生徒会の冷徹な監査
「――いい? 二人とも、落ち着いて聞いてね。昨日マヤちゃんとアキラちゃんが指差した奥多摩の『鷹ノ巣山』だけど……あそこ、ケーブルカーなんて影も形もないからね」
翌朝。始業前の旧校舎三階、山岳部部室。
穂乃果が深刻な顔で切り出すと、紅茶を淹れていた麗華と、長机に頬杖をついていた美咲の動きがピタリと止まった。
「……え? ケーブルカーがないなら、どうやって山頂のカフェまで登るのよ?」
「カフェもないし、舗装路もないよ。登山口から山頂まで、標高差千百メートル。東京タワー三本分以上の高さを、ずーっと自分の足だけで直登する『奥多摩三大急登』のひとつなの!」
ガシャン、と麗華の手から銀のティースプーンが落ちた。
「と、東京タワー三本分を徒歩で!? そんなの、お散歩ではなくて苦行ですわ!」
「ちょっと穂乃果! なんで昨日その場で却下しなかったのよ!?」
詰め寄る美咲に、穂乃果はキュッとブラウスの裾を握りしめた。
昨日、地形図の『稲村岩尾根』という文字を見た瞬間、穂乃果の脳裏には幼い頃の記憶がフラッシュバックしていたのだ。
世界的な先鋭アルピニストである穂乃果の両親は、極限の氷壁に挑み続けた代償として、二人とも重度の凍傷で手の指をいくつも失っている。
幼い穂乃果にとって、山とは「大好きな両親から指を奪っていく恐ろしい場所」だった。小学校の授業参観で両親の手を見た心無いクラスメイトから、「指がないなんてヤクザの娘だ」と後ろ指をさされ、泣きながら帰宅した日もある。
山なんて大嫌い。けれど、両親が命を懸ける山の美しさも、叩き込まれた技術も、血に刻まれていて消えてくれない。
そんな引き裂かれそうな思いを抱えて高校に入学した穂乃果の背中を押し、当時部員ゼロで放置されていたこの部室へ引っ張り込んだのが、他ならぬ幼馴染の美咲だったのだ。
『ならさ、私たちが「山」の定義を変えちゃおうよ! 誰も凍傷にならない、指も失わない、ケーブルカーとお菓子だけの平和な山岳部をここで作ろう!』
あの時の美咲の言葉に救われたからこそ、穂乃果はこの「標高ゼロメートルのベースキャンプ」だけは絶対に失いたくなかった。そして、せっかく築いたぬるま湯の楽園を、再び過酷な登山で汚すつもりもなかった。
「……大丈夫。私に作戦があるの」
穂乃果は二人の顔を交互に見て、小さく人差し指を立てた。
「まずは今日、五人分の入部届を生徒会に出して、部室没収を回避する! でね、週末の当日は『天気が崩れそうだから、部長の判断で安全な高尾山のケーブルカーに変更します!』って言って、あの子たちを丸め込むの!」
「「……それだわ!!」」
美咲と麗華の顔に、パァッと生気が戻った。
入部届さえ受理されてしまえばこっちのもの。山の現場ではリーダーの判断が絶対だ。
三人は勝利を確信した笑みを浮かべ、意気揚々と生徒会室へと乗り込んだ。
「――五名分の入部届、確かに確認しました。期限内に人数を揃えたことだけは評価します」
生徒会室のデスクで書類を受け取った書記の氷室は、銀縁眼鏡の奥の瞳を細め、悔しそうに唇を引き結んだ。だが次の瞬間、氷室はフッと冷酷な笑みを浮かべ、別の一枚の書類を机の上に滑らせた。
「ですが、あなたたちが『当日は適当な理由をつけて、高尾山にケーブルカーで登って写真だけ撮ろう』などと企んでいることは、すべてお見通しです」
「「「ギクッ!!」」」
見事に図星を突かれ、三人の背筋が凍りつく。
氷室は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、逃げ場を完全に塞ぐように冷徹な声を響かせた。
「同好会への格下げを免れるための『活動実績監査ルール』を以下の通り通達します。第一に、ケーブルカー、リフト、登山鉄道などの索道が存在する山は、一切活動実績として認めません」
「なっ……!?」
