19話
九条家の門を出てから、最寄り駅までは歩いて二十分ほどかかった。
普段なら車で通り過ぎるだけの道だが、自分の足で歩くと意外と長い。
「重くないんですか?」
隣を歩いていた雨宮が聞いた。
「重いよ」
「少し持ちましょうか?」
「雨宮よりは力あるから大丈夫」
「そうですか」
スマートフォンの地図へ目を落とす。画面には、駅まで残り四百メートルと表示されていた。
「スマホの地図は使えるんですね」
「俺を何だと思ってる?」
「傘も持ったことがなくて、電車にも乗ったことがない人」
「事実だけ並べるのやめてくれる?」
「ほかに何か、自分でしたことがないものはありますか?」
「多すぎて分からない」
「これからが不安になってきました・・・」
俺も少しだけ不安になってきた。だが、知らないことが多いということは、それだけ初めての経験が残っているということでもある。
退屈するよりは、ずっといい。
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駅へ到着すると、仕事や学校から帰る人間で混雑していた。
何本もの線が書かれた路線図。並んだ券売機。改札へ次々と吸い込まれていく人の群れ。
映像では何度も見たことがあるが、実際に利用するのは初めてだ。
「それで、どうするのこれ?」
「まず切符を買います」
「さすがに知ってるよ、それくらい」
「じゃあ買ってください」
雨宮が券売機の前を譲った。画面へ触れると、いくつもの金額が表示される。
「雨宮の家まで、どれ?」
「上の路線図で駅を探せば、金額が書いてあります」
「あんなに小さい文字から?」
「嫌なら、乗り換え案内で料金を調べてください」
「なるほど。スマホって便利だな」
「今さらですか?」
料金を調べ、財布を開く。
中には四万八千円ほど入っていた。カードは止められたが、財布の現金まで親父に回収されなくてよかった。
「ずいぶん持ってますね」
「多い?」
「高校生の財布としては多いです」
「これで何日生きられる?」
「使い方によります」
「一か月くらい?」
「家賃がなければ、頑張れば・・・。でも九条君なら三日で使い切りそうです」
「俺、そんなに信用ないのですかな?」
「昨日まで一食いくらか分からないお弁当を食べてた人ですよ?」
言われてみればたしかにそうだった。
券売機へ千円札を入れ、二人分の切符を買おうとする。
「待ってください。私の分は自分で買います」
「これくらい払わせてよ」
「駄目です」
「借金は駄目でも、電車賃くらいよくない?」
「・・・電車賃だけですよ」
「交渉成立だな」
「すぐ契約みたいに言う・・・」
二枚の切符を手に取り、改札へ向かった。
前の人間を真似して切符を入れる。機械の向こう側から出てきた切符を取ろうとしたが、荷物で両手が塞がっていた。
「雨宮、取って」
「もう・・・」
雨宮が切符を取り、俺のあとから改札を通った。
「なくさないでくださいね。出るときも使いますから」
「入った証明に回収されるんじゃないの?」
「出るときに回収されます」
「へぇ~。よくできてるな」
「子供みたいに感心しないでください」
初めてなのだから仕方ないだろ?そして初めて電車へ乗り込むと、車内は思っていた以上に混んでいた。
座席はすべて埋まり、俺たちは扉の近くに立つ。発車した瞬間、身体が後ろへ持っていかれた。
「おっと」
「吊り革、掴んでください」
「手が塞がってる」
「傘は腕にかければいいでしょう」
「頭いいな」
「これくらい普通です」
言われたとおりにして吊り革を掴む。次の駅でさらに人が乗ってきて、雨宮が俺のすぐ前まで押された。
背中が胸へ触れそうな距離になる。
「狭いですね・・・」
「そうだね」
「何で少し楽しそうなんですか?」
「人生初の満員電車だから」
「普通は喜びませんよ」
電車が揺れ、雨宮の身体がこちらへ傾いた。俺は空いている腕を扉の横へつき、雨宮が周りの人間へぶつからないよう支える。
「大丈夫?」
「・・・はい」
雨宮は顔を伏せたまま、小さく答えた。耳が少し赤くなっている。
満員電車が暑いからだろうな。多分。
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電車を乗り継ぎ、雨宮の家へ着いたころには、午後八時を過ぎていた。
二階建ての、ごく普通の一軒家だった。
