第四章:それぞれの戦い
1
「……聞こえますか、柚希。俺はここにいる……」
浜松の自室で、晃はノイズ塗れのマイクに向かって何度も語りかけていた。
アナログ短波(HF帯)による送信は、一方通行の祈りに近かった。こちらからの声が届いているのか、彼女が生きているのかさえ、返答がない以上は分からない。日輪国側のジャミングは日を追うごとに強まり、無線機のインジケーターは激しい雑音で常にレッドゾーンを指していた。
「晃、もう夜が明けるぞ」
父の陽介が冷めた珈琲を置きながら、息子の肩に手を置いた。
「短波の電離層のコンディションもこれまでだ。これ以上出力を上げれば、日照国の電波監視局に『違法電波』として捕捉される」
「……分かってます。でも、ただ待っているだけじゃ、本当に世界が二つに固定されてしまう」
晃はマイクを置き、充血した目でコンソールを見つめた。
デジタル通信が遮断され、空も海も閉ざされた今、民間人が国境を越える手段はない。だが、晃には武器があった。彼が毎日動かしている、物流ドローンの技術だ。
(妨害電波の壁を、上から飛び越えるか、あるいは――)
晃の頭の中に、ある無謀な計画が閃いた。
日輪国が展開しているジャミング帯は、主に高度数千メートルまでの空域と地表をカバーしている。だが、もし「超高高度」を飛行できる太陽光発電型の自動成層圏ドローンを関ヶ原海峡の中立空域に滞空させ、そこからアナログ無線信号を中継する『空中のリピーター(中継局)』として機能させたらどうなるか。
それは、国家の通信封鎖に対する明白な「密輸」であり、見つかれば即座に国家反逆罪に問われかねない危険な賭けだった。
「父さん。会社の倉庫に、退役した旧型の観測用高高度ドローンが眠っているはずなんだ。あれの制御OSを書き換えれば……」
陽介は息子の目を見て、それが狂気の沙汰であることを理解した。しかし、かつて大地が割れる前に西日本の友人たちと交わした「俺たちはいつまでも一つだ」という約束を思い出し、静かに微笑んだ。
「……私の古い商社時代の仲間に、ドローンのジャンクパーツを融通できる奴がいる。手伝おう、晃。お前たちの未来を、こんな窮屈な国境線にくれてやるな」
2
一方、大阪の西園寺邸。
柚希は、晃の「声」が聞こえた古い防災ラジオを片時も離さずにいた。
彼がどこかで生きている。自分を呼んでいる。その事実だけで、彼女の心には炎が灯っていた。
「待っているだけじゃ駄目。私からも動かなきゃ」
柚希は休業状態のオフィスに忍び込み、自分のデスクから私物の機材を回収した。彼女の本業はデザイナーだ。情報が統制され、テレビが嘘ばかりを流すのなら、市民の目を開かせるための「本物のビジュアル」を作ればいい。
彼女は、日輪国政府が進める「東側敵視政策」の不自然さを訴えるグラフィックポスターを匿名で制作し、夜の街のあちこちに貼り始めた。
『私たちは本当に別の民族になったのか? 裂けたのは大地だけで、私たちの心ではないはずだ』
そのメッセージは、SNSが遮断され、情報の飢餓状態にあった大阪の若者たちの間で、口コミや密かな写真共有によって急速に拡散されていった。
しかし、活動が広がるにつれ、予期せぬ「真実」が柚希の元へ転がり込んでくる。
ある夜、父親の鷹臣が書斎に忘れていった、政府最高機密の電子暗号キー。柚希は迷った末にそれを自分の端末に差し込み、ロックされたフォルダを開いた。
画面に映し出されたのは、一ヶ月前の『関ヶ原臨検事件』に関する内部報告書だった。
「……そんな……嘘でしょう……?」
そこには、日照国の民間船を拿捕した日輪国の警備艇の記録が残されていたが、押収された「武装」や「密輸品」とされるものは、すべて日輪国政府が事前に用意し、自作自演で仕込んだものだと明記されていた。
すべては、日輪国のタカ派勢力が、東側の地熱エネルギー利権を強奪するために仕掛けた、戦争へのカウントダウンのための「捏造」だったのだ。
そしてその報告書の末尾には、父である西園寺鷹臣の、承認サインがあった。
3
