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18話

「今日中にこの屋敷を出て、今後二度と司へ近づかないでもらいたい」

 

 親父の言葉を聞き、雨宮は机の上に置かれた書類を見つめた。

 

 六千万円の借金。母親の手術費。それらをすべて九条家が負担する代わりに、俺と二度と関わらないこと。

 

 今朝、俺が金を払うと言ったときより、ずいぶんと悪趣味な条件だな。

 

「親父。九条生命がやったことへの補償に、そんな条件を付ける気?」

 

「会社として行う補償の話ではない。それについては、調査結果に応じて正式に対応する」

 

「じゃあ、この六千万円は?」

 

「私個人からの提案だ」

 

 親父は雨宮から視線を逸らさなかった。

 

「雨宮さん。返答を聞かせてほしい」

 

「お断りします」

 

 雨宮は顔を上げ、迷うことなく答えた。

 

「・・・書類を確認しなくていいのか?」

 

「確認しても、答えは変わりません」

 

「母親の治療費も含まれている」

 

「それでもです」

 

「なぜだ?」

 

「今朝、九条君にも同じことを言われました。借金を全部払うって」

 

 親父が初めて俺のほうを見た。

 

「司が?」

 

「うん。断られたけど」

 

「当然だ」

 

「親父も同じことしてるけど?」

 

「お前と一緒にするな」

 

 何が違うのだろう。俺は条件を付けなかった分、親父より良心的だったはずだ。

 

「私は、お金で九条君との関係を売りたくありません」

 

 雨宮が言った。

 

「それに、九条君へ近づかないという条件で払ってもらったら、九条君に六千万円の価値があるみたいじゃないですか」

 

「俺、六千万?」

 

「そういう意味ではありません」

 

「一億円のお前より四千万も安いんだけど」

 

「今は黙っていてください!」

 

 怒られた。親父はこめかみを押さえ、深く息を吐いた。

 

「司。これはお前のためでもある」

 

「俺の?」

 

「九条生命の社員が、雨宮さんの保険契約を不正に変更した。その事件へ、お前が九条家の立場を使って介入している」

 

「実際に不正だっただろ?」

 

「結果の話ではない。お前は正式な権限も持たず、社員へ調査を命じ、契約情報を入手した」

 

「本人の同意は取ったよ」

 

「だから何をしても許されるわけではない」

 

 親父の声は怒鳴っていない。だが、さっきより明らかに低くなっていた。

 

「さらに警察の制止を振り切り、犯罪者のいる建物へ勝手に入った。もしお前が殺されていたら、どうするつもりだった?」

 

「死んだあとのことまで考えてなかったな」

 

「笑い事ではない!」

 

 机の上のカップが僅かに揺れるほどの声だった。びっくりして雨宮の肩が跳ねたじゃないか。

 

「お前は九条家の一人息子だ。自分一人の命ではない」

 

「俺の命は俺のものだよ」

 

「その理屈で、雨宮さんが飛び降りるのも自由だと言ったそうだな」

 

 親父が雨宮へ視線を向けた。

 

 どこでそこまで聞いたのだろう。爺やか?いや、爺やには屋上での細かい会話まで話していない。

 

「ずいぶん詳しいね」

 

「今回の件について、報告書はすべて読んだ」

 

「仕事が早いな~」

 

「お前が次に何をしでかすか分からないからだ」

 

 親父は俺を睨んだあと、少しだけ声を落とした。

 

「司。雨宮さんへ関わるなとは言わない。ただし、九条家の後継者として、自分の行動が周囲へ与える影響を考えろ」

 

「二度と近づくなって、今言ったばかりだけど?」

 

「それは雨宮さんへの条件だ」

 

「俺から近づけばいいの?」

 

「屁理屈を言う場ではない」

 

 雨宮が隣で小さく息を吐いた。呆れているのだろう。

 

「九条さん」

 

 雨宮が親父へ向き直った。

 

「ご心配をおかけしたことは、申し訳ありません。でも、九条君に助けてほしいと頼んだのは私です」

 

「最初に勝手に首を突っ込んだのは俺だけどね」

 

「今は少し黙っててください」

 

「はい」

 

「九条君は、私が死ぬのを止めてくれました。お父さんの計画も見つけて、お母さんも守ってくれた。だから、お金を貰って二度と近づきませんとは言えません」

 

「それが、君の答えか」

 

「はい」

 

 親父はしばらく雨宮の顔を見たあと、書類を閉じた。

 

「分かった。なら、この話はなかったことにしよう」

 

「随分あっさり諦めるんだな」

 

「無理に署名させれば、雨宮茂と同じになる」

 

 その言葉に、雨宮の表情が僅かに変わった。親父は最初から、無理やり従わせる気まではなかったらしい。

 

「ただし、司」

 

「何?」

 

「今後、九条家の金や人間を使って、雨宮家の問題へ勝手に介入することは許さない」

 

「親父が払うのを断ったのは雨宮だろ?俺はまだ――」

 

「お前の自由になる金の大半は、九条家が与えたものだ」

 

「それはそうだね」

 

「雨宮さんを助けたいのなら、自分の力だけで助けてみろ」

 

 親父が俺を試すように言った。九条の名前も、金も、人間も使わずに、五千万以上の借金と母親の治療を何とかしろということらしい。

 

 無理ー。高校生にできることではないですよ親父―。

 まぁ、だからこそ・・・

 

 少し面白そうだ。

 

「いいよ」

 

「九条君?」

 

「その条件、受ける」

 

