17話
雨宮が死なないことを選んでも、六千万円の借金が消えるわけではない。父親が逮捕されても、病気の母親が急に元気になるわけでもない。
現実というものは、事件が解決したからといって都合よく全部終わってくれないらしい。
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翌朝。
朝食を食べ終えた俺と雨宮の前には、いくつもの書類が並べられていた。昨夜、三枝さんが雨宮家の借金について調べたものだ。
「雨宮茂氏が経営していた会社の負債総額は、現時点でおよそ六千二百万円です」
「六千万より増えてません?」
雨宮の顔が引きつった。
「遅延損害金なども含まれておりますので。ただし、雨宮茂氏が自宅から持ち出した現金や車、一部の資産については、警察が所在を確認しております」
「それを売れば、借金は減る?」
「はい。すべて回収できた場合、千万円ほどは返済へ充てられる可能性があります」
「じゃあ、残りは五千万くらいか」
あまり変わらないな。
俺にとって六千万も五千万も大差ないが、雨宮にとっては人生を何回使えば返せるか分からない金額だろう。
「お母さんの連帯保証は?」
「署名自体は雨宮咲様ご本人のものと思われます。ただし、契約時に十分な説明が行われていたかなど、確認すべき点はございます」
「無効にできますか?」
「今の段階では何とも申し上げられません。ご自宅も担保に入っておりますので、今後手放すことになる可能性は高いかと」
「・・・そうですか」
雨宮は俯き、膝の上で手を握った。父親へ騙されて死にかけた翌日に、今度は家まで失うかもしれないと言われる。
ずいぶん容赦のない人生だな。
「なら、俺が払うよ」
「はい?」
「五千万でも六千万でも、全部俺が払えば終わりだろ?」
三枝さんが僅かに眉を動かした。後藤さんは俺が言い出すと分かっていたのか、いつもの無表情を崩さない。
雨宮だけが、何を言われたのか理解できないような顔をしていた。
「何言ってるんですか?」
「借金を払うって言ってる」
「聞こえてます!どうしてあなたが払うんですか!」
「俺が払えるから」
「理由になってません!」
「金で解決できる問題を、わざわざ残す理由ある?」
「あります!」
雨宮が机へ両手をついた。
「六千万円ですよ?会ったばかりの人に、はいお願いしますって払ってもらえる金額じゃありません!」
「知り合って一週間だよ」
「それでも短いです!」
「長く知ってればいいの?」
「そういう話じゃありません!」
朝から元気だな。
「では雨宮様。どうなさるおつもりですか?」
三枝さんが静かに尋ね。雨宮は言葉に詰まった。
「それは・・・働いて、少しずつ返します」
「高校生が五千万返すのに、何年かかると思ってる?」
「分かりません。でも、あなたに払ってもらうよりはいいです」
「何が?」
「あなたに借金を移しただけになるでしょう」
「返せとは言わないよ」
「それが嫌なんです!」
雨宮が、まっすぐ俺を見た。
「お金も、住む場所も、お母さんの治療も。全部あなたに用意してもらったら、私はあなたに何も言えなくなります」
「今でも十分言ってるけど?」
「今はまだ六千万円も貰ってませんから!」
「貰ったあとも同じでいいよ」
「九条君がよくても、私が嫌なんです。自分の人生を、あなたに買ってもらったみたいになるから」
人生を買う、か。俺としては、雨宮の借金を消したいだけだった。
口座から金が減ったところで、俺の生活は何も変わらないし。面倒な手続きも三枝さんがやってくれるしな。
それで全部片づくのだから、一番簡単だと思うんだけど。雨宮にとっては、簡単ではないらしい。
「分かった。勝手には払わないよ」
「・・・本当に?」
「俺はできない約束はしない」
「勝手に、が気になります」
「同意してくれたら払う」
「同意しません!」
「残念」
「司様。雨宮様のご意思は理解なさいましたね?」
三枝さんに念を押された。
「はいはい」
「返事は一回にございます」
今度は後藤さんにまで言われた。俺の周り、教師みたいな大人が多すぎない?