父親が金や車を持って逃げたあと、警察の捜査も入ったため、玄関の中は少し散らかっている。
「本当にここへ泊まるんですか?」
「ほかに行く場所ないからね」
「ホテルは?」
「カード止められた」
「さっき現金を持ってたでしょう」
「四万八千円でホテルへ泊まったら、すぐなくなるんだろ?」
「・・・少しは考えるようになりましたね」
「成長した?」
「まだ駅から家まで来ただけです」
雨宮が靴を脱ぎ、家の中へ入る。俺も続こうとすると、目の前に手を出された。
「何?」
「靴は揃えてください」
「家では使用人がやってくれてた」
「今日から使用人はいません」
「厳しいな~」
「普通です」
自分で脱いだ靴を揃え、廊下へ上がる。
居間には小さなソファと四人掛けの食卓があり、棚の上には雨宮が幼いころの写真が飾られていた。
「これ、雨宮?」
「見ないでください!」
小学生くらいの雨宮が、両親の間で笑っている。父親も今とは違い、普通の父親に見えた。
「昔は仲よかったんだな」
「・・・少なくとも、私はそう思ってました」
雨宮は写真立てを伏せた。余計なことを言ったかもしれない。
「腹減ったなー」
「話を変えるの下手ですね」
「よくご存じで」
「一週間以上、一緒にいますから」
雨宮は冷蔵庫を開けたが、中にはほとんど何も残っていなかった。
「近くのスーパーへ行きます。明日の朝の分も買わないと」
「俺も行くよ」
「荷物持ちをお願いします」
「契約内容が増えた?」
「居候の仕事です」
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スーパーで買ったのは、焼きそばの麺、豚肉、キャベツ、卵。それから明日の朝食用のパンと牛乳。
会計は二千円もかからなかった。
「二人分の飯って、こんなに安いの?」
「普通に作れば、これくらいです」
「屋敷の弁当一つより安そうだな」
「比べないでください。悲しくなります」
家へ戻り、雨宮が台所へ立つ。俺も横へ並ぶと、包丁を渡された。
「キャベツを切ってください」
「俺が?」
「手伝うって言いましたよね?」
「荷物を持つとは言ったけど、料理をするとは言ってない」
「契約内容を追加します」
「俺の言い方、真似してない?」
「早く切ってください」
包丁を持ち、キャベツへ刃を入れる。
思ったより硬い。力を入れると、大きさの違う葉が周りへ散らばった。
「九条君。何を作ろうとしてるんですか?」
「焼きそば?」
「キャベツを破壊してるようにしか見えません」
「食べれば同じだろ?」
「火の通り方が変わります!」
結局、途中から雨宮が全部切った。
俺が担当したのは、皿を二枚出すことと、出来上がった焼きそばを食卓へ運ぶことだけだった。
「俺、必要だった?」
「次から覚えてください」
「次も作ってくれるの?」
「九条君が作れるようになるまでは」
「じゃあ、ずっと覚えないほうが得だな」
「明日から自分で作ってください」
「冗談だよ」
二人で食卓へ座り、焼きそばを食べる。屋敷の料理人が作るものとは比べられないほど普通の味だった。
だが、不思議と悪くない。
「美味しいですか?」
雨宮が少し不安そうに聞いた。
「うん。高級かどうかは分からないけど、美味いよ」
「高級な焼きそばなんて求めてません」
「毎日これでもいいかも」
「毎日は嫌です」
雨宮が笑った。事件が起きてから、こいつが笑う回数は少しずつ増えている。
俺も、誰かと二人で買い物をして、料理を失敗して、同じ物を食べるなんて初めてだった。
こういう普通の生活も、思っていたより退屈ではないらしい。
食事を終えたとき、食卓に置いていた二人のスマートフォンがほぼ同時に鳴った。
クラスのグループから、大量の通知が届いている。誰かが一件のニュース記事を貼ったらしい。
『娘の生命保険金一億円を詐取しようとした疑い。会社社長と大手生命保険会社の元社員を逮捕』
記事には、雨宮茂と長谷川理沙の名前が書かれていた。
被害者である娘の名前は伏せられている。だが、雨宮という名字。
同じ時期に学校を休み、父親に殴られた俺と、一緒に行動していた雨宮。
ここまで揃えば、気づく人間はいるだろう。グループの通知は、今も増え続けている。
『これ、もしかして雨宮さんのお父さん?』
雨宮の顔から、笑顔が消えた。
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