第二章:見えない境界線
1
大阪湾に無事着水した飛行艇は、水しぶきを上げながら、かつて「関西国際空港」と呼ばれた日輪国の人工島ポートへと滑り込んだ。
「パスポートと渡航承認書を、提示してください」
入国審査官の言葉は、以前のような歓迎の響きを完全に失っていた。
晃は、青い表紙の「日照国旅券」と、二週間前にようやく発給された数次ビザを窓口のガラス越しに差し出した。審査官は晃の顔と、端末の画面を何度も往復して見比べる。
「滞在目的は?」
「知人との面会、および観光です」
「滞在先は、大阪市内のホテルですね。日照国でのご職業は、ドローン運航会社のオペレーター。……東西間物資の輸送に携わっておられると」
「はい。主に民間の救援物資や、日用品の運航管理をしています」
審査官の手元が止まる。その鋭い視線が晃の射すような瞳とぶつかった。数秒の、しかしひどく長く感じられる沈黙の後、審査官は無言で「日輪国入国スタンプ」を押し、パスポートを突き返した。
「現在、治安維持の観点から、日照国籍の渡航者に対する規制が強化されています。夜間の不要な外出は避け、滞在中は身分証を常時携帯してください」
「……分かりました。ありがとうございます」
重いガラス扉を抜けると、潮風と磯の香りが晃の鼻腔をくすぐった。
税関の厳しい荷物検査を経て、ようやくロビーに出る。その瞬間、人混みの向こうから、聞き慣れた愛おしい声が響いた。
「晃!」
白いサマーニットを着た柚希が、人目をはばからずに駆け寄ってきた。晃は引き寄せられるように彼女を抱きしめた。腕の中に収まる彼女の肩は、記憶にあるよりも少しだけ細く、そして小さく震えているように感じられた。
「遅かったから、心配したよ。飛行艇、何かあったの?」
「いや、ちょっと空域の手前でルート確認が入っただけさ。大したことない」
晃は努めて明るく笑い、柚希の頭を撫でた。
「元気だったかい、柚希」
「うん。晃の顔を見たら、全部の疲れが吹き飛んじゃった」
柚希はそう言って満面の笑みを浮かべた。だが、その瞳の奥には、薄い氷のような緊張が張り付いているのを晃は見逃さなかった。ふと周囲を見渡すと、ポートのいたるところに「日輪国守備隊」のワッペンをつけた武装警官が立ち、鋭い目を光らせていた。
2
二人は連絡橋を渡るシャトルに乗り、大阪市内へと向かった。
車窓から見える大阪の街並みは、一見するとかつてと変わらない活気に満ちているように見えた。道頓堀の巨大な看板はネオンを輝かせ、行き交う人々はせわしなく歩いている。しかし、駅のデジタルサイネージに目を向けると、そこには不穏な文字が躍っていた。
『東側(日照国)による不当な経済措置に対し、我が国は厳毅に対処する』
『東西関税の引き上げに伴う、食料品価格への影響について』
「ねえ、晃」
柚希が、電車のシートで晃の手をそっと握りしめてきた。
「街の雰囲気が、ここ数週間で本当に変わっちゃったの。私の会社でも、東京本社の悪口を言う人が増えて……なんだか、自分が半分否定されているような気持ちになるの」
柚希の勤めるデザイン会社は外資系だが、クライアントの多くは東京――日照国にある。
「大丈夫だよ、柚希。政治家たちがどんなに騒いでも、僕たちの関係は変わらない。それに、人々の暮らしだって、本当に東と西を切り離して生きていけるわけがないんだ」
「そうだといいんだけど……」
柚希は窓の外を見つめた。その先にあるのは、かつては一つだったはずの、しかし今は見えない境界線で区切られた海だ。
その夜、二人は梅田の少し落ち着いたレストランで食事をすることになっていた。
しかし、その約束には、もう一つの「重い課題」が待ち受けていた。
「お父さん、本当に来てくれるの?」
晃の問いに、柚希は少し躊躇いがちに頷いた。
「うん。忙しいから、一瞬だけって言ってたけど……晃に、どうしても直接会って話したいことがあるって」
西園寺鷹臣。日輪国の経済官庁の幹部であり、柚希の厳格な父親。
晃にとって、それは自分の恋の行方だけでなく、この「二つの日本」の未来の縮図と対峙することと同義だった。
3
約束のレストランの個室。