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学校へ着くと、俺と雨宮が同じ車から降りる姿を、今日も大勢の生徒に見られた。
もう隠す意味もないから、雨宮も昨日ほど騒がなかった。ただ、校門を通り抜けたところで、小さな声で呟く。
「見られてます」
「俺は毎日見られてるよ」
「今日は、ほとんど私を見てます」
「人気者になったね」
「嬉しくありません」
教室へ入った瞬間、橘が雨宮へ駆け寄ってきた。
「雨宮さん!大丈夫だった!?」
「えっ、はい」
「昨日急に帰るし、今日は九条君と一緒に来るし、メッセージも大丈夫しか返ってこないし!」
「すみません。何て説明すればいいか分からなくて・・・」
「何があったかは、話せるようになってからでいいよ」
橘はそう言って、雨宮の両手を握った。
「でも、無事ならちゃんと無事って教えて。心配したんだから」
「・・・ありがとうございます」
雨宮が少し照れたように笑った。俺には見せなかった種類の笑顔だな。
「俺のことは心配しなかったの?」
「九条君も何かあったの?」
「顔見れば分かるだろ?」
腫れは少し引いたが、頬にはまだ薄く痣が残っている。橘は俺の顔をまじまじと見たあと、驚いたように口へ手を当てた。
「本当だ!どうしたの?」
「雨宮の父親に殴られた」
「九条君!」
雨宮が慌てて俺の口を塞ごうとした。
だが遅かった。
「お父さんに!?何で!?」
「本人の許可なく、これ以上は話せないな」
「一番気になるところだけ言うのやめてよ!」
橘に怒られた。やはり学校は、屋敷より少しだけ騒がしくて面白い。
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迎えた放課後。
俺と雨宮が屋敷へ戻ると、玄関には使用人がいつもより多く並んでいた。その中心に後藤さんが立っている。
「お帰りなさいませ、司様。雨宮様」
「ただいま。みんなしてどうしたの?」
「・・・旦那様がお戻りになっております」
「親父が?」
九条財閥の会長であり、俺の父親。仕事で国内外を飛び回っているため、この屋敷に帰ってくることは多くない。
「司様と雨宮様に、お話があるとのことです」
「私にも・・・ですか?」
雨宮が不安そうに聞き返した。
「はい。応接室でお待ちです」
後藤さんに案内され、雨宮と一緒に応接室へ入る。大きな窓を背に、一人の男がソファへ座っていた。
俺と同じ黒い髪。年齢は五十前だが、背筋はまっすぐ伸びている。九条財閥の会長としてテレビや新聞へ出るときと、ほとんど同じ顔だ。
「久しぶり、親父」
「・・・座れ、司。」
「ただいまくらい言ってくれてもよくない?」
「警察の制止を振り切り、犯罪者のいる建物へ入った馬鹿息子へ、かける言葉はない」
「ちゃんと無事に帰ってきたよ」
「結果の話をしているのではない」
相変わらずお堅い。
雨宮といっしょに向かいのソファへ座る。親父は俺の頬の痣を一度見たあと、雨宮へ視線を向けた。
「君が、雨宮雫さんか」
「は、はい。初めまして」
「今回、九条生命の社員が君と君の家族へ多大な被害を与えた。九条財閥の代表として謝罪する」
親父が雨宮へ頭を下げた。俺は少し驚いた。
親父が他人へ頭を下げるところなど、滅多に見たことがない。
「そ、そんな。九条さんが謝ることでは・・・」
「長谷川理沙を雇い、顧客の情報を預けていた責任は我々にある」
親父は頭を上げ、机の上へ一枚の書類を置いた。
「君の母親の治療費と、雨宮家に残された六千万円の負債。すべて九条家で負担しよう」
「親父?」
俺が朝言ったことと同じじゃないか。雨宮は書類を見つめたまま、何も答えなかった。
「ただし、一つだけ条件がある」
親父の声から、謝罪したときの柔らかさが消えた。
「今日中にこの屋敷を出て、今後二度と司へ近づかないでもらいたい」
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