「簡単に決めないでください」

 

「俺が全力でお前を助けようとしてみせるって、最初に言っただろ?」

 

「もう十分助けてもらいました!」

 

「借金も母親の治療も残ってる。契約はさっき更新したばかりだよ」

 

「それはあなたが勝手に・・・」

 

「握手しただろ?」

 

「あれは契約じゃありませんよ・・・」

 

 親父が机の上へ置かれた呼び鈴を鳴らした。 すぐに扉が開き、後藤さんが入ってくる。

 

「後藤。今日から司による九条家の車、使用人、会社関係者への私的な命令を禁止する。司名義のカードも一時的に止めろ」

 

「かしこまりました」

 

「爺や、返事早くない?」

 

「旦那様のご命令にございますので」

 

「俺と十六年の仲なのに?」

 

「旦那様とは三十二年の仲にございます」

 

 倍だった。勝てない。

 

「この屋敷へ住むことまでは禁じない。食事も学校も、これまでどおりで構わない」

 

 親父が言った。

 

「ずいぶん優しいね」

 

「未成年の息子を放り出すほど、私も馬鹿ではない」

 

「でも雨宮は?」

 

「事件の危険は去った。雨宮さんを九条家で保護する理由はない」

 

 結局、雨宮だけは今日中に屋敷を出ろということらしい。

 

「分かった。なら俺も出るよ」

 

「九条君!?」

 

 雨宮と後藤さんの声が重なった。

 

「司。今の話を聞いていたのか?」

 

「聞いてたよ。俺が屋敷に残って、雨宮だけ追い出されたら、一人にするなという契約を守れないだろ?」

 

「そんな契約、守らなくていいです!」

 

「俺は約束を破るのが嫌いなんてね」

 

「これは約束じゃなくて、あなたが勝手に決めただけです!」

 

「でも、握手したよね?」

 

「握手から離れてください!」

 

 親父はしばらく俺を見つめていた。

 

「本気か?」

 

「一度くらい、九条家の外で暮らしてみるのも面白そうだろ?」

 

「後悔しても、すぐには戻さないぞ」

 

「望むところだよ」

 

 こうして俺は、生まれて初めて九条家を出ることになった。

 

 -------------------------------------------------------------------------

 

「・・・何を持っていけばいいんだ?」

 

 自分の部屋へ戻った俺は、開いたスーツケースの前で途方に暮れていた。服。下着。歯ブ

ラシ。教科書。

 

 必要そうな物をベッドの上へ並べてみたが、どう詰めればいいのか分からない。旅行へ行くときは、使用人がすべて用意してくれていたからだ。

 

「本当に出ていくんですか?」

 

 部屋の入口に立っていた雨宮が、呆れたように聞いた。

 

「うん」

 

「私は一人で大丈夫です」

 

「一週間前に飛び降りようとしてた奴の大丈夫を信じろと?」

 

「もう飛びません」

 

「借金を一人で何とかしようとして、今度は過労死するかもしれない」

 

「しませんよ!」

 

「なら、近くで確認するよ」

 

 雨宮は何度も止めようとしたが、俺は聞かなかった。

 

 十分ほど格闘した末、荷物は何とかスーツケースへ収まった。入れ方が悪いのか、蓋を閉じると不自然に膨らんでいる。

 

「もう・・・貸してください」

 

 見かねた雨宮が、俺を押しのけてスーツケースの前に座った。

 

 荷物を一度全部取り出して、すべて綺麗に入れ直していく。

 

「おぉ・・・同じ鞄なのに、まだ半分も空いてる」

 

「九条君は、今までどうやって生きてきたんですか?」

 

「使用人に生かされてきた」

 

「少しは恥ずかしがってください」

 

 荷造りを終えて玄関へ向かうと、後藤さんが待っていた。その手には、例の黒傘が握られている。

 

「こちらをお忘れです」

 

「今日、雨降ってないよ?」

 

「天候の問題ではございません。司様がご自身のお金で購入された、数少ない私物にございます」

 

「買ったのは爺やだけどね」

 

「代金は司様のお財布から頂きました」

 

「やっぱり泥棒じゃん」

 

 傘を受け取る。

 

 後藤さんはいつものように車の鍵を持っていなかった。

 

「送ってくれないの?」

 

「旦那様より、車を使わせるなと命じられております」

 

「雨宮だけでも」

 

「司様がご同行なさるのでしょう?」

 

「厳しいな~」

 

「駅までの道は、お分かりですか?」

 

「駅までの道は、お分かりですか?」

 

「スマホで調べるよ」

 

「では、電車の乗り方は?」

 

「雨宮に教えてもらう」

 

「最初から私に丸投げする気じゃないですか」

 

 雨宮が隣で頭を抱えていた。後藤さんは小さく笑い、俺の曲がっていた制服の襟を整えた。

 

「爺や。困ったら電話してもいい?」

 

「使用人としてお力添えすることはできませんが、十六年の付き合いがある者としてお話を聞くことなら可能でございます」

 

「それ、親父に怒られない?」

 

「旦那様を説得するのも、私の仕事にございます」

 

 後藤さんが玄関の扉を開ける。屋敷の外には、夕暮れの道が続いていた。

 

 車も、運転手も、迎えもない。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

「本当に後悔しても知りませんからね」

 

「大丈夫。もう十分面白いよ」

 

 右手にスーツケース。左手に三万円の傘。そして隣には、一億円だった少女。

 

 生まれて初めて、俺は自分の足で九条家を出た。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


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