第8話 韜晦
翌朝。怜太は彩子が電車に飛び込み、そのまま帰らぬ人となる夢を見て目を覚ました。
「あいつはもう死んでるだろ」
そう自分の夢にケチをつけて身体を起こす。背中は汗でぐっしょりと湿っていた。
時刻はまもなく八時をまわろうとしている。普段は六時三十分ちょうどに彩子が念動力で起こしてくるので、遅起きとは言えない時間であるにもかかわらず寝坊した気分になる。
カーテンを開き、シャワーを浴びて、バターを塗ったトーストとコーヒーで腹を満たす。味気ない朝食だと感じてしまったのは、彩子がいつも豪勢な朝食を振る舞ってくれるからだろう。目玉焼きとソーセージを用意しようか、と一瞬だけ思ったが、面倒だから辞めた。
朝食を摂れば作業の時間だ。が、今日はベランダで一服してから作業することにする。
一か月前、彩子と出逢った日を境に怜太は禁煙生活を強いられていた。というのも、彩子が怜太にたばこを吸わないようしつこく注意してきたからだ。
「父親にも母親にも先立たれた、か」
ふぅと、快晴の空に紫煙を吐き出す。
彩子がどのように命を落としたのか。〝協力者〟からの連絡があり、怜太は二週間前に知った。
母親に虐待されて夭折したらしい。
その母親は、彩子を殺害した後に自殺。父親はその一か月前に心筋梗塞で亡くなったそうだ。
「……絶対殺してやる」
まだ先の長いたばこを灰皿に圧し潰し、半分以上余っているたばこの箱をゴミ箱に捨て、怜太は作業椅子に腰かけた。身体に悪いわよ、と喫煙中ずっと脳内で聞こえていた声が止んだ。
◇ ◆ ◇
【情報提供ありがとうございます】
〝協力者〟から届いたメールと、そのメールに添付されたふたつのリンク先を確認したところで、怜太はメッセージを送信する。返信はすぐに届いた。
彼と関わりが生まれたのは二週間前のこと。YouTubeに届いたメッセージがきっかけだった。
怜太にとってあまりに都合が良すぎる話だったので、さては〝あいつ〟が仕向けた罠ではないかと疑ったが、彼は意に反して怜太が望んだ通りに動いてくれた。それも一度だけではなく、二度三度と。
だから怜太は、彼を信じることにした。明るみになっていない彩子の家庭の辿った凄惨な末路を教えてくれたし、なにより怜太に伝えた情報がすべて真実であるならば、こうして怜太に協力していることにも納得がいくからだ。
【またなにかあれば、ぜひお声がけください】
【早速お願いしたいことがあります】
【なんですか】
【明後日、『話題のあのヒト』に出演します。その際に動画を撮影していただけないでしょうか】
【なるほど。だから彼女たちに急遽出演依頼が舞い込んできたというわけですね】
ということは、怜太の懇願は聞き入れられたのだろう。テレビ側は、今は彼女たちよりも怜太たちの方が市場価値が高いと思っている、という見立ては間違っていなかったようだ。
【わかりました。撮影機材などはありますか】
【ご自身のスマートフォンで撮影して頂いて問題ありません。後日、こちらにファイルを添付送信していただければ幸いです】
【承知いたしました】
そこでメッセージが途絶える。
怜太は大きく息を吐いた。
「後は当日彩子が来るかどうか、か」
時刻はまもなく正午をまわろうとしているが、依然として部屋にいるのは怜太ひとりだ。半日もすれば孤独に耐えかねて帰ってくると思っていたが、そうはならなかった。
「まぁ彩子が居ようが居まいがすることは変わらないが」
むしろ居なくてやりやすいともいえる。怜太が企てていることを知れば、彩子はなんとしてでも止めようとするだろうから。
彩子には悪辣なことをしてばかりだ。目的を達成するためとはいえ、とっくに嫌われていてもおかしくない頃合いだと思う。
「……おまえが決めたことだろ」
ぼそっと呟いて明後日の準備をする。
いつも通り、最優先の目的を達成するために、幽霊育成ch演出プロデューサーである阿久井怜太を演じて……。
◇ ◆ ◇
翌日になっても彩子が帰ってくることはなかった。
怜太はストックしておいた動画をYouTubeに投稿した。こんなこともあろうかと、動画を十本ほど貯めておいたのだ。
再生回数は瞬く間に伸びていく。あっという間に五桁の波に差し掛かった。
しかし、その数値は怜太の瞳に映っているだけだ。見えているものと、考えていることは別々という状況にあった。
怜太の脳裏を掌握するのは、彩子との思い出だった。
「動画ってこんなに早く再生回数が伸びるものなの?」
隣に座る彩子がこてんと首を傾げる。その動きに伴って、黒髪がするりと肩から流れ落ちた。
