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インビジブル ボーダー  作者:


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3/4

第三章:氷結する世界

1

その日は、あまりにも唐突に、そして最悪のタイミングで訪れた。

西園寺邸を辞した翌日、晃は当初の予定を切り上げ、大阪湾の水上ポートにいた。昨夜、柚希の父・鷹臣から告げられた「来週の国境封鎖」という言葉が、重い鉛のように胸の奥に居座っていたからだ。一刻も早く浜松のドローンポートに戻り、自社が持つ東西の物流ネットワークの維持、そして柚希と連絡を取り続けるためのバックアップ回線を確保しなければならない。

「晃、本当に帰っちゃうの?」

搭乗待合室の片隅で、柚希が晃のシャツの袖を強く握りしめていた。周囲の乗客たちも一様に血の気の引いた顔で、ロビーの大型モニターを見つめている。

画面の中では、日輪国の報道官が険しい表情で臨時記者会見を行っていた。

『――本日午前十時、関ヶ原海峡の中立水域において、日照国籍の武装ドローンが我が国の沿岸警備艇に対し威嚇飛行を行いました。これは明白な主権侵害であり、軍事挑発行為です』

「そんなの嘘よ……。東(日照国)のドローンがそんなことするわけない」

柚希が声を震わせる。物流の現場にいる晃には、それが情報操作か、あるいは過激派による狂言の可能性が高いことが分かっていた。しかし、政治は事実よりも「口実」を求めていた。

画面が切り替わり、日輪国首相の冷徹な顔が映し出される。

『我が国は、自衛のため、直ちに「国家緊急事態宣言」を発令。日照国との国境を完全に封鎖し、通信回線を含むすべての物理的往来を凍結します。執行は――直ちに(イミディエイト)』

「え……」

待合室のそこかしこで悲鳴が上がった。

同時に、天井のスピーカーから耳を劈くような警報音が鳴り響く。

『――緊急アナウンス。ただいまをもちまして、大阪湾ウォーターポート発の全便は運航停止となりました。すべての乗客は、直ちにロビーから退去してください』

「柚希!」

晃は彼女の肩を掴んだ。だが、その瞬間、二人のスマートフォンの画面が同時に暗転した。

キャリアのロゴが消え、液晶の隅に冷酷な四文字が浮かび上がる。

【 圏外 】

4Gも、5Gも、衛星通信も、すべての電波が死んだ。日輪国政府が、東側へと繋がる国際光ファイバー網と電波中継局を一斉に物理遮断したのだ。

「いや……嫌よ、晃!」

ロビーになだれ込んできた黒い制服の機動警備隊が、怒号を上げながら東側の乗客たちを押し出していく。二人の繋いだ手が、人波によって無情に引き剥がされていく。

「柚希! 浜松のドローンポートだ! 俺はそこから必ず君に繋ぐ! 信じて待っててくれ!」

「晃――!」

それが、二人の世界から「音」と「光」が消える前の、最後の言葉になった。

2

一週間後。日照国ジャパン・ライト・浜松市。

「日輪国側のゲート、完全に沈黙。応答、依然としてありません」

オペレータールームに、絶望的な報告が響く。

晃は不眠不休の面持ちで、メインコンソールの前に立っていた。

かつては数分おきに東西を行き交っていた物流ドローンの航跡図は、今や関ヶ原海峡の手前で完全に途切れている。海峡の真ん中には、日輪国が展開した「電波妨害ジャミング帯」が目に見えない巨大な壁として君臨し、そこを越えようとする民間ドローンは、制御を失って海へ墜落するか、国境警備隊に撃墜されていた。

「晃、もう諦めろ。システム自体が物理的に切断されているんだ。個人の力でどうこうできるレベルじゃない」

先輩が肩を叩くが、晃はキーボードを叩く手を止めなかった。

「まだです。会社の公式回線が駄目なら、別の波長があるはずです」

夜、疲れ果てて実家に帰ると、父の陽介が居間で古い無線機の手入れをしていた。かつて割れる前の日本で、趣味として使っていたアマチュア無線機だ。

「それ、使えるのか?」

「デジタル通信が死んだ今、昔ながらのアナログな短波(HF帯)なら、ジャミングの隙間を縫って関ヶ原を越えられるかもしれない。だが、向こう(日輪国)で誰がそれを受信できる?」

晃はハッとして、胸ポケットから財布を取り出し、一枚の古いメモを見つめた。

それは、かつて陽介が岐阜にいた頃、共に仕事をし、現在は大阪に住んでいるという古い友人の無線コールサインだった。

「この人が、まだ無線機を持っていれば……」

「賭けだな。だが、やる価値はある」

陽介は息子に無線機のマイクを渡した。晃はノイズの嵐が吹き荒れるダイヤルを回し、暗闇の海峡の向こうへ向かって、声を絞り出した。

「こちらはJQ1――。日輪国の西園寺柚希、聞こえますか。俺はここにいる。届いてくれ……!」

3

同じ頃、日輪国ジャパン・リング・大阪。

街は完全にディストピアの様相を呈していた。東側の文化や製品は街から排除され、テレビでは朝から晩まで「東側への敵対心」を煽るプロパガンダが流れている。

柚希の勤務するデザイン事務所は、日照国との取引を全て失い、事実上の休業状態に追い込まれていた。

「柚希、いい加減にしなさい」

豪華な食卓の席で、父・鷹臣が冷たく言い放った。柚希はこの一週間、食事をほとんど口にせず、自室に引きこもっていた。

「お父さんは、これが正しい世界だって言うの? 嘘のニュースを流して、通信を遮断して、人間と人間を引き裂いて……!」

「これが国家の生存戦略だ」

鷹臣はカトラリーを置き、静かに娘を見据えた。

「東側は、割れた地盤の底にある地熱エネルギーを独占しようとしている。我々が先手を打たなければ、西日本は干上がるのだ。お前が想っているあの青年も、向こうへ戻れば我々の敵としてドローンを飛ばす。現実を見なさい」

「晃はそんな人じゃない!」

柚希は席を立ち、自分の部屋へと駆け戻った。

ドアに鍵をかけ、暗い部屋で一人、涙を流す。

スマートフォンの画面は、あの日以来、一度も電波を捉えていない。晃が今、どこで何をしているのか、生きているのかさえ分からない。世界から切り離されたような、圧倒的な孤独が彼女を包んでいた。

その時だった。

クローゼットの奥から、ガサゴソと小さな物音が聞こえた。

驚いて開けると、そこには、かつて晃が大阪のヴィンテージショップで見つけて彼女にプレゼントしてくれた、古い「災害用アナログ短波ラジオ」があった。電池はまだ残っている。

柚希は何かに導かれるように、ラジオのスイッチを入れた。

スピーカーから流れてくるのは、ザーザーという激しい砂嵐の音だけ。だが、彼女は諦めずにダイヤルをミリ単位で回し続けた。

政治の嘘、国家の壁、激しいジャミングのノイズ。その嵐を突き抜けて、信じられないほど微かな、しかし間違いなく「彼」のものが、スピーカーの向こうから這い上がってきた。

『――こちらは……JQ1……。日輪国の……西園寺柚希、聞こえますか……俺はここにいる……』

「晃……?」

柚希はラジオを両手で抱きしめた。

涙がボロボロと溢れ、スピーカーのメッシュを濡らしていく。

「晃! 聞こえるよ! 私はここ、大阪にいる! 離れてないよ!」

送信機能のないただの受信機に向かって、柚希は狂ったように叫び続けた。声は届かない。それでも、二人の心は、国家が引き裂いた海の底を越えて、再び力強く繋がり始めていた。


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