三話:食事
なんとかしなければならないとは、思っていた。
プレアデス会議まであと二ヶ月というところで、『停留所』の路地裏、坂の中腹でレナードはうずくまった。いつもならもっと耐えられるのに。まだ一ヶ月しか経ってないぞ。そう思っても空腹は誤魔化せない。
腹が減った。
微かに震える手でリュックを漁る。キッチンカーで買ったサンドイッチは昨晩食べ切った。今朝人間界の適当な家の台所を借りて作ったおにぎりは昼間に食べてしまった。リュックの中身は空っぽ。人間の食事は誤魔化す程度なら役に立つが、それすらもなくなってしまった。
餌を見つけなければならない。そうは思っていたが、誰を見ても食事をする気にならず、ずるずると引き延ばして今に至る。レナードは思う。
「あー……ついに餓死か? 俺……」
そこに足音が聞こえてきた。レナードはもうそんな音すらどうでもよくなっていたが、その声は嫌でも聞こえてきた。
「ああ? 悪魔だ! なんでこんなとこにいんだぁ?」
見えたのは四人のゴブリン。レナードは無視しようとした。だが向こうはそうはいかなかった。
「なんだなんだ? 動けねぇのか?」
「おい立てよ悪魔様、どうした? ん?」
ゴブリンの一人がレナードをどつく。呆気なく倒れたレナードに、気分を良くしたゴブリン達はレナードを踏みつけ始めた。
「丁度憂さ晴らしが、したかったんだ、よっ!」
「おらどうした? お得意の魔法で反撃してこいよ!」
「こいつ下級悪魔なんじゃね?」
「ハハッ! こりゃあいいや!」
レナードは蹴られる痛みで意識を保っていた。嗚呼、このまま死ぬんだろうか。幻惑魔と呼ばれたレナード様がこんな形で死ぬのか。惨めな死に方だなぁおい。そんなことを考えても、反撃する気にも、立ち上がる気にもならない。
悪魔とは、世界の淀みが形を持つ際に歪みが生じて発現した存在だ。そして死ぬと、一定時間経過後に再び淀みの状態から発現することができ、役割と経験だけ持ち越す天使と違って前世の記憶ははっきりと覚えている。また淀みの状態からスタートしても、同じ生き方しか俺にはできないだろうが、まぁ、もうどうでもいい――
そうやって意識を手放そうとした、そこに、香ってきた匂い。
――蜂蜜の。
「こらキミたち! 何してるんだ!」
レナードは急に意欲が湧いてきた。視界がクリアになる。乾いていた口に唾液が出てきた。顔を上げて見えたのは、嗚呼、まさに。
「誰だよ、天使様が何の用だぁ?」
「そうだそうだ! 俺達は悪ーい悪魔を退治してただけだ!」
「ち、ちょっと待てよ、この天使知ってるぞ。」
「あ、ああ、シャインじゃないか? あの、ウリエルの補佐の」
そうどよめくゴブリン達を押し除けた相手、視界いっぱいに見えたのは、シャイン。レナードは地獄の底を歩いている中で丈夫な縄梯子を見つけたような気分になった。
「っ!? レナードじゃないか、なんでこんなところに、」
そう言うシャインを背後から殴ろうとするゴブリン達を見て、レナードは歯を食いしばってパチンと指を鳴らした。ゴブリン達が吹っ飛ぶ。指をスッと水平移動させれば、ゴブリン達が首を抑えて苦しそうにもがく。
「え? 何? 何が起きてるんだ?」
シャインが困惑する声が聞こえるが、そんなものは背景ですらなかった。レナードにとって、必要なのは。
「シャイン、」
「っ、え?」
「シャイン、俺を抱け。」
キィンという音と共に、レナードの虹彩が赤く光る。欲を増大させる魔法をかけようとした、のだが、シャインがレナードの頬に手を添えた。動きを止めるレナードに、シャインは言った。
「……そんなことしなくても、キミが望むならいくらでも愛してあげるよ、レナード。」
ちゅ、と額にキスされる。赤く光りかけた虹彩が鎮まる。ゴブリン達がレナードの魔法から解放されたところで、何者かがこの場に降り立った。シャインが振り返る。
「っ! ……? あなたは……」
〈我、我は、黒騎士、汝らの呼ぶ、『陛下』なり。〉
黒騎士の姿をした陛下の声は、空気を震わせて胸の奥に冷え切った風を差し込むような末恐ろしさがあった。陛下はそう名乗ると、腰の剣を抜いた。シャインの鼻先に突きつけて、厳かに言う。
〈汝、汝よ、偽りなき言葉を述べよ。先ほどこの場より、異常な魔力を感知した。その主は、汝か?〉
シャインが唾を飲む。レナードは口を開こうとしたが、その前にシャインが言った。
「その魔力は恐らく、このレナードのものだ。だが陛下、決してこの空間を害するために行使したわけじゃない、見た通り、彼は満身創痍の状態でアイツらに襲われていたんだ。」
ゴブリン達がびくりとして、情けない声を上げながら逃げ去っていく。陛下はシャインに視線を戻すと、低く告げた。
〈では、では……汝に問う、異常な感情を発露させようとしたのは、誰だ?〉
レナードは陛下の言っている意味がわからなかった。だがシャインは落ち着いた態度でこう言った。
「それはボクだ。すまない、少し気を乱してしまった、許してほしい。」
その言葉に、陛下は〈汝、汝……まさか……〉と。
〈……会得、会得、此方こそ無礼を詫びよう。本件は不問に付す。貴殿に幸在らんことを。さらば。〉
シュンッと陛下が転移魔法の音を立てて消える。何が起きたのかわからないレナードに、シャインが駆け寄る。
「レナード、立てるか? ああもう、キミがこんなに求めてくれるならもっと早くに探し出せばよかった、」