「悠が言うには動画には二タイプあって、初動でぐんと再生数を稼ぐものと、じわじわと時間をかけて再生数を稼ぐものがあるらしい。俺たちは前者だ。だから投稿頻度が肝になる」
距離感が近い、というツッコミは無駄だからしない。何度しても彩子は聞き入れてくれないのだ。
「なるほど。じゃあプロデューサーである怜太が体調を損ねないようちゃんと健康管理をしなくちゃね」
「彩子のほうもつらかったらつらいって言うんだぞ。言うだけならタダだ」
「聞く気はないと言わんばかりの口ぶりね。……けど、怜太は私が音を上げたらなんだかんだ聞き入れてくれるのでしょうね。例外を除いて」
からかうように笑いかけてくる。
付き合いが長くなってきたからか、彩子は怜太の中で、彩子の意思を尊重すべき場面と彩子の意思を無碍にしなければならない場面があることに気づいているようだ。
「恨みを買うのもほどほどにしておかないと、演出プロデューサーと役者という関係が断絶してしまうからな。彩子に完全に俺の元から去られたら困る」
「それは仕事で? それとも生活で?」
下から顔を覗き込んでくる。怜太は麦茶を取るために席を立った。
「俺が悪辣なことを言うときはなにか理由があるんだと思ってほしい。信じるか信じないかは彩子次第だが」
「あ、ずるい。私はいつも質問に素直に答えてあげてるのに」
べつに頼んでいない。彩子が勝手に義務付けているだけだ。
ぷくりと剥れていた彩子は、やがてふっと頬をやわらげて言った。
「信じるわよ。だって怜太は、根はとっても優しいもの」
なにを根拠に言っているのだろう。そもそも優しいとはなにをもって定義されるものなのか。
「簡単に人を信じると痛い目見るぞ」
「それでも、私は怜太を信じてる」
屈託のない笑みで締めくくる。
ため息をつき、明後日を向いて怜太は言った。
「好きにしろ」
コメントが次々に入る。肯定的なコメント。否定的なコメント……。
どれを見ても、なんとも思わない。いつも隣で喜んで怒って、ありのままの感情を吐露していた彼女がいないとここまで変わるのかと、自分が思っている以上に彩子がいる日常に順化してしまっているのだと、気づかされる。
「……どこに行ったんだよ」
気づけば家を飛び出していた。
記憶を掘り起こし、会話の断片から彩子の行きそうな場所に足を運ぶ。
『歌うのが好きなの。私、すっごく歌がうまいのよ。……ってなによその目。本当なんだから』
あたりまえだ。だって彼女は、元トップアイドルなのだから。
カラオケに行っていたらお手上げだが、その可能性は限りなくゼロだろう。何故なら、彩子は電車に乗る際に、誰にもバレないのに怜太に切符を買うよう強いるくらい真面目だから。
『そうね……あっ、服が欲しいわ。毎日同じものばかりでは見飽きてしまうでしょう? ……え、匂ってる? 嘘でしょ……』
嘘だというと、彩子は烈火のごとく苛立ちをぶつけてきた。
収益が増えて生活が安定してきた頃、後日洋服を買うと約束したが、その後日はまだ訪れていない。そもそも彩子が今着ている服以外を着られるのかもわかっていない。
「はぁはぁ……ここにもいないか」
衣料店、ペットショップ、公園、廃墟――。
八月の炎暑に汗水を垂らしながら日がな街を駆けまわっても、彩子の姿を見つけることはできなかった。
「……俺のこと、信じてたんじゃないのかよ」
つぶやくと同時、空からぽつりぽつりと雨が降ってきた。弱かった雨脚は徐々に強く、ゲリラ豪雨となって街を飛沫で白く染め上げる。
「……風邪引いちゃうぞ。雨に濡れるのか、風邪引くのかもわかんないけどさ」
知らないことばかりだ。
当然だ。怜太は彩子を知ろうとしなかったのだから。
彩子を知ることが怖かった。知ってしまったら、積み上げてきたものが壊れてしまう気がした。
すべてを明かせば、彩子はきっと怜太がこれまでしてきたことを許す。そして、もう充分だよと言って復讐することを諦めようとする。怜太はそれを許容し、だらっと続く幸せに彩子と共に浸る。
そんな甘美な未来がすぐ側にあるから、彩子を知りすぎるわけにはいかなかった。
それに、知るためには自分のことを明かす必要がある。その中で彩子に怜太の〝最優先〟を知られてしまったら、すべてが崩壊する。怜太が幸せになり、彩子は不幸なままで、物語が完結してしまう。彩子はきっと、それでいいと認めてしまう。そのエンディングを怜太は認めたくなかった。
「ただいま彩子」
玄関の扉を開けてそう告げても、変わらず返事は返ってこなかった。




