第一章:引き裂かれた大地の歌
1
遠州灘から吹き付ける湿った風が、浜松市臨海部にある物流ドローンポートの誘導灯を揺らしていた。
東條晃は、手元のタブレット端末に表示される気流データと、目の前の大型輸送ドローン『フェニックスIV型』の機体を交互に見つめていた。コンテナに積み込まれているのは、精密機械部品と、日輪国の子供たちへ送られる文房具だ。
「晃、最終チェック終わったぞ。いつでも飛ばせる」
先輩オペレーターの声に、晃は「ありがとうございます」と短く応え、承認ボタンを押した。
漆黒の翼を持つドローンが、滑るように夜空へと舞いあがる。目指すのは、ここから西方。かつて「関ヶ原」と呼ばれ、今は『関ヶ原海峡』と呼ばれる、日本列島を真っ二つに引き裂いた幅数十キロメートルの深い海溝だ。
数年前までの日本列島は、地盤沈下という未曾有の天災によって文字通り東西に割れた。
東側は、東京を首都とする「日照国」。
西側は、大阪を首都とする「日輪国」。
双子の国。人々は自嘲と親愛を込めてそう呼んだ。言葉も文化も同じ。ただ、真ん中に海ができただけ。だからこそ、晃たち物流の人間が、その傷口を縫い合わせる糸のように、毎日おびただしい数の物資と想いを運んできた。
それが、二つの国が生きる形だった。少なくとも、これまでは。
「……また、検疫シグナルが遅れてるな」
晃はタブレットの画面を見て眉をひそめた。日輪国側の管制センターからの応答が、ここ数週間、目に見えて遅くなっている。ただのシステムエラーではない。そこには、明確な「意図」を感じさせる、重苦しい停滞があった。
胸の奥がチクリと痛む。晃はスマートフォンの画面をタップした。待ち受け画面には、大阪の淀川河川敷で、眩しいほどの笑顔を浮かべる恋人――西園寺柚希の姿があった。
2
「晃、聞こえる? ちょっと電波悪いかも」
スマートフォンのスピーカーから聞こえる柚希の声には、いつも通りの快活さの中に、かすかなノイズと、それ以上の焦燥が混ざっていた。
「ああ、聞こえるよ柚希。そっちは今、仕事帰り?」
晃はドローンポートの休憩室の窓から、西の空を見つめながら話しかけた。夜の帳が降りた向こう側には、彼女のいる大都市・大阪があるはずだ。
「うん。デザインのコンペが近くてさ。でもね、それより……今日、会社の先輩が言ってたの。来月から、東(日照国)のサーバーとのデータリンクに制限がかかるかもしれないって。私のデザインデータ、東京のクライアントに送れなくなるかもしれない」
「データリンクの制限? 政府はそんなこと言ってなかったはずだけど」
「公式発表はまだよ。でも、お父さんの職場の雰囲気もおかしいの。最近、帰りがすごく遅くて、家でもずっと難しい顔してる」
柚希の父親である西園寺鷹臣は、日輪国の経済官庁の上層部にいる。その彼が神経を尖らせているということは、噂が単なるデマではない証拠だった。
「……一ヶ月前の、あの『関ヶ原臨検事件』からだね」
晃が声を潜めると、電話の向こうで柚希が小さく息を呑む音が聞こえた。
日照国の民間船が、関ヶ原海峡の中立水域で日輪国の警備艇に強制臨検された事件。表向きは密輸の疑いとされたが、両国間の政治的思惑が絡み合い、それ以来、「仲の良い双子」だった二つの国の空気は一変していた。
「ねえ、晃」
柚希の声が、少し震えていた。
「私たち、また会えるよね? 来週、晃が飛行艇でこっちに来る予定、変わらない?」
「当たり前だろ」
晃は自分自身に言い聞かせるように、強く、穏やかに言った。
「チケットはもう取ってある。来週の金曜日、仕事が終わったらすぐに『なにわ航空』の定期便に乗るよ。どんなに検問が厳しくなっても、パスポートとビザがあれば行ける。俺たちの国は、戦争をしてるわけじゃないんだから」
「うん……そうだよね。待ってる。連絡、途切れないようにしようね」
通話を終えた後、晃はしばらく画面を見つめていた。
画面の端に表示された電波強度のアイコンが、一本、また一本と、不自然に減っていった。
3
その週末、晃は浜松の実家に帰省していた。
リビングのテレビでは、日照国のニュースキャスターが、日輪国側の「不当な経済規制」を強い口調で批判していた。
「時代が逆戻りしているな」
ソファに座り、苦い顔で湯呑みを握りしめているのは、父の陽介だった。陽介はかつて、現在の「関ヶ原海峡」となる前の岐阜県で大手の商社に勤めており、西日本側には今でも多くの友人がいる。
「昔はよかった、なんて言うつもりはないが……大地が割れた時でさえ、人間の心は割れなかった。むしろ助け合おうとした。それなのに、政治の連中ときたら、今度は人間の手で壁を作ろうとしている」
「父さん」
晃は食卓から声をかけた。
「西園寺さんのことだけど……」
陽介の動きが止まった。息子が日輪国の女性と真剣に付き合っていること、そして彼女の父親が日輪国の官僚であることを、陽介は知っている。
「晃。お前たちの気持ちは分かっている。だがな……」
陽介はテレビに目を戻した。画面には、国境の検問所で足止めを食らい、怒号をあげる人々の姿が映っていた。
「向こうの政府(日輪国)は、我々が思っている以上に頑なだ。東西のバランスが崩れれば、最初に犠牲になるのは、お前たちのような『境界をまたぐ人間』なんだぞ」
「分かってる。でも、俺の仕事は国境を繋ぐことだ。そして、柚希は俺の未来だ。それは変わらないよ」
陽介は小さくため息をつき、それ以上は何も言わなかった。ただ、その目は息子の身を案じる深い憂いに満ちていた。
4
翌週の金曜日。
晃は、浜名湖の特設ターミナルから離水する、日輪国行きの「飛行艇」の座席にいた。
窓の外には、夕日に染まる浜名湖の水面が広がり、やがて機体が高高度へと上昇すると、眼下にはどこまでも続く深い海――『関ヶ原海峡』が見えてきた。
かつては新幹線や高速道路が数分のうちに駆け抜けていた場所。今は、深い青色の境界線が、日本を二つに引き裂いている。
「まもなく、日輪国領海へと入ります。乗客の皆様は、入国審査書類のご準備をお願いいたします」
機内アナウンスが流れた瞬間、機体が大きく揺れた。
それと同時に、機内の照明が一瞬だけ赤く明滅する。
『――警告。本機は現在、日輪国防空識別圏において、臨時のルート確認を受けております。しばらくお待ちください』
ざわめく乗客たち。晃はシートベルトを強く握りしめた。
窓の外を見ると、はるか下方の海面に、白く激しい航跡を描く日輪国の沿岸警備隊の高速艇が見えた。
スマートフォンの画面を見る。電波は『圏外』を示していた。
世界が、急速に冷えていく。
晃はただ、胸ポケットに入れた柚希の写真に手を当て、まだ見ぬ西の空を睨みつけていた。