「探し、出すって、」
「迷惑だろうと思って耐えてたんだけど……耐えられなくなってキミの魔力を辿って探してたんだ、また倒れそうになってるんじゃないかって心配で……ああやっぱり背負うよ、乗って。」
立つことに失敗していたレナードに、シャインはそう言ってレナードを背負った。蜂蜜の匂いがする。その背に顔を埋めると、蜂蜜の匂いが鼻腔をくすぐって、ひどく安心して。
着いたのは宿屋の一室だった。ベッドに降ろされて、レナードは上着を脱ぐシャインのその行動すら恨めしかった。早く、早く食いたい。そう急いているのに、シャインはこちらを向くと、押し倒すのかと思いきやガシッと肩を掴んできた。
「っ、シャイン?」
「レナードさぁ、わかってないだろう、ボクがどんだけ怒ってるか。」
「怒ってる?」
シャインがレナードを睨む。だがレナードはそんなことをされても身に覚えがない。シャインは言った。
「死ぬつもりだったのか? 餓死するつもりだったのか? 悪魔は死んでも再発現できるもんなぁ、記憶も持ち越しできるし失うものは何もないって思ったか? 問題大有りだ! キミがいなくなったらボクはどうしたらいいんだ? キミが再発現するまで何百年待たなきゃいけないんだ? ボクはキミのことをこんなにも待ち遠しく思ってたのに! キミは! 勝手に諦めて! 死のうとして!」
「しゃ、シャイン、」
「どれだけこの一ヶ月キミを心配していたと思う!? もう本当に、すごくすごくすごく心配したんだぞ!?」
レナードは言われていることがなんとなくわかってきた。だがそれは、理不尽と言えるものだろう。アンタの都合なんか俺は知らない。そう言いたかったが、そんなことを言われたのはこれまで生きてきて初めてで、それも、今にも泣きそうな顔で言われるなんて。
「キミが死んで悲しむ奴はいるんだよ! 心当たりはない? ないならここにいる! ボクは……そりゃ、迷惑だろうと思ったし、押し付けがましいと思ったし、そもそも天使だし、」
天使であることはわかってるんだな、とレナードは遠くで思いながら聞く。
「距離をとるべきだと思った、でも、だけど……やっぱりキミのいない毎日なんて耐えられない! それなのに、それなのに……」
シャインが俯く。間を空けて、呟くように。
「……最後の最後で、ボクを求めてくれたのは、嬉しかったけど、嬉しかったけど! もうこんなことないようにしてくれよ!? 本当に、本当に怖かったんだから!」
顔を上げたシャインがレナードの肩を揺らしてくる。レナードは大きな衝撃を感じていた。シャインがそこまで自分を求めていたことに驚いただけじゃない、そう言われて喜んでいる自分がいることに驚いていた。
「レナード……? 聞いてる?」
「……シャイン、」
「何?」
「……悪かった、」
肩に置かれた手を取る。嬉しい、嬉しくて、でも今は、
「悪かった、悪かったから……早く抱いてくれ、もう死にそうなんだ、腹が減って仕方ないんだ、アンタしかいらないから、アンタだけが欲しいから、なぁ、早く、」
シャインの腕に縋る。懇願するつもりで握れば、シャインが目を細めて。
「嗚呼……本当にキミは、かわいいね。」
黄金色の瞳がきらめく。この先を想像してレナードは身が震えた。だがその前に。
「でも……今日はちょっと頑張ろうか、ねぇ、レナード?」
その目に怯えることになるとは、想像もしてなかったが。
・・・・・
「レナード? やりすぎたよ、ごめんな? 謝るから、こっち向いて?」
レナードは絶賛不機嫌だった。シャインを怒らせたのが自分であることはわかっている、わかっているが、ここまでしなくてもいいじゃないか。焦らされて焦らされまくって、やっと触ってくれても決定的なところは避けられて、挙げ句の果てに、挙句の、果てに……ああもう!
「レナード……ごめんよ……」
「シャイン、」
「……ん?」
正直、ここで許したくない。だがシャインが落ち込んでいる姿をこれ以上見るのも嫌で。
「……俺は、幻覚で幻せることはあれど、今までの食事であんなに乱れたことはなかった、」
不服だ。でも、満腹ではあるわけで。シャインの満足感は今までの食事が比にならないほど美味かった。満足度の高い食事ができたのは、誰でもないシャインのおかげだ。
「……アンタだから許してるんだからな。アンタじゃなきゃ俺は食い殺してるんだからな。」
「……うん、わかってるよ。」
「でも、でも! ……満腹には、なった。」
「っ! ……うん。」
体を起こす。レナードがジトっとした目で見やれば、シャインが俯いて眉を下げていた。言いたくないが、もうこんなことはないようにしてくれと言われてしまった。それなら。
「……週一で、食わせてくれるなら、」
ちらと覗ってみれば、シャインが顔を上げて目を輝かせた。そうしてレナードにガバッと抱きついて。
「うん! うん! もちろん! 俺を餌にしていいから、週一と言わずいつでも言って!」
「それは目的が違ってねぇか?」
「ん? ボクはいつだってキミを抱きたいよ?」
「違ぇよ、この絶倫野郎め。」
悪態をついたのに、シャインはぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。レナードは溜息をつきたい思いだったが、体で伝えてくるシャインが、嬉しかった。