「第二に、山頂での写真に加え、登山口から山頂まで『自力で標高差八百メートル以上を連続歩行したGPSのトラックログ』の提出を義務付けます。そして第三に、安全管理の観点から、本日放課後までに提出された『登山計画書』のルート変更は一切認めません。当日、勝手に高尾山へ変更した場合はその月の活動は無効――すなわち、週明けの月曜日に部室を明け渡してもらいます」
「ひ、標高差八百メートル以上!? しかも計画書の変更不可って……そんなのあんまりですわ!」
麗華の抗議にも、氷室は眉一つ動かさない。
退路を完全に断たれ、穂乃果たちが絶望の淵に立たされた――まさにその時だった。
ガラッ! と生徒会室の扉が勢いよく開き、アキラとマヤの二人が飛び込んできた。
「あ、いたいた! 部長、昨日の『鷹ノ巣山・稲村岩尾根コース』の登山計画書、マヤと一緒に全部書いておいたよ!」
「エスケープルートも、水場の位置も、日没からの逆算タイムも完璧。あとは生徒会のハンコをもらうだけ」
「ま、待って二人とも! その計画書は出さないでぇぇっ!!」
穂乃果が悲鳴を上げて手を伸ばしたが、一歩遅かった。
マヤの手から差し出された登山計画書を、氷室がスッと受け取ってしまったのだ。
(あ……終わった。でも待って? 氷室さんは安全管理にうるさいから、『こんな標高差千百メートルの急登、初心者には危険だから却下!』って突き返してくれるはず……!)
穂乃果が最後の希望にすがりついたのも束の間。計画書に目を落とした氷室の表情が、見る間に驚愕へと変わっていく。
「なっ……何ですか、この計画書に添付されたメンバーの経歴書は……!?」
氷室の手が微かに震えていた。
「一年・橘アキラ、スポーツクライミング・ユース世界選手権優勝……!? 二年・マヤ・シェルパ・シュミット、冬季ヨーロッパアルプス縦走経験あり……!? さらに部長の穂乃果さんまで、小学生時代に厳冬期の八ヶ岳や北アルプス三千メートル峰の登頂記録があるですって……!?」
「あ、あれは小学生の頃に親に無理やり連れて行かれただけで……!」
「黙りなさい! マヤさんが添付した高体連基準のリスク評価シートも、装備計画も、悔しいですが一分の隙もありません……! これだけの実績と計画書を出されては、生徒会として安全上の理由で却下する根拠が1ミリも見当たらないじゃないですか……!」
氷室はギリギリと奥歯を噛み締めると、半ばヤケクソのように生徒会の承認印を『バンッ!』と計画書に叩きつけた。
「……結構です! 今週末の『奥多摩・鷹ノ巣山、標高差千百六メートル直登計画』、正式に受理しました! ただし、1メートルでもGPSログが足りなければ即刻廃部ですからね!!」
承認印が押された計画書を突き返され、穂乃果は魂が抜けたように立ち尽くした。
そんな部長の引きつった顔を、アキラとマヤはキラキラと尊敬の眼差しで見つめていた。
「さすが穂乃果部長だね、マヤ。冬山三千メートル峰の経験者だったなんて、道理で部室に厳冬期用のテントが転がってるわけだ」
「うん。最初は優しい顔をして爪を隠してるけど、中身は本物のアルピニスト。私たちを試すために、あえて紅茶を飲んで余裕を見せてたんだね」
(ちがうよぉぉ! ただお茶を飲んでダラダラしてただけだよぉぉっ!!)
穂乃果の心の絶叫は、誰にも届かない。
しかも、生徒会室を出た帰り道、美咲と麗華の二人はショックから立ち直るどころか、妙な方向に闘志を燃やし始めていた。
「……こうなったら美咲さん、意地ですわ。たとえ自分の足で登ることになろうとも、山頂で最高に優雅な本格アフタヌーンティーを開いて、あの野生児二人を私たちの『ゆるふわスタイル』に屈服させてやりますわよ!」
「うんっ、絶対に負けられないね! 最高の茶器とポット、私が責任を持ってパッキングするから!」
こうして、退路を完全に断たれた山岳部五人の初陣が決まった。
美咲と麗華が企てる「山頂の優雅なお茶会」が、翌日の登山口でとんでもない大惨事を引き起こすことになるとも知らずに――。
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