最初の試練、奥多摩・鷹ノ巣山
「――っ、だめだ! ここの斜面、狭すぎて荷物を全部広げたらガラス瓶が谷底まで転がり落ちちゃう!」
傾斜三十度の杉林の途中で美咲のザックを閉じた穂乃果は、悔しそうに唇を噛んだ。
重心が底に偏った最悪のパッキングを今すぐ直したかったが、足元は木の根がむき出しの細い急坂で、茶器やマカロンの箱を並べるスペースなどどこにもない。
しかも、顔を上げれば――。
「すっごいよマヤ! あの上の『稲村岩』、完璧なオーバーハング(前傾壁)じゃん!」
「うん、風が岩壁にぶつかって上昇気流になってる。あの上の鞍部まで一気に抜けよう」
先頭を行くアキラとマヤが、木々の隙間からそびえ立つ巨大な石灰岩の岸壁に目を輝かせ、まるで重力など存在しないかのように軽やかな足取りでグングンと高度を上げ始めていた。
(ま、まずい! これ以上離されたらパーティーが分断されちゃう!)
山において、メンバーの視界が切れるほどの分断は道迷いや滑落に直結する最大のタブーだ。
穂乃果はとっさの判断で、美咲と麗華のザックの『ウエストベルト(腰ベルト)』だけをギュッと強く締め直した。
「二人とも、今は腰のベルトに重さを乗せて耐えて! この上の『稲村岩のコル』まで登れば、荷物を広げられる平坦な広場があるから、そこまでなんとか食らいつくよ!」
「わ、わかりましたわ……!」
「うぅ……が、がんばる……っ!」
そこからコルまでの四十分間は、美咲と麗華にとって文字通りの地獄だった。
一歩足を上げるたびに、背中の底で十キロの鉄器とガラス瓶がゴulと揺れ、容赦なく体力を削り取っていく。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥から鉄サビのような味が込み上げる。
それでも二人が足を止めなかったのは、先頭のアキラたちと自分たちの中間に立ち、何度も振り返っては「あと少し! その木の根は滑るから右足を置いて!」と声をかけ続ける穂乃果の背中があったからだった。
そして午前九時四十分。
ジグザグの急坂を抜け、冷たい風が吹き抜ける小さな尾根の鞍部――標高千百メートル付近の『稲村岩のコル』に、なんとか五人が辿り着いた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! や、やっと平らな場所に着いたぁ……! ねぇ、山頂は……もうすぐそこ、だよね……?」
美咲が膝に手をつき、汗で張り付いた前髪をかき上げて前方を見上げた。
だが、その瞳に映ったのは、ゴールではなかった。
コルから先の尾根道は、終わりどころか、これまで以上の角度で天に向かってそびえ立っていたのだ。紅葉したブナやミズナラの原生林が、まるで行く手を阻む巨大な壁のように頭上はるか高くまで続いている。
「……ここから先が、稲村岩尾根の本当の核心部だよ」
コンパスと高度計を確認していたマヤが、静かに言った。
「山頂の鷹ノ巣山まで、残り標高差六百メートル以上。この上の『ヒルメシクイノタワ』まで、一箇所も平坦な場所はない」
その言葉を聞いた瞬間。
ぷつり、と美咲の中で張り詰めていた糸が切れた。
「……あ、あはは。無理、だよぉ……」
ドサッ、と鈍い音を立てて、美咲がその場の落ち葉の上にへたり込んだ。
一度座り込んでしまうと、重さ十キロのザックが錨のように肩に食い込み、もう指一本動かす力も残っていなかった。太ももの筋肉が小刻みに痙攣し、荒い息とともにポロポロと悔し涙がこぼれ落ちる。
「ご、ごめんね、穂乃果……。私、もう足が鉛みたいで、一歩も動かないや……」
「美咲さん……!」
隣にいた麗華も、泥と汗で汚れた制服のスカートを押さえ、木の幹に寄りかかって肩で息をしている。
その様子を見たマヤは、自分の腕時計に目を落とし、氷のように冷静な声で告げた。
「現在、午前九時四十五分。十月下旬の奥多摩は、午後四時半には日没で真っ暗になる。安全に下山するための山頂到着リミット(ターンアラウンドタイム)は、どんなに遅くても『午後零時半』」
マヤの青い瞳が、座り込んだ美咲と、立ち尽くす穂乃果をまっすぐに射抜いた。
「ここまでの登りのペースは、標準コースタイムの約二倍かかってる。このペースのまま進めば、山頂に着く前にタイムリミットを超える。……部長、これ以上は危険。部室は諦めて、今すぐ全員で下山(撤退)しよう」
「っ……!」
それは、冷酷な切り捨てではなかった。
山を知る者として、仲間を日没遭難させないための、あまりにも真っ当で正しい『撤退判断』だった。
「……やだ、よ」
落ち葉の上から、震える声が響いた。
顔を上げた美咲の瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちていた。
「私のせいで引き返したら、月曜日に部室が取り上げられちゃう……! あそこはね、山で傷ついた穂乃果が、やっと見つけた『自分のペースで笑える場所』なの! 私が運動音痴で、バカな荷物なんか詰めてきたせいで、穂乃果の大切な場所がなくなるなんて絶対にやだぁっ!!」
美咲は震える手でザックの肩紐を掴み、悲痛な声を振り絞った。
「だから……私をここに置いて、四人で山頂に行ってきて! 帰り道で私を拾ってくれればいいから、お願い、先に行ってぇっ!」
「――バカ言わないでよ!!」
鋭い声が、秋の尾根に響き渡った。
叫んだのは、腕を組んで黙っていたアキラだった。
「生徒会に出すのは『五人全員が写った山頂写真』でしょ! あんた一人置いて登ったって、何の意味もないじゃん! それにね、どれだけ足が遅くたって、途中で仲間を置き去りにして登るクライマーなんて、私は一番軽蔑する!!」
「わたしも同じ」と、マヤも強く首を振った。
「シェルパの誇りに懸けて、仲間を山に置いていくなんて絶対にしない。五人で登るか、五人で降りるか、その二つに一つだけ。……でも、今のままじゃ、物理的に零時半の山頂には届かない」
重苦しい沈黙が、冷たい尾根の風とともに五人を包み込んだ。
誰も悪くない。誰もが仲間を想っている。
それなのに、引き返せば部室は失われ、進めば暗闇の遭難が待っている。
「……うぅ、ごめんね、ごめんね穂乃果……」
顔を覆ってしゃくり上げる美咲の前へ、その時、誰かがゆっくりと歩み出た。
穂乃果だった。
穂乃果は落ち葉の上に片膝をつくと、自分のザックを下ろし、泣きじゃくる幼馴染の頭にそっと手を乗せた。
「泣かないで、美咲。美咲が持ってきてくれたお茶会セット、何一つ無駄になんかさせないよ」
顔を上げた美咲が、ハッと息を呑んだ。
そこにあったのは、普段のふにゃりとした「ゆるふわ部長」の顔ではなかった。
極限の氷壁を生き抜いてきた両親の血を継ぐ、澄み切った、絶対的な『指揮官』の瞳だった。
「マヤちゃん、アキラちゃん。撤退もしないし、誰も置いていかない。――午後零時半までに、必ず五人全員で鷹ノ巣山のてっぺんに立つよ」
穂乃果は立ち上がると、美咲と麗華の巨大なザックのバックルを、パチン、と小気味よい音を立てて解き放った。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




