装備過多の初陣
土曜日の朝六時半、JR青梅線の終点・奥多摩駅。
吐く息が白く染まるひんやりとした駅前ロータリーに、山岳部の五人が集結していた。
「おーっ、いい朝だね! 空気も乾燥してて、最高のフリクション(摩擦)が出そうだよ!」
シャカシャカと軽快な音を立ててストレッチをしているのは、一年生のアキラだ。彼女の背中には、最小限の水分と防寒着だけを入れたわずか十五リットルの超軽量トレイルランニング用パックが張り付いている。
隣に立つマヤも、年季の入った二十五リットルのザックを背負っているが、まるで自分の背中の一部であるかのように重心がピタリと安定していた。
「……ふたりとも、本当に身軽だねぇ」
両親のお下がりである色褪せた三十リットルザックを背負った穂乃果が、乾いた笑みをこぼす。
そして穂乃果の視線は、遅れて駅の改札から姿を現した幼馴染と財閥令嬢の二人へと向けられた。
「お待たせいたしましたわ、皆さま。今日も優雅に参りましょう」
「お、おはよ……。うん、天気よくてよかったね……」
麗華と美咲の背中を見て、穂乃果は思わず目をパチクリとさせた。
二人が背負っていたのは、日帰り登山には明らかに大きすぎる、新品の四十五リットルクラスの本格アルパインザックだったのだ。
「えっと、麗華ちゃん、美咲? 日帰りなのに、ずいぶんザックが大きくない?」
「ふふっ、山頂で最高のアフタヌーンティーを開くための『秘密兵器』が詰まっておりますのよ。パッキングは几帳面な美咲さんが、昨日の夜に完璧に仕上げてくださったんですの」
「そ、そうだよ! デッドスペース(隙間)は一ミリもないからね!」
親指を立てる美咲の笑顔が、心なしか引きつっている。
だが、生まれつき整理整頓に異常なこだわりを持つ美咲のパッキングは、外見だけは芸術的だった。ザックの表面にはシワひとつなく、綺麗な円筒形にピンと張っているため、穂乃果も「中にふわふわの防寒着でもたくさん詰めてるのかな」と納得してしまったのだ。
――しかし、後ろから二人の足元を観察していたマヤとアキラだけは、まったく別の事実に気づいていた。
「……ねぇアキラ。あの二人の登山靴のソール(靴底)、見て」
「うん、ビブラムソールの硬いゴムが、アスファルトの上で半分近く沈み込んでるね。しかもショルダーハーネスの食い込み方……あれ、中身が十キロ以上ないと絶対に出ない沈み方だよ」
「標高差千百メートルの急登に、あえて十キロ超のウェイトを担いでくるなんて……。おっとりした顔をしながら、いきなり高所歩荷トレーニングをするつもりなんだ」
「ククッ、やっぱこの山岳部、ただ者じゃないね! 燃えてきたよ!」
後輩二人が勝手に戦慄し、闘志を燃やしていることなど露知らず、一行は路線バスに揺られて登山口のある『東日原』バス停へと降り立った。
標高六百三十メートル。
バスが排気ガスを残して走り去ると、周囲は一気に深い渓谷の静寂に包まれた。目指す鷹ノ巣山の標高は千七百三十六メートル。ここから山頂まで、生徒会書記・氷室が突きつけた監査基準をはるかに上回る「標高差千百六メートル」の直登が始まる。
「じゃあ、氷室さんに提出するGPSログの記録、スタートするよ!」
穂乃果が腕時計型のGPSロガーのボタンを押した。
渓谷の橋を渡り、巨大な石灰岩の岸壁に抱かれた神社を抜けた瞬間――道は突如として、牙を剥いた。
「……っ、はぁ、はぁ……えっ、ちょ、ちょっと待って……!?」
登山道に入ってわずか十五分。
杉の木の根と鋭い岩が階段状に絡み合う、傾斜三十度近い急斜面。美咲と麗華の呼吸が、早くも壊れたオルガンのように乱れ始めた。
「な、なんですの、この壁のような坂道は……! こんなの、階段ではなくてハシゴですわ……っ!」
「う、うしろに……背中が後ろに引っ張られて、首が締まるぅぅ……!」
足を前に出そうとするたびに、二人の上半身が見えない巨人に後ろから掴まれたようにグワングワンと仰け反っている。
先頭を歩いていた穂乃果が異変に気づき、慌てて美咲の背後へ回り込んだ。
「美咲、どうしたの!? なんか歩き方がおかしいよ、ちょっとザックの下を持つね――って、うわあああっ!?」
美咲のザックの底を両手で持ち上げた瞬間、穂乃果の手首がミシリと悲鳴を上げた。
「お、重っ!? なにこれ、岩でも詰まってるの!? ちょっと一回おろして!」
狭い登山道の脇でザックを下ろさせ、雨蓋のファスナーを開けた穂乃果は、自分の目を疑った。
一番上に丁寧に詰められていたのは、銀座の高級マカロンの化粧箱と、折りたたみの銀製三段ケーキスタンド。さらにその下から、プチプチの緩衝材に厳重に包まれたボーンチャイナのティーカップが五客。
そして、ザックの一番底から現れたのは――。
「……な、南部鉄器の急須に、フランス製の鋳鉄ティーポット!? しかもこのガラス瓶、なに!?」
「お、奥多摩の湧き水は軟水すぎて、ダージリン・ファーストフラッシュの繊細な水色が出ませんもの! フランスから取り寄せた一リットルのガラス瓶入りミネラルウォーターを、二本ずつ入れていただきましたわ!」
胸を張る麗華の横で、美咲が膝から崩れ落ちながら補足する。
「う、上のマカロンとケーキスタンドが潰れないように……一番重い鉄のポットとガラス瓶を、ザックの一番底に隙間なく敷き詰めたの……!」
「バカァァァッ!!」
穂乃果の絶叫が、奥多摩の深い杉林に木霊した。
「ふたりあわせて二十キロ以上の茶器とガラス瓶って、正気なの!? しかも登山ザックっていうのはね、軽いものを底に入れて、一番重いものは『背中の肩甲骨の近く』にパッキングするのが鉄則なの! 一番底に鉄の塊なんか入れたら、重心が低すぎて後ろに引きずり倒されるに決まってるでしょーっ!!」
道理で歩き始めてすぐにバテるはずだ。ただでさえ十キロを超える異常な重量に加え、重心が極端に低い「最悪のパッキング」によって、二人は一歩ごとに通常の倍以上の体力を削り取られていたのである。
「じ、じゃあ、この茶器はどうすれば……! バス停のコインロッカーに預けてきますわ!」
「東日原のバス停にコインロッカーなんてないよ! それに次のバスは二時間後だし、今から山を下りたらGPSの連続歩行ログが途切れて、月曜日に即・廃部だよ!」
山の中にゴミとして捨てることは論外。バス停に戻ることも、引き返すことも許されない。
つまり彼女たちは、この重さ合計二十キロを超える「優雅なお茶会セット」を背負ったまま、標高差千百メートルの急登を登り切るしかなくなってしまったのだ。
見上げれば、木々の隙間から『稲村岩』と呼ばれる巨大な垂直の石灰岩壁が、まるで処刑台のギロチンのように一行を見下ろしていた。
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