窓際の雪女と二人の誤算 部室没収のタイムリミットまで、残り六日。
奇跡的に四人目の部員・橘アキラを確保した翌日、穂乃果たち三人は、最後の五人目を求めて二年生の別クラスが並ぶ北校舎へと足を踏み入れていた。
「……ねぇ、なんで十月下旬なのに、この廊下だけ真冬みたいに寒いの?」
美咲がカーディガンの襟元をかき合わせ、ブルッと肩を震わせる。
無理もない。廊下の突き当たりにある二年C組の教室だけ、北側の窓がすべて全開にされ、木枯らしがビュウビュウと吹き込んでいたのだ。
教室の生徒たちは皆、ストールやひざ掛けにくるまって震えながら、窓際の席を遠巻きに見つめている。
「あそこにおりますのが、先月ドイツから編入してきたマヤ・シェルパ・シュミットさんですわ。ついたあだ名が『窓際の雪女』。近づくと凍死すると恐れられていて、まだどの部活にも所属していないそうですの」
麗華の解説に頷きながら、穂乃果は恐る恐る窓際の席へと歩み寄った。
そこには、透き通るような銀髪を風に揺らし、窓枠に頬杖をつく一人の少女がいた。
少女――マヤは、冷たい北風を胸いっぱいに吸い込むと、どこか苦しげに眉を寄せた。
「……はぁ。東京は空気が濃すぎて、水の中にいるみたいに息苦しい……」
「く、空気が濃すぎて息苦しい!? あんた、どこの惑星の生き物よ!?」
思わずツッコミを入れた美咲に、マヤが氷のように澄んだ青い瞳を向ける。
彼女にとって、それは紛れもない事実だった。エベレストの無酸素登頂記録を持つネパールの伝説的シェルパの祖父と、ドイツの著名な女性アルピニストの祖母。その血を濃く受け継ぎ、標高三千メートルを超える高地で育った彼女の肉体は、海抜ゼロメートルの高い気圧と湿気が、文字通り「重くて暑苦しい」のだ。
「マヤさん、でしたわね。もしよろしければ、私たちの山岳部で最高級のスイーツでもいかがかしら?」
麗華が優雅に微笑みかけたが、マヤは「甘いものは喉が渇く」と素っ気なく視線を窓の外へ戻してしまった。
(だ、だめだ……お菓子作戦が通じない!)
焦った穂乃果が、「あのっ、ちょっとだけ話を――」と一歩踏み出した、その瞬間だった。
ピクリ、とマヤの細い眉が動いた。マヤの視線が、穂乃果の足元へと吸い寄せられる。
「……あなた、今の歩き方」
「え?」
「かかとから着地せず、靴底の全体で床を捉えて、頭の高さが1ミリもブレていない。『フラットフィッティング』……。急斜面で体力を消耗しないための、熟練のアルピニストの歩法」
マヤがスッと立ち上がり、穂乃果の目の前まで迫ると、小動物のようにくんくんと鼻をひくつかせた。
「それに、あなたの袖口から……よく乾燥したイソブタンガスと、何年も火にかけられた古いチタンの匂いがする」
「うわっ、鼻が良すぎるよ! あ、あれはね、うちの部室、旧校舎の三階ですごく風通しがいいの! そこで毎日、両親のお下がりのエベレスト遠征用チタンケトルでお茶を淹れてるから……」
穂乃果が慌てて弁解すると、マヤの氷のような瞳に、パッと星のような光が灯った。
「エベレストの装備がある場所……。そこに行けば、高い山の空気が吸える?」
「えっ? あ、うん! 三階だから、ここよりはちょっとだけ標高高いし、風も気持ちいいよ!」
半分以上は誤魔化しだったが、マヤはコクリと深く頷き、自ら入部届を手に取った。
「わかった、山岳部に入る。私、マヤ。よろしく、部長」
こうして、期限ギリギリで五人の部員が揃った。
だが、穂乃果たちは気づいていなかった。自分たちが招き入れた二人目の新入部員が、アキラとは別ベクトルの「正真正銘の山の怪物」であることに。
その日の放課後。
旧校舎三階の部室には、山岳部の五人が初めて顔を揃えていた。
「では、新入部員のお二人を歓迎して……乾杯ですわ!」
麗華がウェッジウッドのティーカップを掲げる。
だが、向かいに座る一年生のアキラと、二年生のマヤは、紅茶には目もくれず、互いを値踏みするようにじっと見つめ合っていた。
「……へぇ。あんた、いい体幹してるね。その異常に発達した胸郭、かなりの高所順応型でしょ」
「アキラこそ、すごい指のタコ。人間の指じゃないみたい。岩に吸い付くヤモリの足」
「ふふっ、言ってくれるじゃん。あんたとはいいザイルパートナーになれそうだよ」
初対面でいきなりバチバチと火花を散らし、勝手に意気投合する二人。
その異様な空気に、美咲が穂乃果の脇腹をツンツンと突いた。
「ねえ穂乃果……あの子たち、私たちのゆるふわなお茶会空間から明らかに浮いてるんだけど。本当に大丈夫なの?」
「だ、大丈夫だよ! 今週末の最初の山行で、ケーブルカーと美味しいお団子の素晴らしさを教え込めば、きっと私たちのペースに染まってくれるって!」
穂乃果は自分に言い聞かせるように頷くと、パンッと手を叩いた。
「えーっと、それでね! 生徒会に提出する『五人での山頂写真』を撮るために、今週末、みんなで山に行こうと思うんだけど……二人はどこか行きたい場所とかある?」
『高尾山って言え……! ケーブルカーのある高尾山って言え……!』
穂乃果が心の中で必死に念じる。
すると、マヤがすっと立ち上がり、部室の壁に貼られた古い二万五千分の一の地形図へと歩み寄った。そのまま迷いのない手つきで、地図の西側――等高線が黒く潰れるほど密集したエリアをトン、と指差した。
「足慣らしなら、ここがいい。奥多摩の『鷹ノ巣山』。標高1,736メートル。尾根の風がすごく綺麗そう」
マヤの指先を覗き込んだアキラが、獰猛に目を輝かせた。
「おっ、いいじゃん! 見てよこの『稲村岩尾根』ってルート、途中に巨大な岩壁のマークがあるよ! 決まりだね、ここに行こうよ部長!」
その瞬間、美咲と麗華の顔がパァッと明るく輝いた。
「まあ、奥多摩! 紅葉の渓谷と湖畔のカフェ巡りですわね、素敵ですわ!」
「な〜んだ、奥多摩のハイキングコースかぁ。高尾山みたいなもんだよね、よかったぁ!」
無邪気に拍手する美咲と麗華。
だが――山岳部の中で唯一、世界的アルピニストの両親に幼少期から引きずり回された経験を持つ穂乃果だけが、手元の入部届を握りしめたまま、顔面蒼白で凍りついていた。
(い、稲村岩尾根……!? ケーブルカーどころか、登山口から標高差1,100メートルを一気に直登する、奥多摩三大急登の筆頭じゃないかぁぁぁっ!!)
ここで「そんな山は無理」と言えば、二人は退部し、部室は即座に没収される。
引きつった笑顔で固まる穂乃果の頭上で、秋の夕暮れの風が、まるで死神の口笛のようにヒュウと窓枠を鳴らした。
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