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サンガクッ  作者: 虹の箸


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6/7

リーダーの背中と靴紐

落ち葉の積もった『稲村岩のコル』に、レジャーシートが広げられた。

その上に、美咲と麗華のザックから取り出された鋳鉄のティーポット、南部鉄器の急須、フランス製のガラス瓶四本、そして銀のケーキスタンドがずらりと並ぶ。

「いい、美咲? 同じ十キロの荷物でも、詰める場所ひとつで体感重量は五キロにも二十キロにもなるの」

穂乃果の声には、いつものおっとりとした響きは微塵もなかった。

まるで手術室に入った執刀医のように、迷いのない手つきで装備を仕分けていく。

「人間の体で一番重い荷物を支えられるのは、背骨のすぐ近く――『肩甲骨の間』なの。さっきの美咲のパッキングは、一番重い鉄器と水瓶を底に入れていたから、重心が背中から遠く離れたお尻の下に落ちて、テコの原理で後ろへ引きずり倒されていたんだよ」

穂乃果はまず、ふわりと軽い予備のフリースやタオルをザックの一番底に押し込んだ。

続けて、最も重い鋳鉄ポットと二本のガラス瓶をタオルで巻き、背中にピタリと張り付く「肩甲骨の裏側」の中段スペースへと配置する。

「……あっ」

涙を拭いながらその手元を見ていた美咲の瞳が、ハッと見開かれた。

生まれつき整理整頓とパズルが大好きな美咲の脳内で、バラバラだった点と線がカチリと音を立てて繋がったのだ。

「背中に一番近い場所に重い核(コア)を作って、その周りを中くらいの重さの茶器で囲んで固定する……。そうすれば、ザックの中で荷物が一ミリも揺れないし、重心が自分の背骨と重なるんだ!」

「そう、大正解! さすが美咲、飲み込みが早いね!」

感覚を掴んだ美咲の手が、そこからは目にもとまらぬ速さで動き始めた。

麗華のザックも引き寄せ、ミリ単位で隙間に緩衝材を噛ませながら、一番上の雨蓋の直下に壊れやすいマカロンの箱を収め、最後にサイドのコンプレッションベルトをギュッと均等に引き締める。

「……できた。重心が背中の中央に完全にロックされてる」

穂乃果に手伝ってもらいながら、立ち上がってザックを背負い直した瞬間――美咲と麗華は同時に声を上げた。

「「……っ、かるい!?」」

「嘘みたいですわ……! さっきまで後ろから首を絞められていた鉄の塊が、まるで背中に吸い付くみたいに軽く感じますの!」

「ううん、総重量は一グラムも減ってないよ。ただ『重心のベクトル』が二人の足の真上に乗っただけ」

穂乃果はニコリと微笑むと、今度は美咲の足元に片膝をついた。

そして、美咲の登山靴の靴紐をすべて解き始める。

「穂乃果……?」

「美咲、かかとを地面にトントンって打ち付けて、靴の後ろにピタッと合わせて」

言われるがままにかかとを合わせると、穂乃果はつま先側から足の甲まではしっかりと靴紐を締め上げ、足首の曲がるフックの部分で一度紐を交差させてロック(外科結び)を作った。さらにその上の足首周りは、指が一本入るくらいの絶妙なゆとりを残して結び上げる。

「登り坂ではね、足首が前に曲がりやすいように上だけを少し緩めて、その代わり足の甲をロックして靴の中で足が前後に滑らないようにするの。靴の中で足が五ミリ滑るだけで、人間は一歩ごとに余計な踏ん張りを使ってバテちゃうんだよ」

キュッ、と蝶々結びの端を二重に潜らせて絶対に解けない『イアン・セキュアノット』で仕上げながら、穂乃果はふと懐かしいものを見るように目を細めた。

「……この結び方ね、私が五歳の時に、お父さんとお母さんに一番最初に教わったんだ」

穂乃果の指先が、美咲の登山靴を優しく撫でる。

「うちの親、山で凍傷になって二人とも手の指が何本もないでしょ。不器用になった短い指でね、私の小さな登山靴の紐を、何時間もかけて練習して結んでくれたの。『穂乃果が絶対に靴擦れしないように、絶対に足の指を失わないように』って」

