

 

 雨宮が掴んでいた袖から、ゆっくり手を離した。数分後、柴崎が戻ってきた。

 

『承認されました。修正版を一時間以内にお送りします』

 

「ありがとう」

 

『正直に申し上げますと、高校生の方との契約交渉とは思えませんでした』

 

「褒めてる?」

 

『できれば、最初に送った契約書へそのまま署名していただきたかったという意味です』

 

「やっぱり性格悪いね」

 

『九条さんほどでもない』

 

 最近、親父にも同じようなことを言われた気がするな。

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

 翌朝。

 

 修正された契約書をもう一度確認し、俺と親父が電子署名をした。親父から届いたのは、署名済みの書類と短いメッセージだけだった。

 

『十九か所ではなく、二十一か所だ。第十四条と別紙二を見落としている』

 

 確認すると、映像の保管期間と、取材中の移動費を誰が負担するかについてだった。

 

「くそ親父・・・」

 

「教えてくれたんですから、いいお父さんじゃないですか」

 

「俺が見落としたことを喜んでるだけだよ」

 

 修正を追加させ、ようやく契約は成立した。

 

 そして正午を少し過ぎたころ、雨宮のスマートフォンへ病院から電話がかかってきた。

 

「はい・・・はい。本当ですか?」

 

 雨宮は何度も頷きながら話を聞いていた。電話なのだから、向こうからは見えないのに。

 

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

 通話を切ったあと、雨宮はしばらく何も言わなかった。

 

「どうだった?」

 

「三百四十万円の入金と、残りの支払い予定を確認できたそうです。お母さんの手術、予定どおり受けられます」

 

「そう。よかったね」

 

「・・・はい」

 

 雨宮の目から涙が落ちた。

 

「泣くほど嬉しい?」

 

「嬉しいに決まってるでしょう・・・」

 

「じゃあ笑えばいいのに」

 

「今は無理です」

 

 俺は何となく困って、雨宮の頭へ手を置いた。

 

 慰め方なんて知らない。ただ、昨日こいつが俺には何か残っていると言ってくれたから、そのお返しみたいなものだ。

 

「九条君」

 

「何?」

 

「ありがとうございます」

 

「契約金だから、ただで助けたわけじゃないよ」

 

「私、何も契約してませんけど」

 

「なら今度考えるよ」

 

「変な内容は嫌です」

 

「お前が死なない、とか?」

 

 雨宮は泣いたまま、少しだけ笑った。

 

「それなら、もう契約してます」

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

 その日の放課後から、三日間の密着取材が始まった。

 

 学校や雨宮の家が特定されないよう、撮影は駅から離れた場所で合流して行う。柴崎のほかに、カメラを持った男性が一人。俺が生まれて初めて自分で買い物をする様子や、配信の準備をする姿を撮るらしい。

 

「まずは、家を出て一番困ったことを教えてください」

 

「切符の取り方が分からなかったこと」

 

「もっと、食事や住居についての深刻な話は・・・」

 

「靴を自分で揃えないと怒られた、世間って厳しいね」

 

 カメラの外で、雨宮が俺を睨んだ。

 

 撮影されていないのが残念なくらい、いい顔だった。取材を終え、夜になって雨宮の家へ戻る。

 

 玄関の郵便受けには、何通かの封筒が入っていた。広告に混ざり、裁判所の名前が印刷された分厚い封筒がある。

 

「雨宮。これ、何?」

 

「・・・見せてください」

 

 雨宮が封筒を開き、中の書類へ目を通した。母親の手術が決まり、ようやく一つ片づいたと思ったばかりだった。

 

 だが、雨宮の顔から再び血の気が引いていく。

 

「何て書いてある?」

 

 雨宮は震える手で、書類を俺へ差し出した。

 

 担保不動産競売開始決定。債務額・・・六千万円。

 

 雨宮茂が借金の担保へ入れていたこの家を、裁判所が競売にかけるという通知だった。

 

「九条君・・・私たち、ここに住めなくなるみたいです」


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


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