激しいショックで立ち尽くす柚希の背後で、書斎のドアがゆっくりと開いた。
「……見つかったか」
振り返ると、暗がりのなかに鷹臣が立っていた。その顔は、官僚としての冷徹な仮面ではなく、どこかひどく疲弊した一人の父親の顔だった。
「お父さん……これ、どういうこと? 晃の国は、何も悪いことなんてしていなかったじゃない! 全部、こっちの政府が仕組んだことだったの?」
柚希は涙を流しながら、端末を突きつけた。
鷹臣は深くため息をつき、デスクの椅子に腰掛けた。
「そうだ。すべては捏造だ。だがな、柚希……そうでもしなければ、我が日輪国の経済はあと3年で完全に破綻するのだ。大地が割れた時、主要な発電施設とエネルギー源の7割は東(日照国)に残された。向こうは善意の『双子』を演じながら、エネルギーの価格を握り、我々をじわじわと支配しようとしていたのだ。政治とは、綺麗な綺麗事だけでは回らんのだよ」
「だからって、戦争を始めるのが正しいっていうの!? 晃と私を引き裂いて、たくさんの人を騙して!」
「私はお前を守りたかった。だからあの青年と別れろと言ったのだ。この真実が公になれば、日輪国はひっくり返る。戦争へ向かう激流は、もう誰にも止められん」
鷹臣は静かに立ち上がり、柚希の手から暗号キーを取り上げた。
「お前を拘束はしない。だが、これ以上危険な真似(ポスターの制作)は辞めなさい。お前が次に国境線に近づけば、私の力でも守りきれん」
父が部屋を去った後、柚希は暗闇の中で拳を握りしめた。
恐怖よりも、激しい怒りと、晃にこの事実を伝えなければならないという使命感が彼女を突き動かした。
(お父さん、間違ってる。間違ったやり方で守られた未来なんて、私は欲しくない)
柚希は、自身が関わっていた地下の反戦市民グループのリーダーに連絡を取った。
「私に、この国の嘘をすべて暴くデータがあります。これを、東側の世界へ届けたい。手を貸してください」
4
数日後の午前2時。関ヶ原海峡を望む、日照国側の海岸線。
激しい嵐が近づき、波濤が遮断壁に打ち付けられていた。
晃と陽介、そして数人の信頼できる同僚たちは、改造した成層圏ドローン『イカロス』のローンチ準備を進めていた。
「晃、風速が限界値に近い。今飛ばせば、中立空域に達する前に墜落するかもしれないぞ!」
先輩が叫ぶ。
「今しかないんです! 明日からは日輪国の新型迎撃レーダーが稼働する。今夜の嵐のノイズに紛れ込ませるしか、チャンスはない!」
晃は操縦桿を握り、スロットルを押し上げた。
漆黒の大型ドローンが、激しい雨を切り裂きながら、垂直に夜空へと吸い込まれていく。高度10,000、15,000、20,000メートル。成層圏の静寂な世界へと到達した『イカロス』が、その長い翼を広げ、日輪国側のジャミングを上空から見下ろす位置に陣取った。
「中継システム、起動……! アナログ信号をデジタルに変調、出力を最大に!」
晃はマイクを掴んだ。
「柚希! 聞こえるか! こちらは晃! 通信の中継局をそっちの空に上げた! もし聞こえるなら、どんな方法でもいい、応答してくれ!!」
嵐の夜。
大阪の地下アジトに隠れていた柚希の古いラジオが、突如としてノイズを吐き出し、あの日以来の、クリアで力強い晃の声を響かせた。
「晃……! 聞こえる、聞こえるよ晃!」
柚希は泣きながら、アジトの大型無線機のマイクを引っ掴んだ。今回は、送信機能があるプロ仕様の無線機だ。
「晃、聞いて! この国の政府が、関ヶ原の事件を仕組んだの! 戦争を始めるために嘘をついてる! その証拠のデータを今、私が持ってる! これをそっちに届けたいの!」
海峡を越えて届いた柚希の悲痛な叫びと、衝撃の真実。
晃は息を呑み、そして迷いのない声で答えた。
「分かった、柚希。そのデータが、この引き裂かれた世界をもう一度繋ぐ鍵になる。俺が今から、君のすぐ近くまでドローンを飛ばす。データを、俺に託してくれ!」
国家の全軍が警戒を強める関ヶ原海峡の嵐の中で、二人の「命がけのデータ回収作戦」が、今、幕を開けようとしていた。