時間ちょうどに現れた西園寺鷹臣は、仕立てのいいダークグレーのスーツに身を包み、非の打ち所のない官僚の風貌をしていた。白髪交じりの髪をきっちりと整え、その眼光はすべてを見透かすように鋭い。
「はじめまして、東條晃君」
鷹臣は、晃が立ち上がって一礼するのを手で制し、静かに席に着いた。
「初めまして。東條晃です。本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」
「挨拶は短くていい。時間がないのは事実だからね」
鷹臣はメニューに目もくれず、目の前に運ばれたお茶に手をつけた。
「晃君。君の父親である陽介氏のことは、私の古い知人からも聞いている。かつて東西の経済統合プロジェクトで尽力された、立派な方だと」
「父をご存知なのですか」
「名前だけだがね。だからこそ、君という青年の素性については心配していない。ただ――」
鷹臣の言葉のトーンが、一段と冷徹なものに変わった。
「状況が悪すぎる。君も、ここに来るまでの道中で肌で感じたはずだ」
柚希が不安そうに父親の顔を見つめる。
「お父さん、私たちはただ……」
「柚希、大人の話を遮るな」
鷹臣は娘を制し、再び晃を凝視した。
「晃君。単刀直入に言おう。柚希との交際を、一度白紙に戻してくれないか」
個室の空気が、一瞬にして氷結したようだった。
「それは……なぜでしょうか」
晃は喉の渇きを覚えながらも、まっすぐに鷹臣の目を見返した。
「僕たちは、お互いを深く信頼しています。国境ができたからといって、僕たちの気持ちが変わることはありません」
「気持ち、か」
鷹臣は自嘲気味に鼻で笑った。
「若者らしい美しい言葉だ。だが、現実は君たちの感情など一瞬で踏みつぶす。来月、日輪国政府は『日照国からの全渡航者に対するビザ発給の事実上の停止』を閣議決定する。さらに、通信インフラの相互切断も視野に入っている。これは、単なる小競り合いではない。事実上の『国交断絶』だ」
晃の背中に、冷たい汗が伝った。
「通信の切断まで……? そこまでして、二つの国を引き裂く意味がどこにあるのですか」
「どちらが引き裂いているかではない。動き出した巨大な歯車は、誰にも止められないということだ」
鷹臣はグラスを置き、語気を強めた。
「日照国の人間を恋人に持つということが、これからの日輪国でどれほど危険な意味を持つか、君には想像がつかないのか? 柚希のキャリアも、彼女の身の安全も、君という存在があるだけで脅かされる。それが、私の言う『現実』だ」
「お父さん! そんなの横暴よ!」
柚希がテーブルを叩いて立ち上がった。その目には大粒の涙が浮かんでいた。
「私は、晃と離れたくない! 政治がどうなろうと、私は自分の未来を自分で決める!」
「柚希、座りなさい」
「座らない! お父さんはいつもそうやって、自分の都合だけで国や家族を動かそうとする!」
「柚希」
今度は晃が、静かに彼女の手を握った。
「座って。大丈夫だから」
晃は深く呼吸をし、目の前の「壁」に向き直った。
「西園寺さん。あなたが柚希を心配する気持ちは、痛いほど分かります。僕が彼女の父親であっても、同じことを言うかもしれません。ですが、僕は逃げません」
「逃げない? どうやって戦うつもりかね」
「僕は物流の仕事をしています。東と西を繋ぐ仕事です。どれだけ物理的な壁ができようと、僕たちが運ぶ物資と想いは消えません。僕たちの『愛』を、ただの子供の我がままだと思わないでください。僕たちは、この引き裂かれた世界の先で、新しい繋がりを作る覚悟があります」
鷹臣は黙って晃を見つめていた。その表情からは感情が読み取れなかったが、やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。
「覚悟、か。その言葉の重さを、近いうちに思い知ることになるだろう」
鷹臣はそれだけ言い残すと、振り返ることもなく、個室の扉を開けて去っていった。
残された個室には、柚希の小さなすすり泣きと、夜の大阪の街からかすかに聞こえる、不穏なクラクションの音だけが響いていた。