風の音だけが鳴る静かな尾根で、アキラもマヤも、息を潜めてその言葉に耳を傾けていた。

「私、親から指を奪った山が怖くて、ずっと逃げてた。でもね……美咲が『私たちの山岳部を作ろう』って言ってくれたから、今こうして、誰も傷つかないやり方でみんなに山の技術を伝えられる。それが今、すごく嬉しいんだ」

顔を上げた穂乃果は、立ち上がって美咲の手をグッと引き上げた。

「さあ、反撃開始だよ! ここからは私が先頭でペースを作る。美咲と麗華ちゃんは私のすぐ後ろについて、私の『足の置き方』と『リズム』をそのまま真似して!」

穂乃果が向き直り、急峻な尾根道へと最初の一歩を踏み出した。

その歩き方を見た瞬間、最後尾に控えたアキラとマヤの背筋に、ゾクリと粟立つような戦慄が走った。

「……っ、なに、あの歩き方」

アキラが思わず呻く。

穂乃果の歩幅は、驚くほど小さかった。通常の半分ほどしかない小さな歩幅で、傾斜の緩い木の根の脇を正確に選びながら、メトロノームのように一定のリズムで足を運んでいく。

「『レストステップ』だ……」

マヤの青い瞳が、驚愕に揺れた。

「後ろ足の膝をピッと伸ばして、体重を太ももの『筋肉』じゃなく、足の『骨』の上に一瞬だけ乗せて休ませてる。そして前の足を置く瞬間に、0.5秒だけ脱力して呼吸を合わせてる……!」

「す、すごい……! 穂乃果の靴の跡をそのまま踏んで歩くだけで、全然息が上がらないよ!」

すぐ後ろを歩く美咲の声に、驚きと歓喜が混じる。

筋肉を使わず、骨格で体重を支えながら、心拍数が無酸素運動の領域(アネロビック・スレッショルド)を超えないギリギリの速度を維持し続ける、熟練のガイドの歩法。

しかも穂乃果は、前を見据えたまま、背後の美咲と麗華の「衣擦れの音」と「吐息の間隔」だけで二人の疲労度を正確に測り、傾斜がキツくなればコンマ数秒だけ歩調を落とし、緩やかになればすっと歩幅を広げていたのだ。

(……怪物だ、この人)

アキラは知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。

自分やマヤは、己の圧倒的な身体能力に任せて壁を駆け上がることしか知らなかった。だが、目の前の小さな部長は、十キロの鉄塊を背負った初心者二人の呼吸と鼓動を完全に掌握し、まるで五人で一つの生き物になったかのように、標高差六百メートルの急登を「一歩も立ち止まることなく」引き上げているのである。

それどころか、背中の重心と歩法が完全に噛み合った美咲の足取りは、登るにつれてどんどん力強さを増していた。

(おもしろい……! 重い荷物が自分の体の軸と一つになって、一歩ずつ地面を踏みしめて登っていく感覚、なんだかパズルがピタッとハマるみたいで、すごく気持ちいい!)

運動嫌いだった少女の中で、のちに世界最高峰の極地ロジスティクスを担うことになる『歩荷(ぼっか)』の才能が、確かな産声を上げた瞬間だった。

午前十一時二十分。

五人はついに、尾根の難所である『ヒルメシクイノタワ』を標準コースタイムを上回る驚異的なペースで突破した。

「すごいよみんな! このペースなら、十二時前には山頂に着ける!」

穂乃果が笑顔で振り返った、その直後だった。

木々が急に途切れ、目の前に赤茶けた泥と鋭い岩がむき出しになった、高さ十メートルほどの急峻な『露岩帯(ろがんたい)』が立ちはだかったのだ。

「きゃあっ……!?」

前日の夜露で濡れた粘土質の赤土に足を取られ、麗華の革製の高級トレッキングシューズがツルリと滑った。

とっさに目の前の冷たい岩肌に両手でしがみついた麗華の顔から、サッと血の気が引いていく。

「う、嘘ですわ……! こんな泥だらけの垂直の岩場、手を離したら下まで滑り落ちてしまいますわ……っ!」

お嬢様のプライドも忘れ、泥まみれの岩にへばりついて一歩も動けなくなった麗華。

その頭上から、軽々と岩場を登り切ったアキラが、挑発するように不敵な笑みを浮かべて見下ろしていた。


お読みいただきありがとうございました。

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